138●『ガリバーの宇宙旅行』④:“青い鳥”の暗喩と「あきらめないこと」。

138●『ガリバーの宇宙旅行』④:“青い鳥”の暗喩と「あきらめないこと」。




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 『ガリバーの宇宙旅行』は明らかに、モーリス・メーテルリンクの戯曲『青い鳥』(1908)に連環リンクしています。

 (夢の)宇宙旅行の目的地が「青い(希望の)星」とされている点が、もう明々白々で暗示的ですね。


 “夢と希望”、その先に垣間見える“幸せ”を探すための宇宙旅行。

 テッド少年の最終目標が“幸せ”であることは、劇中夢の中で、キューピッドな天使に「もうひとつのお願い」を尋ねられた時の回答から、明らかです。


 テッドたちの旅は、“幸せの青い鳥”を探すチルチルとミチルの旅に重ねられ、『青い鳥』と同じように“夢落ち”の結果で終わります。


 しかしこの“夢落ち”の場面、私の個人的な感想では、『ガリバーの宇宙旅行』の方がシンプルで、テーマを見事に絞り込んでいるように思えます。


 物語の冒頭ではボロボロな気分でほぼ絶望していたテッド少年は、夢から覚めて、このつまらない現実に戻った時、なぜか心の中に明るい“希望”を宿している……

 “夢落ち”なんだけど、その夢は無為な虚構ではなかった。

 夢には違いないけれど、現実の体験と等価であり、テッド少年の心を救ったことに違いはないんですね。


 この漫画映画も白昼夢みたいな虚構だけど、そこから“夢と希望”をすくい取れるかもしれませんよ……と、『ガリバーの宇宙旅行』の作者が胸を張っている様子がうかがわれます。


 こういった作品、とても好きです。

 現実世界では全く価値のない虚構の産物ともいえるアニメ作品が、それを観た人に“夢”をもたらす……

 それは、昔から唱えられてきた、メルヘンチックな理想論でしかないと言えばそれまでですが、ファンタジーの根本にある「本当に大事なものは目に見えない」という法則に照らし合わせると、まさに“アニメの王道”ってことではないでしょうか。


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 松本零士先生の『銀河鉄道999』(アニメは1978-)が、「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』とモーリス・メーテルリンクの『青い鳥』をヒントに執筆が始められた」(ウィキペディアより)ことはよく知られていますが、その十年以上も前に、『青い鳥』をモチーフにした宇宙SFアニメ作品が成立していたことは、ちょっと感激ですね。


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 さてそれでは、テッド少年が最後に手に入れた、“希望”って何でしょうか?


 これは疑いもなく、「あきらめないこと」であることがわかります。


 夢の中におけるテッド少年の偉業は、なにもかもあきらめていた“紫の星”の人々に、「あきらめないこと」の価値を示したことにありますね。

 それはラストシーンで、危険物質である“水”を使って、“紫の星”のお姫様のロボット的な外殻を“脱皮”させた場面です。

 “紫の星”の人々が纏っている“外殻”は、一見すると、いかにも平和で穏やかな表情をしています。

 しかしその裏には、故郷を追われた深い悲しみと後悔が隠されている。

 本心では“青い星”に戻りたい。しかしロボット軍団にはかなわない。

 その悔しさを心の奥底に無理矢理に押し込め、現実から目を背けて、表向きは平和な平静を装う。

 それがすなわち「あきらめる」こと。

 テッドが姫君から取り去った“外殻”は、「あきらめ」を象徴する、全身サイズの仮面でもあったと考えられます。

 「あきらめ」を脱ぎ去った姫君はしかし、「寒いわ」とつぶやきます。

 「あきらめ」を脱ぎ去ることは、現実の厳しさや、居心地の悪さに直面することでもあるからですね。それでも現実と正面から向き合って、「あきらめずに」進むことが“希望”への道であり、その先に“幸せ”があるのだと教えてくれる名場面です。


 しかも、「あきらめ」の外殻を脱いで現れた姫君の美少女ぶり!

 未来のジブリ風美少女につながっていく、その始祖となるキャラクターではないかと思います。


 姫君の“外殻”を取り外してあげるこの場面、スタッフの宮崎駿氏が発案し、実現したものとウィキペディア等で伝えられています。

 いや凄い、さすがですね!

 それに加えて、まだ若手の一動画マンにすぎなかった宮崎駿氏のアイデアを採用し、作品に具現化させた、当時の制作幹部の皆さんの矜持きょうじに拍手! です。

 これは、『ガリバーの宇宙旅行』がノーベル賞作家メーテルリンクの『青い鳥』を凌駕した瞬間ではなかったでしょうか。


 メーテルリンクの『青い鳥』では、主人公たちは結局、本物の青い鳥を見つけられないまま、夢から覚めることになります。するとその部屋の鳥カゴに青いキジバトが! 主人公たちは「幸せは気付けないだけで、じつは近くにあるのだ」と悟った……という、ちょっと強引な感じもするハッピーエンド!?


 これはこれで納得の結末なのでしょうが、私個人としては、なんだか説教がましい印象を持ってしまいます。

 チルチルとミチルは貧困家庭の子女で、まずは極貧からの脱出が“幸せ”への第一歩となるはず。ボンビーの度合いにもよりますが、1908年当時のヨーロッパで、子どもがいて、クリスマスなのにツリーを置けない家庭というのは、かなりの貧困ぶりでしょう。この現状を横に置いといて、「幸せは身近なところにあるんだよ」と諭されても、ねえ……


 というのは、この物語で、青い鳥(幸せ)を探して時空を超えた大探索旅行を繰り広げた二人の苦労は、「はい、夢でした」でおしまい、現実的には何一つ報われなかったわけですから。

 「いったい、あの旅は、何だったんだ?」になってしまいます。それでいいのか? ということですね。

 わざわざ“幸せ探し”の旅に出なくても、「幸せは身近なところにあるんだよ」という結論に持っていくのは、見方によっては「遠くへ探しに行っても、結局は見つからないよ。近場にあるもので満足しなさい」という、あきらめの境地を語っているようにも読み取れるからです。

 あえて曲解するならば、「アキラメノススメ」。

 いまひとつ、手放しで賛同できない終わり方なのです。


 『青い鳥』の結末は、『ガリバーの宇宙旅行』で、ロボット軍団に故郷を追われた“紫の星”の人々が、現実との戦いをあきらめて、幸せな顔つきだけど無表情なロボット風の“外殻”に閉じこもってしまった状態に近いのかもしれません。

 「幸せは身近なところにある」だけで終わってしまったら、幸せを探して旅する必要はなく、ただ現状に甘んじて、身近なところを見回していればいいことになってしまいます。

 それで満足していいのか……


 「幸せは、結局身近なところにある」というテーマに関しては、『青い鳥』よりもその32年前のイプセンの戯曲『ペール・ギュント』(1876)の方が、真実を遠慮なくえぐっているように思います。

 主人公ペールの“幸せ探し”の旅って、もう無責任の極致でひっちゃかめっちゃかなんですが、それだけに人間の“幸せを求める行動”の愚かさも切なさも真剣さも滑稽さも伝わってきますし、そんな旅が果たして無意味であったのかどうか……、無意味に見えるけれど、主人公たちが最後に心の安寧を得るためには必要だったのではないか……とも、考えさせてくれるのです。


 『青い鳥』の最後のセリフ。

 チルチル「ぼくたち、幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから」

 つまり最後まで「幸せ=青い鳥」と、具象化されているわけです。

 “幸福”には、“青い鳥”という物体的な形が与えられている。


 この点、やはり、“幸せ”に特定の形を作らずに、目に見えないままとした『ガリバーの宇宙旅行』の方が、数段優れているように思えます。

 姿も形もある“青い鳥”ではなく、夢の宇宙旅行から「あきらめないこと」の重要さを持ち帰ったテッド少年の方が、個人的には好きですね。

 テッド少年にとって、夢の旅は無意味ではなかったからです。




     【次章へ続きます】




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