164●『ゴジラ-1.0』の疑問点と続編を妄想推理する。⑪生きてこそ、抗える。

164●『ゴジラ-1.0』の疑問点と続編を妄想推理する。⑪生きてこそ、抗える。




 ゴジラに立ち向かう男たちは、たった一人を除いて、みんなが「特攻精神の呪縛」にとらわれていました。


 前章でそう書きましたように……


 海神作戦の参加者は、「一人の犠牲者も出さない」と約束されながら、甘美な特攻精神に操られるが如くに、ほぼ自殺行為といえる作戦に繰り出してゆきましたね。

 しかし物語の中で、特攻精神を完全否定していた男が一人。

 零戦の整備士だった、橘です。



 橘氏は、特攻を覚悟した敷島に、生き延びるための脱出手段を与えます。

 橘が敷島に、「生きろ」と告げる場面(P184)。

 これは、涙が出ました。

 『ゴジラ-1.0』の中で唯一、感涙した場面です。


 監督が伝えたかった作品テーマ、これではないでしょうか。


 “生きてこそ、あらがえる”と……



       *


 「特攻精神の呪縛」から逃れて、自分が生き延びるためには、どうすればいいのでしょうか。

 前章で記しましたように、「特攻精神の三要素」として……

 「(A)大義の認識、(B)犠牲の決意、(C)自発の意志」を挙げました。


 この三要素の最初の「(A)大義の認識」、これを崩すことです。

 つまり……

 「大義のためには、。撤退や降伏など、絶対に許されない」

 この固定概念を捨て去ることです。


 「戦いが不利になり、負けると直感したならば、撤退すなわち“引き返す”こと、あるいは降伏すなわち“もうできません”と恥も外聞もなく認めること」でOKとするのです。


 これは決して、人間として許されないことではありません。

 戦いに勝つことができない、あるいは、努力してもノルマが達成できないとなった時、その事実をあげつらって、「人間失格だ、生きている価値すらない」とばかりに見下して蔑む“上位者”こそが、狂気にかられた異常者に値するのではありませんか。


 撤退も降伏もありなのです。

 普通の人間にとって、人生の大半は挫折と屈辱。

 その事実を客観的に認めて、撤退も降伏もできなければ、生きていけません。

 このことに気づかせないように、何者かが私たちをマインドコントロールしています。「勝て、それ以外はありえない。勝利か、しからずんば、死あるのみ」と。


 それは威勢良くてカッコいいスローガンですが、なんとも窮屈で息の詰まる言葉でもあります。

 だって、勝者あれば必ず敗者あり、自分が敗者の側に立つケースは決して少なくありませんので……

 「敗けたら、どうする」ですよね。


 不祥事を起こし逮捕者を出した某大学スポーツクラブに、「廃部」の話が持ち上がったとたん、「それは可哀想だ」と同情論が出て、まるで、廃部したら部員たちが人生のすべてを失うかのように報道されたりもします。

 部員が生きる支えを失って、人間性が否定されるかのように。

 しかし、そうなのか?

 これ、ただのクラブ活動です。大学の本業ではありません。

 学部が消滅するとか、教育の機会が奪われるという事態ならばともかく。

 クラブ活動のひとつが消滅しても、部員の人生が消え去るはずがないでしょう。

 むしろ、「クラブ活動のために入学した」のなら、本末転倒では?

 そのクラブ活動にしか人生が無い、という、非常に視野の狭い考え方でいいのか?

 クラブが廃部になる、困る、それなら別の生き方を探せばいい。

 それくらいのタフネスは、あってもいいのではないでしょうか。

 逞しい若者なんだから。


 会社をクビになる、あるいは倒産する、それとも隣家のもらい火で家を焼失する、交通事故で家族を殺される、そういった不幸はいくらでもあり、それでも人は生きていくしかないのですから、たかがクラブ活動の廃部でオタオタと右往左往するものでもないように思えます。ウクライナやガザやミャンマーの現状を思えば……


       *


 「特攻精神の呪縛」に対する特効薬ともいえる名言があります。

 1943年のキスカ島撤退作戦。

 キスカ島に孤立した将兵を救い出すために編制された救出艦隊の司令官、木村昌福提督はいったん出航したものの、キスカ湾へ突入する条件が整わず、途中で引き返しを決意します。

「帰れば、また来ることができる」と。

 二度目のトライで成功し、パーフェクトな撤退を完了させるのですが、それまでは周囲から、敵前で逃げ帰って来た臆病者よばわりされて散々だったとか。


 そもそもが撤退作戦。華々しい戦闘や戦果を期待してはならない、損な役回りでしたが、木村提督は地道に粛々と、作戦の最適解を求めたのだと思います。


       *


 大日本帝国は、結局、本土決戦にこだわることをやめ、あの八月十五日に終戦を迎えました。

 無条件降伏。

 マッカーサー元帥とGHQの支配を受けることは、ある意味、国民にとって屈辱だったことでしょう。

 占領下の生活は、良いことばかりではありませんでした。

 報道されなかっただけで、一部の米兵による破廉恥な人権侵害行為…若い女性や、時には少女に対して…も、あったであろうことが伝えられています。

 満州などへ侵攻したソ連軍がやったことに比べれば、かなりマシだったとは言えるでしょうが……


 GHQ占領下の生活が気楽だったはずはないのですが、それでも、「本土決戦で殺されるよりはいい。生きていられるのだから……」


 それが、当時の庶民の切ない思いだったのでは。


 だから、撤退にせよ降伏にせよ、追い詰められて死ぬよりは、それが正しい人生の選択であったのでしょう。


 橘の「生きろ」の一言が、1947年当時の人々が置かれた状況を思うと、独特の重みを帯びてきます。

 「特攻精神の呪縛」こそ、ゴジラよりも恐ろしい、心の怪獣ではないのか……と。


       *


 日本軍の人命軽視を批判する、野田博士の言葉の中に、不自然な表現があります。

 「戦闘機には最低限の脱出装置も付いていなかった」(P147)です。

 ちょっと、引っかかりました。

 前の文脈からしたら、日本軍の戦闘機に不足していたのはコクピットの防弾版や、燃料タンク被弾時の防漏ぼうろう装置や自動消火装置でしょう。脱出装置よりも前にパイロットの安全を守ることが先決です。脱出装置があっても、敵弾を浴びて殺されたら終りですから。


 しかしここで敢えて、「脱出装置」を口にしたのは、野田博士の頭の中に、特攻機が浮かんでいたと考えられます。爆弾を抱えて敵艦に体当たりする前に、脱出することができれば、せめてもの救いになるのでは…


 このセリフと橘氏の「生きろ」(P184)が重なりますね。


 『ゴジラ-1.0』は、私たちを人生の袋小路へと追い込んでゆく「特攻精神の呪縛」から「脱出」することの意味を考えさせてくれる、稀有の傑作だと思います。


 特攻機と化した震電からの「脱出」。

 それは、『永遠の0』の結末に対して『ゴジラ-1.0』が提示した、ひとつの回答ではないでしょうか。





   【次章へ続きます】



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