168●『ゴジラ-1.0』の疑問点と続編を妄想推理する。⑮やはり気になる、この違和感。

168●『ゴジラ-1.0』の疑問点と続編を妄想推理する。⑮やはり気になる、この違和感。




 『小説版ゴジラ-1.0』を読み終えて……


 やはり気になります、こまごまとした謎が、違和感が。


 そもそもがフィクションなので、細かいことを気にするものではない、とは思うのですが……


 これも哀しい性格でしょうか、自分の天邪鬼あまのじゃくぶりを恥じるばかりなのですが、うーん、でもやっぱり、重箱の隅をつついて、ほじくってしまふ……


 マイゴジ・ファンの皆様、ごめんなさい!




       *




 明らかなケアレスミスと思われるのは……


 震電が飛び立った直後の描写。


 「プロペラのトルクが大きすぎて、震電はやや左に傾く」(P159)とあります。


 これ、正しくは「右に傾く」ですね。


 ネットで大刀洗平和記念館のレプリカ震電(映画で使用されたもの)とか、震電のプラモ写真などを見れば、あの六翅ろくしのプロペラは、機体の後ろからみて「反時計回り(左巻き)」に回転することがわかります。


 ですから飛行時の機体は、プロペラの回転と反対の向き、つまり右側に傾こうとするはず。ウィキペディアでも震電の試験飛行において「プロペラのカウンタートルクを相殺しきれず右に傾いたままの飛行となり」とあります。


 これが、零戦などプロペラを機首につけた機体では、操縦士から見てプロペラの回転が「時計回り(右巻き)」になるのが一般的で、この場合、飛行中の機体は「左に傾く」ことになります。


 変な例外は英国のグロスター・グラディエーター。

 ネットの機体画像で確認できる限り、プロペラは操縦士から見て「左巻き」に回転するようです。しばしば英国はヘソマガリな謎機なぞきを輩出しますので、その一つでしょう。

 アニメ『戦翼のシグルドリーヴァ』では、ちゃんと左巻きに回っていました。さすがですね。


       *


 作品の前半でいささか違和感を持つのは、無一文に近い状態で復員してきた主人公の生活水準が、あまりにも簡単に向上していくことです。


「1946年3月」(P43)に機雷処理の仕事に就き、「1946年夏」(P56)から「小雪が舞う季節」(P60)になるまでのわずか十か月で、主人公の敷島青年は急速にリッチになってゆきます。


 バラック住まいながら、「きれいにアイロンが当てられた典子の洗濯」(P59)とありますので、典子にアイロンを買ってあげたはずで、バラックに電気も引いていたことになります。さらに中古のオートバイを購入し、しかも貴重なガソリンを買うことができ、バラックの一部を本建築に建て替えています。


 しかしこの十か月、ニッポンは戦時中を上回る、未曽有の食糧難でした。


 当時の食料品はコメ・麦・小豆や味噌・醤油・塩・砂糖など調味料に至るまで、すべてが国家管理の配給制でした。「配給」といってもタダで配ってくれるのではなく、「お金を払って買うものであり、定められた配給量しか購入できない」という「購入を制限する割当制」がその正体でした。まったく、「配給」という言葉の恩着せがましさはどうにかならないでしょうか。

 しかも割当量は殺人的なほどに少なく、実際に「配給」で得られるカロリーで生活しようとしたら、確実に餓死する運命でした。人々はやむを得ず農村へ買い出しに走り、個人的な物々交換という「違法なヤミ流通」で食糧を調達するしかなかったわけです。


 謹厳実直な判事が、自分は「配給」の範囲で生活すると決意して実行した結果、33歳の若さで餓死するという事件が起こったのは1947年秋のことです。


 裁判所の判事ですら冗談抜きで餓死に直面した時代背景を思うと、主人公の敷島青年がオートバイを乗り回し、そのガソリンも購入でき、住宅の新築も実現できたのは、いかに機雷処理の仕事が高給といっても、十か月以内で達成できるものなのか、ちょっと信じられないのですが……


 『火垂るの墓』の兄妹の餓死は1945年秋の出来事ですが、この年の「秋の米の収穫は3,915万石(当時の平均作6千万石前後)という空前の大凶作で、翌21年春・夏には食料の最大危機が訪れた」(函館市地域史料アーカイブより)とあり、1946年の国内のコメ不足は、戦時中よりも凄まじいものとなりました。


 しかも当時の物価はまさに狂気の巷で、「インフレーションは日ごとに悪化し、物価は高騰、実質賃金は戦前の4分の1ないし5分の1までに切り下げられた。その上、戦時生産の解体、兵士の復員、海外からの引揚者で、昭和20年(1945年)末から21年(1946年)の失業者は400万人から500万人にも達した。」(函館市地域史料アーカイブより)という現状は、まさに生き地獄です。当時の人口は約七千万人、そのうち四、五百万人が失業者だとは……。


 子供たちを餓死から救うため、全国都市の児童約300万人に対して学校給食が開始されたのは1947年のことです。アメリカから恵んでいただいた小麦で作ったパンと脱脂粉乳が、子供たちの命を救ったことでしょう。


 餓死100%のカロリーしか保証しない食糧配給制、それすら遅配欠配する日本政府に対して、国民の怒りは頂点に達していました。「一千万人が餓死する」と公言する政治家もいたほどでしたが、当時、何人が餓死したのか、その統計は公にされなかったということです。

 GHQにとって都合がよくないので報道を禁じられ、日本政府も隠したからです。


 これだけは確かです。 

 政府がひた隠すほど、餓死者の数字は大きかった。


 2022年現在でも、日本は年間二千人ほどの餓死者を出しています。

 1946年当時、その百倍以上の餓死者が出ていても不思議はないと思います。

 

       *


 マイナスゴジラは、一般市民が日々、餓死に直面する悲惨な社会に襲いかかったわけです。


 わずかな上級国民を除いて、庶民はみんな押しなべて、毎日腹ペコでした。


 ゴジラの姿を見たとき、人々の多くはこう思ったことでしょう。


 「あいつを食えないか?」と。


       *


 そんな社会背景において、たとえ中古とはいえオートバイを乗り回せるほど余裕のある敷島青年は、周囲の人々からみれば、超リッチな成金青年に見えたはずです。



 彼のオートバイは数日を経ずして、誰かに盗まれたことでしょう。






    【次章へ続きます】

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