189●この国が良くなる気がしないのは、なぜだろう?④スパルタ親父と教育ママによる家庭破壊。
189●この国が良くなる気がしないのは、なぜだろう?④スパルタ親父と教育ママによる家庭破壊。
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“家族愛至上主義”を掲げたアニメ作品は、いつごろから衰退したのでしょうか?
特徴的な例として、庵野秀明監督作品に注目してみます。
『ふしぎの海のナディア』(1990)は、孤独な少女ナディアが、ジャンをはじめ様々な人物と出会って、自分の“家族”を再発見・再構築していくドラマと考えることもできるでしょう。ネモ船長が父親、エレクトラが母親の役割に当たりますね。
この作品の結末は感動的。やはり『世界名作劇場』に近い“家族愛至上主義”が通底していたと思います。
しかし、その五年後……
『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)では、主人公のシンジ君にとって、“家族”は無いも同然か、可哀想なほど否定的に描かれています。
実の息子なのにその命の危険にすら関心を示さず、「エヴァに乗れ」と命じる父ゲンドウの冷酷さ。シンジの生活を預かる母親的な役割であるミサトも、エヴァへの搭乗を拒否するシンジを邪険に扱います。
つまり、ここで描かれたのは、家族愛とは真逆の“家庭崩壊”。
自分の都合で、我が子も捨て駒として利用する父親像が幅を利かせています。
ミサトも、時折シンジ君に優しい表情を見せながらも、事実上、エヴァに乗って使徒と闘うように仕向けていきます。それが仕事とはいえ……
(『新世紀エヴァンゲリオン』と一連のシリーズ作品は壮大なスケールで難解な構成ですが、全編を通じて、意外とシンプルな“家族テーマ”を扱っていたことが読み取れますね。のちの章で詳述します)
で、このようなゲンドウ型パパって、たぶん、昭和の世界にいましたよね。
「我が“家”の役に立たない子供は勘当して縁を切る、出ていけ!」
自分が我が“家”の当主であり家長なのだから……と、自分勝手な根拠で威張り散らす馬鹿親父。
家庭内独裁者とでもいうのか。
たっぷりと経済力のある家庭で、それなりの社会的地位も背景にして、つまり実力を備えて威張るならまだしも、実は結構ボンビーなくせに内弁慶で家族をひたすら支配したがる父親(もしくは母親)というのは、家庭内公害そのものです。
親バカの真逆である馬鹿親のルーツは、大変申し訳ないのですが、『巨人の星』(アニメは1968-1971)の星一徹さんですね。
赤貧の中、我が息子を巨人の星にプロデュースすべく、超スパルタ教育を施す野球サイコパスのクレージーオヤジ???
いや、梶原一騎先生にケンカを売るつもりは1ミクロンもございません。漫画でありアニメなんですから、これはフィクションです。創作された作品として、申し分のない傑作であることに一片の疑問も持ちません。物凄いクリエイティブの産物だと思います。
要するに、問題は、この星一徹氏の存在を現実のものと勘違いしてしまう馬鹿親が量産されてしまったことにあるのです。
その火付け役であり追い風となったのが……
1969年発売の教育指南書『スパルタ教育』。
著者は石原慎太郎氏、もう、なるほどとガッテンするしかありません。
古代ギリシャの都市国家スパルタの超ハードな軍事教練をモデルとする教育法を、スパルタ教育と称して推奨されたもの。ただし本書の内容はタイトルほど過激ではないともいわれます。とはいえ1969年当時に70万部を売り上げて大ヒット。
表紙イラストが全裸の少年(両足を広げて仁王立ちの「大丈夫じゃないですよ、穿いてません」)だったので、女性が熱心に購入したとは思えません。ということはニッポンの親父たちがみんな、スパルタファンになったということでしょうね、つまりスパルタ推し。
案の定、本書を原作とした映画『スパルタ教育 くたばれ親父!』(1970)が、こちらは石原裕次郎氏主演で公開され、大ブームに。
21世紀の今から見れば、不適切にもほどがある映画ということになるのでしょうが、まあ多少のボカスカビシバシはフィクションならではの演出。あくまで映画でありフィクションだから許される出来事。しかしやはり問題は、この内容を現実のものと勘違いしてしまう馬鹿親が量産されてしまったことにあるのでしょう。
古代都市スパルタでは、生まれてきた赤ん坊を健康児と不健康児に分別し、不健康組はみんな殺して間引いてしまったとか。
で、とある昭和オヤジは、子供たちに「百獣の王ライオンは、その子ライオンをみんな崖下に突き落とし、這い上がれた者だけを我が子として育てるのだ!」と家庭内で繰り返し説教してはばからず、「そんなライオンがどこにいるのか」と子供たちから至極まっとうな質問を受けても無視して馬耳東風、「百獣の王ライオンは……」と繰り返すばかりだったとか。
そのような教育を本気で受けると、ろくな子供が育ちません。兄弟姉妹で協力せずに、互いを蹴落とすことしか学ばなくなってしまいますから。
つまり、家族崩壊の
スパルタ教育ブームを生んだ社会背景として、戦後のベビーブームによる子供人口の爆発的増加が上げられるでしょう。世に言う“団塊の世代”です。
ウィキペディアの「段階の世代」の項には「団塊の世代はその膨大な人口のため、幼い頃から学校は1学年2桁のクラス数であり、50〜60人学級で教室がすし詰め状態であってもなお教室不足を招くほどであった。また、その好むと好まざるにかかわらず、学校を主な舞台として競争を繰り広げた。」とあります。
人口過密が生む、生存競争。
それは彼らの母親とて同じ。
良い大学、良い会社へ就職させるために、“教育ママ”なるものが出現し、こちらもブームになりました。「1960年代に子育て中の女性に対し、メディアは「サラリーマンの家庭の伴侶」として「教育ママ」という慣用句を生み出した。これは「高校や大学に入学するのに必要な競争テストに合格するために子供たち、特に息子たち」に対する大きな責任を包含していた」(ウィキペディアより)
1960~70年代にかけて全国の家庭に出現したスパルタ親父と教育ママは、マイナスゴジラに勝る理不尽な破壊力で、子供たちに襲い掛かりました。
スパルタ教育を自分に都合の良いように曲解するスパルタ親父、そして教育ママ。
これが親子の間の不信感、不和や断絶を生む大きな原因になったと思われます。
だって、親からスパルタで仕込まれる教育内容って、そもそも面白くなくて、好きになれないのが普通ですからね。「やらされ感」が半端ないですから。
だから親が望む志望校に合格したとたん、燃え尽きて明日のジョー化してしまったり、漫画『ハレンチ学園』(1968-72、映画は1970など)に影響されてセックス解禁し、過激な学生運動や愚連隊な非行に走る子供たちも続出したことと推察されます。
その後、80年代には、『スパルタの海 甦る子供たち』(1982、同年に映画化も)という本にもなった、T塚ヨットスクール事件(1979-82)がありましたっけ。
困ったことに、本も映画も当該ヨットスクールに好意的な内容でした。
そこでは家庭内暴力や登校拒否の子供たちが厳しい訓練を経て立ち直る様子と、死亡者が出たものの不起訴になった時点までしか描かれておらず、むしろ当該ヨットスクールの応援PRになってしまったのです。
しかしその後ヨットスクールの校長が実刑判決を受けることになり、出所された後も色々あって、何人も亡くなられたからなあ……
ニッポンのスパルタ親父たち、ちっとも懲りなかったようです。
ということで、当時の
安直なスパルタ親父たちの罪は、決して軽くないと思います。
冷静な判断力を欠き、すぐにカッとなって
しかもオリンピックを見ればわかるとおり、金メダルを得た人のことはみんなが覚えていても、銅メダルくらいになるとあまり記憶に残りません。それでも勝者たるメダリストの背後に、数百数千の敗者が横たわっていることを考えますと、スパルタ教育の数少ない成功の陰に、犠牲者も累々たるものがあると推察されますね。
ということは、スパルタ教育の成功率は、相当に低いのでしょう。もともと無理して高望みを強いる教育なのですから。それが失敗して成果ゼロだったら、子供は親を一生憎むかもしれませんね。
現実には、➀無意味な説教 ②ゲンコツ(体罰) ③
しかしそれは、『スパルタ教育』の著者のようなリッチーな環境で育ってこそ有効に成立する教育法なのであり、そんじょそこらのフツーにボンビーな家でそのまま真に受けて実践したら、家族関係が修復不能なほど滅茶苦茶になっても仕方ありません。
一家が裕福ならば、息子に対するスパルタ教育が失敗しても、本人が再びモラトリアムをやり直して人生を取り戻せますが、家がボンビーだったら、取り返しのつかない人生の敗残者をボロボロヘトヘトのまま貧困地獄に放り出すだけで終わる恐れがあります。
なんといってもスパルタ教育の勝者すなわち成功者は、ほんの一握り。
本来が古代ギリシャの田舎の軍事国家の軍事教練なのですから、敗者になった場合は何も考えていない。たぶん死ぬことしか想定していないでしょうし。
リスキーなスパルタ教育は多くの家庭を「勝利か、しからずんば死か」の殺伐とした戦場に変えたことと思います。
そんな「結果に対して責任を取れない親」が、軽々しくスパルタ教育ブームに乗ってはならないという、歴史的なご教訓ではないでしょうか。
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そして時は流れ、子供たちが大人に近づいていきます。
1970年代から80年代にかけて、スパルタ教育ブームの結果がじわじわと見えてくるにつけ、崩壊する家庭も増えていったのではないかと察せられます。
そのような社会背景を受けて、1990年から1995年のあたりで、アニメ作品の内容においても、家族観の激変が始まっていったのではないかと思うわけです。
そうですね、ちょうど、バブル景気の終焉(1990)から就職氷河期(一説には1993-2005年頃)のあたりでしょうか。
この時期に、アニメ作品において、家族の愛とその絆を礼賛する場面が格段に減少していき、家族というものの存在感が希薄化したように思われます。
たぶんこのあたりの時期に、この国の若者が大挙して、心の中で家族を捨て始めたのではないでしょうか。
【次章へ続きます】
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