203●『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-2021)②21世紀は“おひとりさま物語”と“家族愛至上主義”のせめぎあい

203●『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-2021)②21世紀は“おひとりさま物語”と“家族愛至上主義”のせめぎあい。



 『新世紀エヴァンゲリオン』の本質は、ファミリードラマ。

 「碇家の家族の物語」でした。

 まるで、架空の“ナチ化したトラップ一家”に降りかかる家庭内悲劇のように。


 この“ナチ化したトラップ一家”を、“怪しい新興宗教にトチ狂った碇家”とすれば、なんだか理解しやすいような……

 新劇場版第四作が公開された2021年ニッポンの、私たちの現実の家庭模様そのものではありませんか?


 ややこしい悪徳宗教“インパクト教”にハマって、財産をことごとく教祖ゼーレ様に寄進した挙句、子供達チルドレンにも入信と奉仕を強要する父ゲンドウ。

 たまたま近所付き合いで子供たちの面倒をみていたミサトお姉さんは、とうとう見かねて、子供達だけでもインパクト教から救い出そうとしますが、恋人の加持リョウジとともに悪徳教団の魔手に殺害され、そこで現実に目覚めた長男のシンジ君は、手作りの鉄砲で父ゲンドウを殺害……


 2022年夏の、あの元総理殺害事件の構図すら連想させられます。


 そんな架空家族モデルの不幸を想像しますと、壮大華麗なロボットバトルの凄さはさておいて、『エヴァンゲリオン』がリアルなニッポンの家庭像に秘められた病根と見事に重なってくるような……


 そのイメージは、より普遍的に、現実の若者たちが置かれた家庭環境にも拡大解釈できますね。

 子供の意思や適性を無視した、親からの理不尽な強制。

 いい大学、いい就職、いい結婚そして親孝行。

 マリ嬢やカヲル君みたいな天才なら、やすやすと適応できます。

 けれど、プレッシャーに耐えかねてメンタルが折れてしまう、アスカ嬢やシンジ君のようなケースもあるでしょう。

 親からの強制をひたすら親孝行として利他的に受け入れ続けた結果、まるで人形のように自我を失う、綾波レイというケースも生まれるでしょう。


 20世紀から21世紀にかけての、不遇なロストジェネレーションの若者たちは、このような「碇家の現実」にも直面していたのではないでしょうか。


 旧劇場版の直後に庵野監督が手掛けられた『彼氏彼女の事情』(1998)も、ちりばめられたギャグシーンを取り去れば、じつは相当にシリアスな家族ドラマの様相を呈してきます。

 “第15幕”で、「親に捨てられた少年と、親を捨てた少年。二人で何を話していたのだろう?」といったモノローグが見られるように、登場する二人の少年の、それぞれの親との関係、それから、主人公の少女・雪野の父親とその育ての親であった祖父との関係が丁寧に描写されています。

 そこには21世紀ニッポンに蔓延する格差社会も影を落としていて、単なるラブコメに終わらない、親と子の厳粛な宿命感すら漂ってきます。

 のちに「親ガチャ」と呼ばれる、「自分の親を選べない」現実に子供がどう対処していくのか……といった万古不変のテーマまで扱っていたことに驚かされるのです。


 作風はあくまでラブコメで、主人公の雪野からみて、自分の父親や、友人の男の子たちの親たちは、子供の自由を最大限に尊重してくれるベストペアレンツです。

 しかし、彼女の父親や友人の男の子たち本人からすれば、それぞれが、自分たちの実の親や育ての親たちとの間に複雑な感情とトラウマを抱えていることが浮き彫りにされます。

 ある意味能天気で明るい雪野嬢の描写に対して、彼女に近い男性たちが抱える親子関係の闇は見事な明暗の対照をなしています。


 これが、高度成長期以降の昭和を代表するラブコメ漫画で、連載当時、恋愛のバイブルとまで信奉された『みゆき』(1980-84)と比べて、『彼氏彼女の事情』の、一筋縄ではいかない深淵ディープサイドというべきでしょう。


 そんな『彼氏彼女の事情』に秘められた“父と子”の宿命的な葛藤が、エヴァ新劇場版の「シンジ君の父殺し」につながっていったのかと……


 キリスト教では“父殺し、子殺し”を厳格に禁じていて、聖書の中にもそのような事件は書かれていないとされます。旧約聖書では下記のように、“父殺し、子殺し”は恐るべき禁忌であり、いつか人類がそのような大罪を犯すことを予言の形で警告しているようにも見えます。


「あなたのしたすべての忌みきらうべきことのために、今までしたこともなく、これからもしないようなことを、あなたのうちで行なう。(エゼキエル書5章9節)

 それで、あなたのうちの父たちは自分の子どもを食べ、子どもたちは、自分の父を食べるようになる。(同10節a)」


 この“父殺し、子殺し”の禁忌に踏み込んだ『エヴァンゲリオン』。


 人類の宗教的タブーを犯しかねない、そんな物語展開こそが、『エヴァンゲリオン』が若者層に受け入れられ、かれらの心の奥底に入り込んで共感を得ることで社会現象にまで発展してゆく、その要因の一つとなったのではないでしょうか。


 エヴァの物語は、現実世界のロスジェネ=チルドレンたちの、ある意味、罪深いタマシイの彷徨そのものだったのかもしれませんね。


       *


 2024年の今、若者、特に女性たちは20世紀の世界名作劇場にみられる“家族愛至上主義”をするりと脱ぎ捨て、“おひとりさま物語”に傾倒しているように思えます。


 それが、エヴァにみられる家族ドラマに対する、現代女性の回答かもしれません。

 『彼氏彼女の事情』で親子関係に苦しみトラウマを抱えるのは男性たちであって、女性たちは意外にあっけらかんと“世渡り”していきます。


 男性よりも女性の方が、“親子のトラウマ”に対して強い免疫を持ち、割り切った回答を早めに出せるのかもしれませんね。


 「おひとりさま物語」とは、他者との関係に一定の距離を……ときには深いクレバスのような決定的な距離感を置いてでも、一人で我が道を生きていこうとする姿勢のことです。


 大ヒット中のアニメ『薬屋のひとりごと』、『葬送のフリーレン』も、主人公と他者との距離感が、冷たいほどにくっきりと開かれた、“女性のおひとりさま物語”という側面があると思います。

 猫猫もフリーレンも、他者の死に対して淡白な、ときに冷たいほどの視線を向けることがありますね。

 罪を犯した女官の刑死、あるいは実母(らしき女性)が病死してゆく運命に、あるいは魔法使いの資格試験で戦って死んでしまう受験者に対して、無関心なほど表情を変えないように見受けられます。


 あくまで個人的な感想ですが、『葬送のフリーレン』の一級魔法使い試験で、受験者同士が血みどろの戦いを繰り広げ、次々と死んでゆく、そのさまを試験官の一級魔法使いやフリーレン自身も当然のようにながめている様子には、いささか寒々しいものを感じました。

 いやもちろん、『ハリー・ポッター』でも校内でちょっとしたルール違反を犯せば死に直結していますね。試験も学校生活もそういうものだと承知すれば、死んでも自己責任の範囲なのでしょうが、死んだ本人が悪事を働いたわけではなく、家族も友人も恋人もあるかもしれない事実を思うと、「ご愁傷様……」だけでスルーしていいものかと。


 というのは、そこに社会の縮図を感じるからですね。

 敗者は死ぬ、それが社会の掟であり、敗けるのは自己責任だと。

 そこに、やるせないものを感じるわけです。

 ブラックな職場で働く人が自殺に追い込まれても、いぢめやパワハラをなかったことにして、シレッと無視して済ませる風潮ですね。


 でも、受験者の死を容認する魔法使い試験は、それ自体がかなりの悪事ではないのか?

 そのような試験に、どのような意味があるのか?

 そんなことを考えさせられます。

 試験の途中で死ぬ魔法使いは、必ずしも死罪に値する悪人ではない。

 それならば、社会にとって有益な魔法人材を、この試験で殺す、すなわち、“無意味に消耗”したことになります。

 たとえば魔族と人類が闘うときに貴重な戦力となる有能な魔法人材を、こんな試験で死なせることは、“人類全体の弱体化”につながるのではないか?


 むしろ人類にとって、ゼーリエこそ魔王と同格のあくではないのか?


 そんなことも思ってしまうわけです。


       *


 このように、他者の生死に対して冷淡、あるいは無関心でいられる“おひとりさま物語”の女性キャラたちは、“対人コスパ”なるものを重視しているのかもしれませんね。


 “対人コスパ”。

 人間関係を合理的に、かつ合目的に処理して、無駄な付き合いはしない。

 やるべきことを一人で決め、一人で突き進む。

 そのことで他者を翻弄しても、他者に翻弄されることはない。


 2024年の本屋大賞を受賞した『成瀬は天下を取りにいく』(2023)とか、池井戸潤氏原作のTVドラマ『花咲舞が黙ってない』(2014~)の主人公も、たぶんそうですね。

 堂々とわが道をゆく、“おひとりさま女性”たち。


 時代をさかのぼれば、TVドラマ『ハケンの品格』(2007~)の主人公が、間違いなくそうですね。これが21世紀における実写版“おひとりさま物語”の元祖でしょう。


 アニメにおける“おひとりさま物語”の本家は『涼宮ハルヒの憂鬱』(本は2003~、アニメは2006~)ではないでしょうか。

 我が道を吶喊とっかんし、他者を翻弄しても、他者に翻弄されることのない無敵少女インビンシブルガールのハルヒ。

 そのあたり、『成瀬は天下を取りにいく』(2023)のご先祖さまだと思います。


 そう考えると、21世紀の今、“女性のおひとりさま物語”は、かなり大きなストリームに成長しているみたいですね。

 ラノベ話をお書きになる皆様は、意識されるとよいのでは?


 これに反して、エヴァの新劇場版第四作は、真逆と言っていいほどの“家族愛至上主義”にあふれ、もうドロドロベタベタの血縁関係。

 シンジ君の“父殺し”でチルドレンがエヴァから解放されて完結するものの、シンジ君と父ゲンドウの関係はドライな感情で醜悪なままではなく、ウェットな感情で最後に和解していましたね。

 ゲンドウの「すまなかった、シンジ」と、シンジ君からの「父さんは母さんを見送りたかったんだね」のセリフです。


 互いに憎しみを抱いても、親子関係は切っても切れない。

 どこかで許し合うしかない。

 きっとそれはどちらかに死が訪れたとき……なんでしょうね。


       *


 ということで……

 21世紀の女性主人公たちを席巻する、“おひとりさま物語”。

 それに対してエヴァ新劇場版の第四作が見せてくれたのは、世界名作劇場以来の昭和の伝統ともいえる“家族愛至上主義”の復活ルフラン


 女性目線の“おひとりさま物語”と、男性目線の“家族愛至上主義”のせめぎあいが、当面のラノベやアニメ、TVドラマのストリームをあやなしていくことでしょう。


 『エヴァンゲリオン』の本質は、“家族の物語”に帰結した、そう考えてよさそうです。


 あれほど騒がれたサードインパクトは、結局、最終段階で不発に終わったようですからね。



   【次章へ続きます】



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