第2話
「貴様! いったい何時だと思っているんだ!」
家に入るなり、父親の怒号が鳴り響いた。嫌な予感が的中した。外から陰鬱の象徴である我が家を見上げたら、部屋に電気がついていたからだ。『〇時二十分ですが、それがどうしたのですか?』などと言ってしまうと、火に油なので黙っておく。罵詈雑言が機関銃のように飛んできて、蜂の巣になっていく。
「ヒロの腕時計を盗んだのは、貴様だな!」
汚い言葉を打ち疲れた父親が、突然話題を変えた。僕は、首を捻りながら、顔を上げる。家に入って初めて見た父親は、般若の仮面を被っているようであった。
「・・・腕時計?」
「しらばっくれるな! 私がヒロに授けた腕時計だ!」
弟のヒロの誕生日に、父親がプレゼントしていた。小学生には不釣り合いな、高級腕時計だ。父親はこれ見よがしに、弟に送っていた。僕は、ここ数年、誕生日プレゼントなんか貰っていない。父親が自慢げに弟に時計を渡していた姿を思い出した。あの時の気持ちは、なんて表現すれば良いか分からない。勉強ができない僕に、愛想を尽かされた悲しみ。そして、重荷を弟に渡した安堵感。
「腕時計が、いつの間にか無くなっていたそうだ! この家で、貴様以外に誰が盗むと言うのだ!」
仁王立ちをする父親の背後を見ると、弟が俯いて椅子に座っていた。受験勉強を中断させ、同席させられている。これも父親の命令だろう。これで受験に失敗すれば、弟は酷く罵られるだろう。父親が欲しいのは、自分を満足させてくれる後継ぎだ。
勉強が苦手な僕は、愛想を尽かされ、私立中学の受験に失敗し、完全に見限られた。父親の自尊心を満たせない存在は、必要がないのだ。勉強が苦手な僕だけど、絵を描く事が好きだった。絵画コンクールで金賞を受賞した時、父親に褒めてもらえると思った。喜んでもらえると、胸が高鳴った事を覚えている。これで少しは、挽回できると期待した。しかし、金賞を取った絵を、父親にビリビリに破り捨てられた。こんなくだらない事に時間を費やすから、成績が伸びないのだとお気に入りの絵画セットを捨てられた。
僕は、母親を見た。当時、僕の描いた絵を褒めてくれ、金賞を取った時も喜んでくれた母親の姿はどこにもない。項垂れるように椅子に腰かけ、膝の上で組んだ両手を眺めている。昔は、父親の目を盗んで母親と一緒に絵を描いていた。あの時の母親の笑顔が、まるで夢だったかのように、最近では怯えた顔しか見ていない。
「腕時計なんか知らないよ。あいつが無くしたんじゃない?」
「親に向かってなんだその口の利き方は? 優秀なヒロが無くす訳ないだろ! 貴様が盗んだに決まっている!」
僕は、弟の腕時計なんか、盗んでいない。昔、疑問に感じ友人に訪ねた事があった。結果は予想通りで、敬語を強要する親は一人もいなかった。
この家は、なんか変だ。
独裁的な父親。父親の言いなりで、僕を見下す弟。父親の顔色ばかりを伺い、奴隷のような母親。
「勝手にしてくれよ。僕はやってない。そんなに信用できないなら、警察にでも突き出せば良いだろ?」
「そんなみっともない事できるか! 白状しろ! 貴様がやったんだ!」
何を言っても無駄な事は分かっている。馬鹿馬鹿しくなった僕は、踵を返して部屋から出ていく。
「ちょっと待て! まだ、話は終わっていないぞ! ん? 貴様、ピアスを空けていないか?」
無視をして、歩いていく。このままここにいたら、話が終わるのは、僕が罪を認めた時だ。認めるもなにも、僕はやっていない。
「中学生の分際で、なにを考えているんだ! 親からもらった体に、勝手に穴を空けて、何様のつもりだ!」
文句を言いたいだけの父親に、関わりたくもない。背後からぶつかってくる言葉の刃に、必死に歯を食いしばった。急いで靴を履いて、玄関を飛び出した。
「アキ!」
追ってきた母親の声を聴きながら、夜の闇に溶け込んでいく。
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