136●『ガリバーの宇宙旅行』②:“夢落ち”こそ確信犯! 完璧な作品構造。

136●『ガリバーの宇宙旅行』②:“夢落ち”こそ確信犯! 完璧な作品構造。




 そこで、「結末が夢落ちでいいのか?」という命題です。

 『ガリバーの宇宙旅行』の結末は、誰がどうみても“夢落ち”です。

 問題はそのことが、「作品の欠陥となっているのか?」ということ。

 私は長い間、「さすがに“夢落ち”は、子供だましの安易な仕舞い方ではないか?」と、疑問に思っていました。

 しかし21世紀も今になって、改めて観ると……

 真逆の印象となりました。

 “夢落ち”こそ正解だったのです。


 この“夢落ち”のラストは、作者の確信的犯行なのだ、と。

 あえて十分に、かつ慎重に吟味したうえで、最後に“夢落ち”が設定された……

 いやむしろ、この作品の場合、“夢落ち”こそが作品の生命線であり、結末の最適解だったということもできましょう。


 なんとなれば、「夢と希望」という作品のメインテーマが、この“夢落ち”によってこそ、明瞭に絞り込まれ、観客の心に余韻を残すのですから。


      *


 『ガリバーの宇宙旅行』は、「夢と希望」をテーマに据えています。

 作品の中で流れる“ガリバー号マーチ”に「♪夢と希望と憧れの……」と歌われているように。

 で、「夢と希望」の対立概念は、「現実と絶望」ですね。

 ただし作品中では「絶望」という言葉は使われず、絶望の手前にある「あきらめ」を正面に出しています。

 「絶望」と言ってしまえば、もうなにもかも手遅れで、おしまいだ……という印象になりがちですが、じつは絶望する少し前の段階として「まだ希望があるのに、無力感にとらわれて何もできず、あきらめている」状態に、私たちは陥っているのではないか? ということですね。

 作品中ではしばしば「あきらめるな」といったセリフが聞かれます。


 そして作品に描かれるのはもちろん、主人公のテッド少年が体験する「夢と現実」となります。

 『ガリバーの宇宙旅行』は、テッド少年が「夢」と「現実」の間を往復することで、「希望」をつかみとるまでの、一夜の不思議な出来事を描いている……と考えることができるわけです。

 この場合の「希望」とは、「あきらめないこと」ですね。


 さらに……

 この作品のみょうは、「映画=夢の世界」と位置付けていることです。

 冒頭のシーンにご注目。

 場所は映画館、『ガリバー旅行記』の嵐の場面からお話が始まりますね。

 嵐の海、「希望」という救いにすがりついて生きようとするガリバー。

 そんなガリバーに心奪われているテッド少年は、劇場の外へ引きずり出されます。

 「夢の世界」から「現実」へと。だから……

 「映画=夢の世界」。

 そう考えたら、気づきます。

 「映画=夢の世界」とする位置づけこそが、『ガリバーの宇宙旅行』に仕組まれた至高のテクニックであることに。


       *


 『ガリバーの宇宙旅行』の結末は、明らかに“夢落ち”です。

 これをビデオで観ていたら、「なんだ、夢落ちか」で終わってしまいます。

 しかしこの作品が公開された当時、家庭用のビデオなど存在しません。

 この作品は、観客が実際に劇場へ足を運び、そこのスクリーンで鑑賞することのみを前提として作られたフィルムであることを考慮しなくてはなりません。


 上映が終わると、私たちは席を立って映画館の外へ歩み出ます。

 このとき、観客だった私たち自身が「映画=夢の世界」を出て、私たちの「現実」へと帰ってゆくことになります。

 私たち観客も、テッド少年と同じように、「夢」から「現実」に戻る。

 そのことを、最初から織り込んで作られた作品だとしたら、どうでしょうか?


 “観客の私たち”という登場人物を、この作品の前後に組み込むのです。


 とすると、作品の構成は、こんな流れになります。



〈現実〉映画館に入り、着席する私たち。東映マークで上映が始まる。

 ↓

〈夢〉作中で上映されている映画『ガリバー旅行記』の世界。

 ↓

〈現実〉映画館を追い出され、トラックに轢かれそうになるテッド少年。

 ↓

〈夢〉遊園地での幻想。

 ↓

〈夢の中での“現実”〉警備員に追われる。

 ↓

〈夢〉ガリバー博士との出会い、宇宙旅行へ出発。

 ↓

〈夢の中の夢〉“願いをかなえる天使”の夢を見る。

 ↓

〈夢〉青い星への到着、ロボット軍団との闘い。

 ↓

〈テッド少年の現実〉作品ラストの“夢落ち”。

   夢から覚め、希望を抱いて朝の街を駆ける。

 ※しかし観客の私たちにとって、ここはまだ「映画=夢の世界」なのです。

 ↓

〈私たち観客の現実〉映画館を出て、夢から覚め、現実の世界に戻る私たち。


       *


 つまり……

 まず、私たちは「映画館で上映される『ガリバーの宇宙旅行』の中の映画館で上映されている『ガリバー旅行記』を主人公テッド少年と一緒に観ることで、『ガリバーの宇宙旅行』という“夢の世界”の旅を始めた」わけです。


 物語の最初から、「映画の中の映画館で上映されている映画の中に入り込む」という、マトリョーシカみたいに鮮やかな“入れ子”構造の中に、私たちの意識は、あっという間に吸い込まれています。

 これほど見事でトリッキーな導入手法は、『ガリバーの宇宙旅行』ならではの持ち味でしょう。


 物語の中で、私たちはテッド少年と一緒に、「夢」と「現実」を行き来します。夢の世界で登場人物が熱く語っている“希望”は、しょせん虚ろな空想世界の“夢”の一部でしかなく、“現実”の世界では泡のように儚く消えてしまうのではないか?……と、私たちはテッド少年と一緒になって考え、不安になり、試されることになります。


 そして結末で、テッド少年が夢から覚める、いわゆる“夢落ち”となります。

 しかし、じつはその直後に、今度は観客である私たちが「映画という夢」から覚める、リアルな“夢落ち”を体験することになるわけです。


 つまり、主人公と観客の、二重の夢落ちです。


 この、“二重の夢落ち”が、どうやら、『ガリバーの宇宙旅行』では、作者によって最初から周到に準備されていた仕掛けではないかと思われます。

 これ、本当に、粋でお洒落で、巧みなギミックですね。

 しかも、実際に劇場のスクリーンで観なければ、体感できません。

 すなわち、1965年当時の観客でなければ理解できない仕掛けだったのです。


 だからこそ、物語の結末をあえて、“夢落ち”にする意味があったのでしょう。



 物語のテーマは「夢と希望」、そして作品のラストは“夢落ち”。

 ということは……

 作品の中に熱く語られた「夢と希望」は、最後の“夢落ち”という試練によって消え去ることなく、主人公テッド少年と、そして観客の私たちの心の中に存在し続けることができるだろうか?……という命題が、試されることになるのです。


 そして、映画『ガリバーの宇宙旅行』は終わりました。

 このつまらない「現実」の世界に、あなたは「夢の世界」から「希望」を持ち帰ることができたでしょうか? いや、できるはずです。そうあってほしい……と作品は語りかけているのですよ、きっと。


 このように、作中の主人公の“夢落ち”を、観客自身のリアルな“夢落ち”にわざと重ねることで、絶妙な演出効果に成功しているのだと思います。

 まるでフィルムの二重露光のように……。


 テッド少年は夢から覚めたけれど、心の中に希望を残しました。

 さて、映画館の夢から覚めて、現実に戻ってゆくあなたは、いかがですか?


 そういうことでしょう。

 文句のつけようがない、完璧な作品構造と言うしかありません。

 そこに『ガリバーの宇宙旅行』のテーマの帰結点があるのでは?


       *


 これってもしかして、日本の映画史上、他に類を見ない、最高に見事な“夢落ち”だったのではないでしょうか!




    【次章へ続きます】



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