220●『おたくのビデオ』(1991)⑦「権威へのアンチテーゼ」

220●『おたくのビデオ』(1991)⑦「権威へのアンチテーゼ」



 『おたくのビデオ』(1991)は、前半の“オタクのビデオ1982”と、後半の“続・おたくのビデオ1985”で構成されています。

 この後半には、作品が制作された1991年以降を描く「未来予測」となる物語が含まれています。

 主人公たちが快進撃を果たし、“日本オタクランド”の開園に邁進するのですが、1999年から物語のラストに至る2035年までの36年間の歴史は暗黒のブラックボックスにされています。


 その間に、私たちの実際の歴史では何が起こったのか?


 「オタク文化の権威オーソリティ化」ですね。


 具体的には、それまで下賤なシモジモ大衆の雑駁なサブカルチャーとして、まっとうなオトナがリスペクトする対象ではなかったアニメや漫画といったオタク文化の産物が、その作者とともに公立の美術館や博物館に続々と「殿堂入り」していったことです。


 まずは大小様々でしたが、漫画家個人を讃える記念館が各地にオープンしました。

 東京の「長谷川町子美術館」(1985)から、宮城県石巻市の「石ノ森萬画館」(1994)、鳥取県境港市の「水木しげる記念館」(2003)のほか、「藤子・F・不二雄ミュージアム」(2011)、東京都豊島区に「トキワ荘マンガミュージアム」(2020)などが知られていますね。

 オタクなファンのために、聖地巡礼のご本山として、あるいは作者ゆかりの地を盛り立てる町おこし事業として……


 そして……

  「宝塚市立手塚治虫記念館」(1994)

  「三鷹の森ジブリ美術館(正式名称:三鷹市立アニメーション美術館)」(2001)

  「京都国際マンガミュージアム」(2006)……運営は京都市と京都精華大学。


 この三施設が、当時、かなり大きな社会的インパクトを残したと記憶しています。

 いや本当に驚きました。

 上から目線のニッポンのお役所が率先して、鼻息も荒くオタク文化の保存展示に乗り出したとは!


 それまでの世間では見下される一方だったオタク文化が、晴れて公共性の高い文化として、オトナ社会に認められたのですね。

 ひとつの転機として、東京大学で自由研究ゼミながら“オタク文化論(1996-97)”の講義がなされたことがありますね。それに関連して岡田斗司夫先生の『オタク学入門』(太田出版1996)が出版されたのもこの時期です。


 すでに述べましたように、これ以降、アニメやコスプレといったオタク文化を後押しするために、政府の省庁肝いりで、「➀権威コンテストづけ」と「②補助金マネー 」の施策が講じられていったわけです。


 しかしこれら「オタク文化の権威化」は、『おたくのビデオ』の未来予測を明らかに超えていました。

 『おたくのビデオ』で主人公が目指したのは自力で建設する“東京オタクランド”。

 しかし現実には、世紀末から2010年代にかけて、ニッポン全国が官製のオタクランドと化していったわけです。もちろん私設のオタクランドも、さまざまなテーマパークとなって、全国の津々浦々で集客に励んでいますね。

 これが2020年代の今は、ガイジンさんの観光客もせっせと集めます。

 ニッポンはまるごと、世界のオタクランドと化したわけです。

 しかも2024年の今、トンデモな円安で超お得!


       *


 この国は今や、世界に向けて大安売りを仕掛けています。

 オタク文化の一大バーゲンセール。

 それが国策みたいですね。


 しかしいずれ、安売り戦略はしっぺ返しを食うだろうと思います。

 それはつきつめると、アニメの「生産能力の安売り」につながるからです。

 1980年代以降、ニッポンのアニメは海の向こうのK国やC国に制作の下請けを発注していました。『おたくのビデオ』でも、C国に大規模な工場を建設するエピソードがありますね。

 そのキモは、人件費が安いこと。


 狂乱の円安が長引いたら……

 ニッポンの立場は逆転し、K国やC国のアニメ産業の下請け工程を担うことになるでしょう。

 そのとき作品のコンテンツも、K国産やC国産に取って代わられることでしょう。

 だって今、深夜テレビに氾濫しているアニメのクオリティ、パッとしませんよね。早晩にK国やC国で日本産以上の品質の作品が制作されるようになっても不思議はないと思うのですよ。


 そのとき完璧に、ニッポンのオタク文化は根底から崩壊してゆくことでしょう。


       *


 それはともかく……


 世紀末からこっち……

 国内のオタク文化は「権威化され、国策化され、輸出産品化された」……と考えられます。

 では、国内のオタク文化は、これからどうなるのか?

 ニッポンの戦後に培われた作品の独創性は、この先、大丈夫でしょうか?


 世紀末以降のこの国の経済は、ひたすらに「格差の拡大」一辺倒でした。

 とりわけABノミクスが始まった2012年以降、国民の経済格差の拡大は凄まじい勢いで進みました。

 人工的に「株価を上げ、円安を誘導する」政策は、潤沢に金融資産を持つ富裕層に有利で、輸入食材を食って生きる庶民層は、物価高に苦しむことになります。

 その結果……


 オタク文化も格差拡大で二極化し、「高級オタク文化」と「低級オタク文化」にくっきりと分かれたように思います。


 「高級オタク文化」は、おおむね国策によって権威化された、ハイブラウなオタク文化です。

 美術館や博物館で麗々しく展示されるオタク文化のことですね。

 20世紀には庶民のおやつみたいなサブカルだったオタク文化は、いまや国策によって権威ある“象牙の塔”へ祀り上げられてしまったのです。


 代表格は、ジ●リアニメ(とその系列作品)。

 本場ハリウッドのアカデミー賞を繰り返し獲得したのですから、権威化は完成済みです。

 美術館もテーマパークも、現実のものとなっていますしね。

 いや、私はその事実を嘆くつもりはありません。

 歴史の必然という側面もあるでしょう。

 私が嘆くのは、「精神的な権威化」です。

 ジ●リアニメ(とその系列作品)が、オタクたちの心の闇に「神聖にして侵すべからざるもの」として擦り込まれ、無条件に、ただ崇め奉るべき対象として神格化されることですね。


 そうでしょう?

 ジ●リアニメ(とその系列作品)にケチをつけるとか、くだらないと言い放つ人は、まず、ネットのどこにも見当たりませんね。

 だれもが賞賛します、無条件で。

 ディ●ニーアニメもそう。ハ●ー・ポッターの映画もそう。

 ルンルン気分でテーマパークに詣でます。

 だれもが絶賛します、無条件で。

 まあ、その辺にちょっとしたキモチワルサを感じたりもするのですが。


       *


 たとえば、『●と千尋の神隠し』の、永遠の謎とされる場面。

 ラスト近くで、なぜ千尋は両親が10匹の豚の中にいないことがわかったのでしょうか?

 これ、極めて大事な場面なのですが、理論的に筋道立てて説明することが、どうしてもできません。

 それはそれでいいのでしょうが、一観客として、疑問点は疑問、この点は作品の説明不足であり、いわば致命的な欠陥だと感じてしまいます。

 同じ作者の20世紀の作品、『も●のけ姫』くらいまでは筋道立てて納得できた結末が、21世紀に入ってから、わからないならそれでいい……的な、どことなく雑な作りになってきたような気がするようなしないような……

 あ、あくまで私の個人的な感想ですよ。


 また『風●ちぬ』では主人公の声に関するご意見が色々とネットに散見されましたが、そんなことよりも、主人公が実名で登場し、そこに堀辰雄の傑作『風●ちぬ』がミックスされて、一方で主人公の戦時中の現実の辛酸(零戦に乗る特攻隊への賛辞を書かざるをえなかったことなど)がスッパリとカットされていることなど、やはり主人公の“実際の人物像”を大きく歪曲された印象が拭えなかったことがとても気になります。

 堀辰雄氏の著作権は保護期間を過ぎているので合法でしょうが、過去の実在人物と名作小説が(それぞれが偉大なだけに)ゴッチャにされた人物造形の違和感は大きく、主人公の堀越二郎氏が(同姓同名の別人と解釈できるとはいえ)、いかにも美化され過ぎた感じで、かえって好きになれません。

 ああ、小澤さとる先生の『黄色い零戦』でアニメ化すればよかったのに……


 それから、ディ●ニーアニメでは、“アナ雪”のエルザが女王職を放り出して好き勝手やったあげく世界に厳冬をもたらす無責任さが鼻につきます。本人は「ちっとも寒くないわ」と涼しい顔でも、貧乏な国民はずいぶん凍え死んでいるはずで……

 あれ、凍死地獄のお話なんですよ、その他大勢のボンビー庶民にとっては。


 ハ●ー・ポッターのシリーズでは、魔物も幽霊もジャンジャン登場ですが……

 なぜか神様と天使と悪魔サタン(とか魔王様)が出てこない。

 魔物と幽霊がアリなら、神様抜きはどうにも不自然です。

 出てきたらお話が別な次元にすっ飛んでしまうからだろうな……とは思いますが、神様と天使と悪魔サタンが不在であることの解釈はキチンとして欲しかったと思います。

 一方、国産のアニメ『クロノクルセイド』(2003-04)や『純潔のマリア』(2015、原作漫画は2008-)は、この点に関して、苦心しながらも意味深いアンチテーゼを投げかけていますね。どちらも素晴らしいと思います。


       *


 これからのオタク文化のありようを決めるのは、要するに……

 今やすっかり権威化された作品群に対して、「いや、そうではなくて、こうではないか」とアンチテーゼを返す新作が、どれだけ活発に創り出されるか、ではないでしょうか。


 アンデルセンの『裸の王様』(1837)ではありませんが、真実だと思ったことを言うのにあれこれと忖度そんたくしなくてはならなくなった時、何事にも“王道”しかなくなった時、あるいは“定石”を外せなくなった時……そんなとき、一つの文化が壁に突き当たって、そのまま死んでしまうのではないかと……


 ミリタリーにいえば、ミッドウェー海戦のとき、南雲提督が“正攻法”にこだわって無意味な雷爆転装を繰り返したために勝機を逸し、自滅したようなものでしょうか。


 今、オタク文化に求められるのは、「高級オタク文化の“権威”へのアンチテーゼ」なのでしょう。



   【次章へ続きます】


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