201●この国が良くなる気がしないのは、なぜだろう?⑮“エヴァの無い世界”が私たちに残したものは?

201●この国が良くなる気がしないのは、なぜだろう?⑮“エヴァの無い世界”が私たちに残したものは?



 1995年から2021年に及ぶ『エヴァンゲリオン』の諸作品は、最終的にシンジ君の意志で、“エヴァの無い世界”を実現することで、完結をみました。


 で、“エヴァの無い世界”って、具体的にどういう世界なのでしょうか。


 TV版では、最終回の第26話で“学園エヴァ”のショートストーリーという形で示されていましたね。エヴァが存在せず、父ゲンドウも息子に何かを強制するスパルタな人物ではなく、牧歌的なまでに平和な家族と平和な学園生活がそこにありました。


 旧劇場版では作品中には登場しないものの、旧劇場版の公開直後である1998年に同じ庵野監督が手掛けられてTV放映されたアニメ作品『彼氏彼女の事情』が、まるで“学園エヴァ”のパラレルワールドであるかのように描かれていました。


 エヴァのTV版と同じ全26話に及ぶ『彼氏彼女の事情』は、一見の価値どころか、二度見三度見の価値ありと認められれる傑作です。

 ある意味、エヴァのTVシリーズと並べても遜色ない出来栄えですよね。

 庵野監督ご自身が脚本の一部を担当、音楽もエヴァと同じ鷺巣詩郎氏、使われる曲も一部が共通し、作中の学年主任の先生やナレーションの声が冬月副司令ですし、レイアウトやカット割りなど画面の演出も、信号機や自動改札や水道の蛇口などを並べた絵柄といい、なんだか第3新東京市。

 エヴァの無い、もう一つのエヴァを学園ドラマで楽しむようなものです。


 こちらの主人公の両親は、ゲンドウみたいに子供に何かを強制するタイプの真逆であり、学校の先生では偏狭で厳格一辺倒の学年主任……が、不思議と生徒の自主性に理解を示してくれたり、主人公をいじめる立場の生徒さんも、接し方を工夫すれば意外といい友達になってしまう、ということで、基本的に善人ばかりで構成されたホノボノストーリーとなっています。


 こういった作品、ついつい「現実逃避のお花畑」となるきらいはありますが、見ていてほっとするし、心温まります。

 これが実写ドラマだと人間関係が能天気なほどベタベタしすぎて、やや気持ち悪いのですが、アニメならではのギャグ処理が芸術的な巧みさで、キモさをエモさに変換、スカッと安心して笑って観られるんですね。


 庵野監督ご自身も、ひとますエヴァ旧劇場版を終えたことで、ホッとされていたのでは?


 とはいえ、これだけ明るいお話を作られたからこそ、その途中で、旧劇場版で救われないまま暗黒界に沈んでいる綾波レイを、何とかしなければ……と、責任をお感じになったのかもしれませんね。


 エヴァと真逆で、笑って楽しめるラブコメアニメ。

 その点、『エヴァンゲリオン』の本編に肩を並べる傑作だと思います。

 物語が完結していないことも同じですし……これ、続きが欲しいです。

 監督、ぜひ老後はラブコメアニメを作ってホッコリなさってはいかがでしょうか? 


       *


 そしてエヴァのチルドレンたちも、エヴァ抜きで“カレカノ”な学園生活を送れたら最高に幸せだったのでは?

 いや、それだけでなく、現実の私たち自身も、こんな青春を送れたら良かったのになあ……と、郷愁に誘われます。

 作中の楽曲が昭和なナツメロばかりで、明らかに昭和レトロのノスタルジー。

 放映が1998年なのでスマホはなく、ガラケーの発売すら1999年頃とされていますから、アニメの中ではもっぱら連絡手段は固定電話か公衆電話なのです。

 日々、何かに追われることが今よりも少なく、色々な意味でセカセカしない、時間がゆっくりと流れる時代だったような……


       *


 親に何かを強制されることがなく、のびのびと自由を満喫できる青春。

 ただしそれは学生というモラトリアム環境で、首尾よく卒なく成績を上げている、という限定付きですよね。いつまでも続くものではありません。

 学園エヴァやカレカノのユートピアは、長い人生のほんの一部に過ぎないのです。

 チルドレンたちはたちまち卒業して、社会に出て働かねばなりません。


 では実社会として、“エヴァの無い世界”はどんなイメージでしょうか。

 新劇場版の第四作に登場する“第3村”がそうですね。


 エヴァの無い世界を目指して脱出していったアスカのエントリープラグが、第3村のケンスケの家に到着したカットがありました。


 “エヴァの無い世界”をめざしたアスカが“第3村”に到着したという事実は、「第3村は消えてなくなることなく、エヴァの無い世界に存続している」ことを意味しますね。

 “エヴァの無い世界”のモデルとなるユートピアは“第3村”だ……と、そう考えてよさそうです。


       *


 では、第3村のどこがユートピアなのでしょうか。

 単なる昭和レトロ風景の博覧会場ではないでしょう。

 なるほど、自然の風景はいかにも里山で、心おちつきますが。

 しかしその生活は、正直、貧しくて不便です。

 しかも、いかにも昭和風の「年功序列で終身雇用」なムードも漂います。

 これが現実の昭和の昔でしたら、子供にバットを振り回すスパルタ親父やモンスターペアレントな教育ママが闊歩しているのですが……


 そのようなオトナが、いない。


 これが、第3村を21世紀のユートピアたらしめている最大の要因でしょう。


       *


 ヒカリの父親がシンジ君を叱る場面があります。

「無口なのはいい、しかし、出されたメシは食え!」


 ぱっと見は乱暴な言動で、いかにも昭和なスパルタ親父の印象を受けますが……

 言葉に込められた意味合いは、とても親切。

「君が我々を無視しても、我々は君を無視しない。ここで生活できるようにしてやるから、遠慮せずに食べなさい」……ということですね。


 ニッポンの闇にうごめく悪しき“ムラ社会”とは異なる、“古き良き年功序列と終身雇用”の世界です。

 どう違うのか。

 主に下記の三点でしょう。


➀村八分をしない。

 付き合いの悪い人がいても、仲間外れにせず、話しかける。

 ぼっち派の綾波レイを放置せず、経験豊かな周囲の大人が声をかけ、田んぼでの働き方を実践し、挨拶のマナーなどを教えていきます。ボランティア運営らしき学校も同じですね。

 村八分をしないことは、互いを対等と認めること。

 それが、格差による不公平を是正して、弱い立場の人に働くモチベーションを生み出すことになります。

 そうすることで、村の力で有益な人材を育てる仕組みが機能していきます。


②優しくかまい合う。

 寂しそうな人には声をかけ、悩んでいるなら事情を聴き、苦しそうなら手助けしてあげる。

 ヒカリがいうとろの、様々な挨拶の「おまじない」もその一つですね。

 そして、拾った物はネコババせず持ち主に返す。

 「他者から奪ってはならない、傷つけてはならない」という原則が小さな子供にも徹底されている。だから暴力沙汰も基本的にありません。

 これ、共同体の平和を維持するために、絶対必要なことですね。

 例外的に、アスカがシンジに無理矢理にレーションを食わせる場面はありましたが、あれは善意の所業ですね。あそこで食わせなければ体を悪くしたということでしょう。


③強制のない協力。

 田植えなどの労働ノルマはあるけれど、その仕事を強制してはいませんね。

 人は得手不得手があるので、得意分野の仕事で、自分ができることをしなさい、という就労体系です。その結果、労働力の“適材適所”を実現しているようですね。

 村人たちと距離を置くケンスケ君ですが、そのかわり彼の得意な技術で村のインフラ保守に活躍し、周囲からリスペクトされています。

 医者を務めるトウジ君も同じですね。自分にできることを精一杯やっています。

 自分で決めて、自分にできることをする。

 強制の無い協力関係です。



 それにしてもこの三点、21世紀のニッポンでは、絶望的なほどに滅びつつあるのではないでしょうか。


 クラスの仲間外れから始まる、校内いぢめの構図。

 特定の家庭を村八分にして、ゴミ置き場を使わせない町内会。

 それらを放置し、事実上、いぢめや村八分を公認(?)する学校と自治体。

 ネットなどの、いわれなき誹謗中傷。

 善意を偽って金品を掠め取る詐欺事案。


 そして、実態は上からの一方的なトップダウンなのに、本人の自発的意思であるように見せかける強制。

 「要望という名の要請、協力という名の強制」

 そういうものが、何かとはびこっているように感じられます。

 2020年のコロナ禍で、マスク着用や営業自粛の様々なルールが生まれましたが、あれってことごとく、正式な律法によることなく“上からのお願い”で処理されていきましたね。

 “事実上の強制”とされながら、そのルールに関して行政が責任を一切取らない根拠にされてしまったようにも見受けられます。

 なにかにつけて、やたらと大きいグレーゾーン。

 某政党の裏金騒動も、その一端ではありませんか?


 ともあれ上記の①②③は、第3村の描写の中で明快に整理されていました。


 これ、新劇場版第四作の、とても大事なテーマのひとつですね。


 21世紀の老若男女の観客が、この第3村の情景に単なるノスタルジーだけでなく、現実的なユートピアの存在を感じたとしたら……

 それは、21世紀の私たちの社会に決定的に欠けているものがここにあり、私たちの心が、欠乏している要素の補完を望んでいる証左ではないでしょうか?


       *


 それにしても、作中で延々と語られる、第3村での生活。

「サードインパクト〈アディショナルインパクト〉を阻止する」という、エヴァの物語の主旨からすると、長ァ~い道草にも見えます。

 しかし監督の視点からすると、絶対に必要な場面なんですね。そうでなければ描かれませんから。


 つまりこれも、綾波レイの魂の救済に関わる物語。

 レイはこの第3村で劇的に変化します。

 見ず知らずの他者に愛され、他者〈特にツバメ〉を愛し、そうすることでおそらく、自分を愛することも知った黒綾波。

 しかしそこで、自分に訪れる死を自覚します。

 コア化の予兆を示した手のひらを見つめ、こぼれ落ちる涙。


 愛を知った彼女にとって、自分の死は不幸だったのか、それともかすかな幸せがその瞬間にあったのか?


 これは、ゲンドウの立場からみると、ただの不幸な死ですね。

 レイはエヴァと人類補完計画の一部品であり、その死は初期ロットゆえの欠陥でしかない……ということでしょう。


 そんなレイの魂を救済しなくてはいけない! と……

 そう考えて、シンジ君は“父殺し”を決意することになります。

 北の湖の廃墟で黒いレイが残した最後のセリフ、「さよなら」は……

 「また会うためのおまじない」だったのですから。

 その切なさ。


 エヴァンゲリオン新劇場版第四作のスリリングでド派手な見せ場は山ほどありますが、黒い綾波レイが最後に「さよなら」とささやくこの場面こそ、最高に感動させてくれる、物語の頂上シュピッツェではないかと思うのです。


 だから、そのために、第3村というユートピアが延々と描かれたのですね。


       *


 そのように考えて、『エヴァンゲリオン』の諸作品を通覧しますと……

 あんなインパクトやこんなインパクト、それらゼーレのシナリオとゲンドウの陰謀はすべてひっくるめて、「偉いオトナたちの、わけのわからない企て」と総括してしまってもよさそうです。

 全て、目的も結果も明らかにされないまま、私たち庶民を翻弄し、大小さまざまな強制や拘束を理不尽にもたらしてくる巨大な力、そうとらえてよろしかろうと。


 たとえば国家予算。

 具体的にいかなる目的で何に使われていくのか、一般庶民にはわかりませんね。

 私たちは、実は不気味なブラックボックスに支配され、将棋の駒かトランプのカード、いやもっと儚い、ちっぽけな捨て駒や捨てカードのひとつでしかないのでは?


 そして、仕事を選択する余地などなく、働かねばならない。


 TVの第一話でエヴァに乗せられるシンジ君のように。


 劇場版第四作は、その解決を導く福音を、私たちにもたらしてくれたでしょうか?


       *


 つまり……

 21世紀に生きる現実の私たちは、心の中に“第3村”というユートピアを取り戻せるのか? ということですね。


 残念ながら、この国の現実は真逆へと進んでいます。

 何を考えてどっちを向こうとしているのか、わかりません。

 前進しているのか後退しているのか、それすらもわかりません。


 そのことを知りたいと思う人も、いるのかいないのか、わかりませんね。

 そんな国になってきました。


 わかるのは、あちらに村八分があり、ブラック労働があり、希望を失って命を絶つ人があり、罪なき人の冤罪があり、上から下への蔑みがあり、裏金をポッポナイナイする人がいるという程度です。


 この国って、なんだか、良くなる気がしない……


 『エヴァンゲリオン』が21世紀の私たちに残したものは、何なのか。


 思い悩む価値がありそうです。


 


   【次章へ続きます】


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