217●『おたくのビデオ』(1991)④“忖度《そんたく》”という名の文化破壊者。
217●『おたくのビデオ』(1991)④“
今やオタク文化は「政府が主導して」います。
コスプレイベントは外務省と国土交通省。
アニメやゲームは経済産業省、そして文部科学省、文化庁。
2024年現在、オタク文化は立派な“国策文化”と化してしまいました。
文化を国策で後押しする方法は、概ね二つあります。
●第一は、“権威づけ”。
官製コンテストで順位をつけること。大賞を射止めた作品や人物はマスコミで大きく
なお民間のコンテストでも、お役所の“後援”などがあれば、何らかの形で“官製化”しているとみていいでしょう。
●第二は、“補助金”。
文化振興の基金などを設置し、すぐれた作品や作者とその活動に対して、金銭的な援助を行うことです。大規模なものでは“芸術文化振興基金 Japan Arts Fund”が1990年に設立され、日本の芸術文化の振興、普及に取り組む独立行政法人“日本芸術文化振興会”が運営、政府からの出資金541億円と民間からの寄付112億円からなり、その運用益によって芸術文化活動を助成しているとされます。
この“権威づけ”と“補助金”は、税金による原資がいくらかは投入されるわけですから、「国策による文化振興」と定義づけでもよろしいでしょう。
もちろん“国策による文化振興”には大きなメリットがあり、その対象が国内の文化活動であるにしても、日本文化を世界に向けて発信する上で大きな貢献をなしていることに疑いはないでしょう。
しかし問題は、“国策による文化振興”が宿命的に生み出す副産物、いや“副作用”と申し上げてもよさそうな現象を
それは、
第一の“権威づけ”、第二の“補助金”のいずれも、その恩恵を受けるためには、“審査”を通過しなくてはなりません。
そして審査員は人間(そのうちAIになるかもしれませんが)であり、当然、審査にあたっては「国策にかなうかどうか」というフィルターがかかると思われます。
そりゃそうでしょう。少なからぬ税金を投じた“政策”なんですから、その制度を使って“国策”に反する作品や作者を表彰し金品を授与するわけにはいかないでしょうね。そして“国策”の政策は、常に「上から目線」で実施されます。お役所が行う施策が市民に対して「下から目線の上目遣い」であったことは、ニッポンの歴史上一度も無かったと記憶しておりますしね。
まあ、それはそれでいいのですが、問題は“創り手”の方にふりかかってきます。
アニメであれゲームであれコスプレイベントであれ、政府機関の後援をもらって評価されて表彰されて、補助金をもらうために、その“傾向と対策”を考慮するのは、人間として無理からぬこと。
やはり、審査員に門前払いされるような、過激な内容とか政府に批判的な表現手法はどうしたものか……と、作品の制作段階で、
前述の芸術文化振興基金では、補助金が下りるのは、応募作品の半分以下から、おおむね三分の一あたりではないかと思います。補助金の額は十数万円から数千万円と、とても幅広い結果となります。
その審査基準にどうこう言うつもりは毛頭ございません。
ただ、税金が使われている以上、やはり「国策に反する」内容の作品は審査に通りにくいだろうなあ……と作家が忖度するのは、まあ納得ですよね。
それは作家だけでなく、作品に価値を認めて世に送り出すプロデューサーとか編集者、制作会社の経営者の意向にも強く影響を及ぼすことでしょう。
やはり、国策にそぐわない内容は、ちょっとやめておきたいもんだねえ……と。
これが、伝統芸能や伝統工芸や伝統芸術と称される分野……たとえば、歌舞伎とか日本画とか日本舞踊などの世界ならば、まあまあなるほどと納得ですが、よりによって“オタク文化”……漫画やアニメやゲームやフィギュアやコスプレイベントなんぞに適用されると、なんだか変なことになりはしませんか?
つまり、作り手のだれもが、“国策”を意識して、「国策文化たらんと欲す」とばかりに作品内容を
おそらく、カドが取れて円くなり、刺激の少ない、どれも似たり寄ったりの、変わり映えのしない、ちょっとキツく言えば“毒にも薬にもならない”無難なテンプレ作品ばかりになってしまう……のではないでしょうか?
オタク文化の“国策化”が表面化してきた、21世紀に入って数年のあたりから、そんな“テンプレ化”の傾向が出てきたような気がするのですが……
たとえば、アニメ。
ここ十数年のアニメ作品。
巨人が人間をバリバリと食ったり、鬼となった人の首がはねられて生首コロンコロンな残酷描写とかは、むしろ過激度を増したように感じますが、もっと肝心なところ……鑑賞する人の“魂をゆさぶり心躍らせる”ような、その人の現実の生きざまに化学反応を引き起こすような傑作は、とんと見られなくなったように思うのですが。
あ、あくまで私の個人的な感想に過ぎませんがね。
ヤマト→ガンダム→マクロス……と進んだオタク文化勃興期。
未来少年コナン→カリ城→ナウシカ→ラピュタ……と進んだ、ジブリアニメ系列の勃興期。
古くは手塚治虫、石森章太郎、横山光輝、そして、小沢さとるの諸先生方によって
萩尾望都、竹宮恵子、ふくやまけいこ、筒井百々子といった諸先生方による、女流SF漫画の世界の開拓。
そして、オネアミス→トップ→ナディア→エヴァへと進んだ、ガイナックス系列の画期的なアニメ作品。
『ヴイナス戦記』『アリーテ姫』『メトロポリス(2001)』といった意欲作。
『少女革命ウテナ』『ノワール』『カウボーイビバップ』『THE ビッグオー』に『TRIGUN』『ガンスリンガーガール』『シムーン』といった、前代未聞で画期的な作品。
それらはみな、オタク文化が“国策化”される前の、21世紀初頭までの時期に現れた作品群です。
それらと、2010年頃以降のアニメ作品とを比較したら、どうでしょうか?
まるで、作品の迫力が異なりませんか?
作画や色彩といった技術的なことは進歩したかもしれませんが、「魂をゆさぶり、心躍らせる」ほどの何かがあるのか、「観る人の生き様に化学反応をもたらす」効果があるのか、そして「目からウロコが落ちる」ような「感性のパラダイムシフト」をもたらしてくれるのか……そういった、作品のスピリットのような部分が、最近の作品には見えなくなってきたような……
あ、あくまで私個人の感想ですよ。
今の作家は、“国策にかなったオタク文化”であろうとするために、いろいろなことを制作過程で
そして……
この傾向はいまや、オタク文化の最底辺の裾野に位置すると思われる「ラノベ」にまで、支配力を及ぼしてきたのかもしれません。
*
『おたくのビデオ』(1991)に描かれた1982年から、主人公が
それは21世紀の“国策オタク文化”とはかけ離れた、むしろ、社会の常識を振りかざすオトナたちの偏見と闘う、野性的な文化でした。
オタクは社会に不適合な変態であるとされ、ちゃんとしたオトナからみて、概ね薄汚くて臭くてブサイクなイメージを引き摺っていました。
しかしそれでも、社会の固定概念に対する、見事なアンチテーゼを示すべく戦い、どうやら勝利を収めた……と考えてよさそうです。
『宇宙戦艦ヤマト』は1974年の放映時には、「右翼の軍国アニメ」と蔑まれたと記憶しています。視聴率もふるわず日陰の存在だったのですが、若きファンの熱気が野火のように広がって、1977年の劇場版でオタク世界を開闢しました。
『機動戦士ガンダム』(1978)は、「アニメのロボットなんて子供のオモチャ」だった時代に、本格的な兵器体系の概念を成立させ、オトナをうならせました。
『超時空要塞マクロス』(1982)は、当時の若者の最新の流行であったアイドルという世俗の文化を本格SFに取り込むことで、ただのデカルチャーだったオタク文化を神聖なプロトカルチャーの次元にまで高めました。
そもそも「オタク」なる二人称の普及はマクロスならではのこと。“オタク文化”の概念を成立させたのはマクロスあってのことでしょう。
そしてこれらの、良い意味で“オタクの文化大革命”とも言うべきムーブメントは、既成概念に凝り固まったオトナ社会の偏見に対する、強烈なアンチテーゼとなったわけです。
つまり、“伝統”という
当時のアニメ作品、とくにヤマト、ガンダム、マクロスは、視聴者にとって、まさに「目からウロコが落ちる」革命的で先鋭的な文化だったのです。
それが2024年の現在、消え失せてしまった。
コロナみたいな感染症にやられたかのように、オタク文化はパワーを減じて、形骸化したフラフラの存在……『千と千尋』のカオナシみたいな雰囲気の作品群に変貌しようとしています。
その大きな要因として、オタク文化の“国策化”が無関係とは思えないのですが……
つまり、作家自身の“
*
では、どうすればいいのか?
【次章に続きます】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます