96●ラノベな大河『黄金の日日』(3)…されど滅びの物語、そして……香港。
96●ラノベな大河『黄金の日日』(3)されど滅びの物語、そして……香港。
●されど“滅び”の物語
元気溌溂で前向きなイメージに彩られた『黄金の日日』ですが、本質的には、ひとつの“滅び”を描く物語でもあります。
第一話冒頭で炎上する、海辺の街の幻影。
重なるテロップで語られるのは、戦国時代にありながら、商人たちの合議制で民主的に運営された“自由都市”である堺の繁栄ぶり。
その繁栄の末路を象徴するかのように……
タイトルバックの巨大な太陽は、地平線に沈んでいきます。
日の出ではなく、落日。
これは、滅びの物語でもある……と暗示しているのですね。
自由都市として、幸福な別天地であった堺。
キリスト教はまだ禁じられておらず、市内には礼拝堂も、十字架の立つ墓地もあり、豪商の子弟も入信し、ロザリオをかけて登場します。
経済的に栄えるだけでなく、思想信条にも自由の気風が流れる理想郷、ある意味、エデンの園として、堺は描かれています。
『黄金の日日』は自由都市・堺の運命を語る物語であり、それはスケザと並ぶもう一つの主人公であるといえるでしょう。
そして物語の後半戦は、この堺の自治を奪い取って武力で支配しようとする秀吉と、その意図をくじいて自由と独立を守ろうとするスケザの対決が中心となります。
この世に“第二の秀吉”の登場を許せば、自分が滅ぶことになる。
自分を滅ぼす下剋上を防ぐには、この世の全てを隅々まで支配することだ。
その手段として“恐怖”を用いたことで、秀吉の狂気と暴走が始まり、不毛の大戦争である朝鮮出兵に突入。
たとえ勝っても、得られるのは無数の死者と焦土のみ……という、利益なき巨大な消耗戦。
この暴挙を早期に押し止めて和平をはかるため、スケザは近藤正臣さんの石田三成と協力します。
スケザと石田三成、二人の友情は物語前半で育まれますが、後半では、ことごとく秀吉と対立するスケザに対して、秀吉の側近であり堺の奉行職にある石田三成は困惑といら立ちを秘めながらスケザに相対してゆきます。
この二人の、大人の友情というべき関係が、物語の後半で、いぶし銀の輝きを放ちます。秀吉の敵に回るスケザを、三成はいつでも斬って捨てることができるのですが、その場になると、どうしてもできない。敵に回っても、斬り捨てることができない無二の友とは、こういうものか……と悟らせてくれるのです。物語後半の、大きな人間的魅力の一つですね。
石田三成は、とにもかくにも気配り、心配りにすぐれた苦労人であり、緻密な思考力の持ち主として描かれ、過去の時代劇では豊臣家の陰で策謀する逆賊とされてきた彼のイメージを一新しています。
緻密に計算できる思考力ゆえ、堺の街を抑圧しながらも、滅ぼさずに、生かして活用する方向へ導こうとするのですが、関ヶ原で敗北したことで、みずから堺の街の運命を予見するかのように
信長と秀吉に対しては絶妙な計略と取引でその生命を保った堺の街も、最後に家康軍に囲まれて、ついに孤立無援となり、絶望の時を迎えます。
最終話、
アニメ『シムーン』(2007)の最終話にも似た、胸の奥に迫る喪失感……
しかし、スケザの船に救助された子供たちの笑顔が夕陽に照らされて、最後の場面を美しく輝かせます。
全てを失うことで、全てを得たのかもしれない……
いやまったく、すばらしいベストエンディングでありました。
*
しかし今、なぜ『黄金の日日』が再放送されているのでしょうか。
なにか、理由があるのでしょう。
思いつくのは……
香港。
高度な自治を保証された……はずの、自由の気風を尊ぶはずの国際都市、香港は、2021年の今、どうなろうとしているのか。
これも、ある意味、ひとつの“滅び”なのだろうか。
香港の“黄金の日日”は、日没を迎えつつあるのでしょうか。
放映されたのは43年前。
しかし今、この作品は21世紀のリアルとオーバーラップしてくるのです。
【次章へ続きます】
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