『ゴジラ-1.0』の物語を(公開前に)妄想推理する。
125●『ゴジラ-1.0』の物語を妄想推理する。:①ゴジラ襲来は何年何月?
125●『ゴジラ-1.0』の物語を妄想推理する。:①ゴジラ襲来は何年何月?
2023年7月、猛暑襲来。
私にとって猛暑とは、「体温越え」にせまる最高気温のことであります。
こうなると、冷房節約の対策は、ひたすら脱皮することに他なりません。
失礼ながら、独り静かに室内で裸族生活、ただしパンツは放棄しませんが。
予期せずに家族と出くわすと、立ちション中のバルタン星人でも見たかの如く、「ゲッ」とばかりに忌避されますが、今年からそのタイミングで、「ドントウォーリイ、アイムウェアリング!」と身をかわせるようになりました。
おそらく今頃、日本全国で増殖したネイキッドなオッサンたちが「安心してください、履いてますよ」とギャグっているのでありましょう。あの“とにかく元気な”お兄さんに感謝あるのみですね!
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ということで2023年7月12日。
なんでも、トンデモなゴジラが11月3日に公開されるそうで……
『ゴジラ-1.0』(ゴジラ・マイナスワン)。略してゴジマイ?
ネットで30秒程度の予告映像、何度も見ましたよ。
こう言っては何だけど、前作のシンゴジよりも驚きの注目作。
だって、ゴジラ第一作が公開されたのは1954年。
それよりも何年か昔の終戦直後を舞台にするとか。
これってかなりトンデモな掟破りでは?
というのは、「ゴジラ映画の最高傑作は?」と問えば、みなさん例外なく、まず百%、「第一作の“ゴジラ”」となるでしょう?
それよりも、ちょっとだけ昔の時代を“先取り”で物語の舞台にする。
これ、なんだかズルい、神聖なる第一作への挑戦に他なりません。
ファンとしては普通許せない、複雑な心境ですね。
『ゴジラ-1.0』の出来次第では、神聖にして侵すべからざる第一作の作品設定をひっくり返してブチ壊しにするかもしれないのですから。
そこで気になる『ゴジラ-1.0』のストーリー。
しかし2023年7月12日現在、公開された作品内容はわずか30秒(実質はその半分くらい)の予告映像のみ。
ということは、監督さんから、「あとは皆様のご想像にお任せします」ってことですね。
まあ、ボーッと生きてればすぐに公開日の11月3日を迎えるのですが……
ここはひとつ頭の体操ということで、どんな物語になるのか、あの短い予告映像から読み取れる要素もまじえて、妄想推理してみましょう。
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まず、ゴジマイ君はいつ来るのか。
「『ゴジラ-1.0』のゴジラ来襲は何年何月あたりになるのか?」です。
予告映像の冒頭テロップにこうあります。
「戦後、すべてを失った日本。」
「戦後」と明記されているので、1945年8月15日、玉音放送で終戦した日よりも後ということになりますね。これは間違いなし。
その後、東京湾に進入してきた米戦艦ミズーリの艦上で降伏調印が行われたのは9月2日。
これ以降、GHQのマッカーサー元帥によるニッポン占領統治が始まります。
それでは、ゴジラが8月15日から9月2日の間に出現して、大暴れする可能性は?
演出上の“オトナの事情”で、それは難しいでしょう。
この期間は、日本帝国がポツダム宣言を受諾して、戦闘行為はやんだものの、正式な国家間の降伏調印には至っておらず、それゆえ米軍は油断せず、臨戦態勢のままだからです。
日本近海には米英合わせて空母数十隻の一大機動部隊と、護衛の主力戦艦が十隻以上遊弋していて、日本軍に反撃の兆候あれば袋叩きで一斉攻撃してくるでしょう。
なんせ、「卑怯な不意打ちのパールハーバー」をやらかした実績があります。
降伏するふりをして、手のひら返しで本土決戦を挑んでくるかもしれない……と、米軍さんは疑心暗鬼。
こんなところにゴジラが現れれば、米英軍vsゴジラの総力戦が始まります。
米英軍はゴジラを日本軍と同一視して、再び戦争中に逆戻りするかもしれません。
少なくとも、9月2日の降伏調印はオアズケになりますね。
ゴジラ、頑張って米英の空母や戦艦や爆撃機、ボカスカやっつけることでしょう。
すると、マズいです、オトナの事情です。
米国の州名を冠した戦艦などが続々と沈没すれば、この作品を米国に輸出するにあたって、観客にソッポを向かれるかもしれません。
その昔『トラ・トラ・トラ!』(1970)という日米合作超大作戦争映画がアメリカ市場でコケたように、です。あっちでも戦艦アリゾナやカリフォルニアが大炎上で爆沈してましたっけ。米国民としては、カネ払ってまで見たくもない場面。
脚本の事情として、そのようにリスキーなストーリー展開は避けるはずです。
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また、9月2日の降伏調印以降、同月の20日あたりまでは、東京湾とその近海に大規模な米英艦隊がウヨウヨと残っていて、たとえばアイオワ級の主力戦艦は全四隻のうち、アイオワ、ミズーリ、ウィスコンシンの三隻が逗留しており、ゴジラがこの三隻とガチンコ勝負して米国艦隊が全滅してくれると、これまたオトナの事情でまずいですね。
ですから、まだゴジラ様に出現してもらうには時期尚早と思われます。
ゴジラ出現、イコール米英艦隊との大戦争に直結するのは、物語上のタブーとなるわけですから。
ただし1945年10月以降は、進駐軍(アメリカの占領軍)が日本国内へスムーズに展開を進めたことで、米英艦隊は順次、帰国の途に就きます。
9月下旬以降、翌1946年1月まで、米国最大級の主力戦艦で東京湾にあるのは、ニュージャージー一隻となります。
とすると、ゴジラに出てきてもらうのは、1945年10月以降が適しているのではないでしょうか。
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ここで、30秒ほどの予告映像の中で逃げ惑う市民たちの服装に注目します。
誰もが長袖、背広風の上着や、女性はカーディガンの着用がみられ、夏服といった風情ではありません。
とすると、ゴジラ襲来は秋以降、やはり1945年の10月以降ではないかと思われます。
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さて、新しい日本国憲法は、終戦の翌年、1946年の11月3日に公布されます。
それまでの大日本帝国憲法と根本的に異なり、国民主権と戦争の放棄を謳った平和の憲法です。
“オトナの事情”としては、新憲法が公布された直後あたりには、ゴジラに来てほしくありませんね。
日本国民は新憲法の制約を受ける、つまり戦争放棄のシバリを受けるのですから。
もう絶対に戦争をいたしません。交戦権を放棄しました、ということです。
(「あんな、マ元帥に押し付けられた憲法は嫌いだ!」と生理的に拒否るお方もおいででしょうが、本稿では、当時正式な手続きで成立している現憲法の文言を尊重する立場をとります。現憲法が「押し付け」だと文句のあるお方は米合衆国の大統領閣下にクレームを持ち込まれればよいでしょう)
かつ、日本国憲法を公布した時点では、日本国はまだ戦勝国に占領されていて、マッカーサー元帥に統治されている真っ最中です。
つまり、国家として独立した立場にありません。
主権の確立した独立国でしたら、「最小限の戦力による自衛権を有する」といった憲法解釈でゴジラとの対戦が可能になりますが、当時は独立していない、他国に占領されたオキュパイド・ジャパンなのです。
この状態でゴジラに来られたら、法的に大変ややこしい。
日本国民は主体的にゴジラと戦う立場も方法も権限もないと思われます。
市民が自主的に武器を持って、ゴジラに発砲することはできません。日本国民は全員、占領統治されているのですから、勝手に武器を持ってドンパチやりだしたら、GHQから戦争行為(反乱)とみなされます。
となれば、ゴジラと戦うのはマッカーサー元帥閣下様のお仕事となりますが、「日本のことだから、お前たち日本国民が戦え」と元帥に促されても、平和憲法を厳格に順守すれば、日本国民は戦闘に参加できず、黙って無抵抗でゴジラに踏みつぶされるしかないのです。
これも脚本的に、オトナの事情で避けたいことですね。事態がややこしすぎます。
平和憲法をもらったばかりの日本人、何一つできることがないのですから。
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以上のことから、ゴジラ来襲はおそらく、1945年の10月から、新憲法公布前の、翌1946年の10月までの範囲に絞られると、判断します。
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さらにその後、1946年11月3日の新憲法の公布以降はどうなのか。いちおう確認しておきましょう。
のちに1951年のサンフランシスコ講和条約で国家の独立を回復するまでは、日本は占領下にあって、マッカーサー元帥に支配されており、かつ、平和憲法のもとで戦争を放棄したという、なんとも複雑で悩ましい状態が続きます。ゴジラとの闘いとはいえ、武器を持って主体的にドンパチやるのは、法理上、大きな問題に直面するだろうと思えるわけです。
マ元帥の許可なく武器を取れば反乱すなわち戦争となりますし、マ元帥に「ゴジラと戦え」と命じられても、平和憲法を無視してよいのか疑問が生じますし、なによりもゴジラに蹂躙されているのは主権国家の日本国ではなく、“
そして、もっと後の、1951年のサンフランシスコ講和条約以降の時代になりますと、1950年から朝鮮戦争が始まっています。この戦争の盛大な軍需景気に助けられて、それまでボロボロだった日本経済が息を吹き返します。つまり、予告映像の冒頭テロップにある「戦後、すべてを失った日本。」ではなくなり、「戦後、失った経済を取り戻しつつある日本。」になってしまうのですね。
「すべてを失った」ボロボロ感は、1950年からは消えてゆき、戦災からの復興の希望が立ち上がってゆきます。この時期になると、『ゴジラ-1.0』では“すべてを失った日本”が描けなくなり、作品テーマから離れてしまうことでしょう。
ですから、1946年11月3日の日本国憲法(平和憲法)の公布以後は、製作者側のオトナの事情に照らしても、ゴジラに来てもらっては都合の悪い時期となります。
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さてここで、さらなるオトナの事情です。
ゴジラ襲来。
そこで日本人がボーッと見ているだけで、なにもしなかったら全くドラマになりません。
日本人、誰かが勇を鼓して奮い立ち、武器を持って戦わなくては、エンタメな物語が成立しませんよね。
とすると、使えるのは……
もちろん、旧日本軍の残存兵器です。
軍艦も戦車も航空機もGHQや進駐軍に接収され、あるものは破壊され、あるものは戦時賠償の対象物として保管されています。
そして、年を越した1946年1月以降は、順次、戦勝国に引き渡され、あるいはスクラップにされて急速になくなってゆきます。
つまり、日本人の手で使える状態で、ゴジラと戦う手段たる旧日本軍の兵器が残されているのは、1945年の12月まで、なのです。
そこで、これまでの議論を総合しますと、ゴジラに来てもらうにあたって、オトナの事情で最も適している期間は……
1945年の10月から年内の12月まで、となります。
『ゴジラ-1.0』のゴジラ襲来の時期は、演出の必要上、たぶん、そのあたりになるだろう……と推理いたします。
大外れかなア? 知らんけど。
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もひとつ気になるのは、『ゴジラ-1.0』の劇場公開が11月3日の「文化の日」、すなわち日本国憲法の公布記念日でもあること。
これ、なにか理由があるのかもしれませんね。
もしかすると本編では、ゴジラが暴れるのは1945年の10月から年内の12月あたりまでの範囲ですが、フィナーレとなる最後のシーンは、憲法公布のその日、1946年11月3日の人々が描かれるかもしれません。
その日は、すべての日本国民が憲法によって戦争を放棄し、平和を誓った日。
「私たちはもう、戦争をさせられなくていいんだ!」
この喜びは半端ないでしょう。国民の犠牲300万人の惨劇の直後なのですから。
この日をもって、物語が終わる……
すばらしいラストシーンになるかも。
1954年のゴジラの偉大な第一作において、ゴジラは忌まわしき戦争を象徴する、恐怖の原子怪獣として描き上げられました。
『ゴジラ-1.0』で、1946年11月3日の日本国憲法公布の日が描かれたとすれば、それは、“戦争を具現化した怪獣”であるゴジラに対する、当時の日本国民の、誇り高き回答であると解釈できるのかもしれません。
※第一作の公開が1954年11月3日なので、単純にそれに合わせた……ということかもしれませんが、そうだとすると2023年11月3日公開予定の『ゴジラ-1.0』は、「ゴジラ生誕70周年」ではなく、生誕69周年となりますね。まあ細かいことは気にしないってことでしょうか。
【次章へ続きます】
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