83●主人公は“親を喪失する”(2)
83●主人公は“親を喪失する”(2)
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しかしこうなると、ただ、親を失っただけでは、ヒット要因としては不足です。
同様の作品がいくらでもあるのですから。
そこで特徴的なのは、『鬼滅の刃』。
主人公の少年は家族を鬼に殺されます。
本人は復讐を誓います。
そのために、主人公は艱難辛苦を乗り越えて、鬼の首をバッサバッサと取り続けることになります。
それだけではなく、唯一生き残った妹も鬼に変えられていて……と、散々な環境に追い込まれているわけです。
しかしこれがポイントです。
鬼にされた“妹”の存在こそ、素晴らしい設定です。
そうすることで、“妹を鬼から人間に戻したい”という、新しい“行動の目標”が主人公に与えられます。
そしてそれが、主人公が鬼と闘い続ける動機を全編にわたってキープし続けてくれたわけです。
“鬼にされた妹”あればこそ、主人公は闘いに背を向けることができず、戦いへの参加を拒否できなくなります。ある意味、鬼殺隊の幹部の言いなりですね。
これは一見、視聴者からみると、屈辱的でもどかしい状況に感じられますが、その反面、視聴者から絶大な好感を得るための強みとなります。
つまり……
“本当は戦うことが嫌いな優しい少年なのに、妹を救うために、否応なく闘いに身を投じざるを得ない”……という、絶妙のエクスキューズを物語の要所要所に散りばめることができるからですね。
主人公は鬼の首をスッパスッパと刎ねますが、内心は決して冷血漢の悪人ではないことが、しっかりと表現されるわけです。
このテクニック、学ぶところ大ですね!
もしも主人公に妹がおらず、単なる“復讐心”だけで戦い続けたとしたら……
たとえ敵のラスボスを倒して仇を打つことに成功したとしても、その結果にはどうしても虚しさがつきまといます。
大勝利したところで、“失った親も家族も帰って来ない”のであり、主人公は一人ぼっちの“復讐鬼”で終わるしかなく、そうなると主人公でありながら、鬼たちと同格に堕ちてしまうのですから。
そこで作者は、“妹を人間に取り戻す”という人道的な命題を主人公に背負わせたのでしょう。
かけがえのない妹を救う……という使命を帯びることで、主人公の“正義”が成立したわけであり、そうすることで主人公の“鬼殺し”を正当化したのです。
それゆえに主人公は全国の老若男女だれからも一定の共感を獲得し、作品のヒット要因の重要なファクターになったのではないでしょうか。
妹の存在は主人公の闘いの足手まといとなり、敵の人質に取られるなどの障害要素になるのですが、それでも守り、妹を
そこが『鬼滅』の、他の作品とは一味違う魅力であり強みになったと思います。
さて、『鬼滅』にみる主人公の類型は、ハードボイルド作家レイモンド・チャンドラー氏がフィリップ・マーロウ・シリーズに著したこの名言に集約されます。
“強くなければ生きて行けない。しかし優しくなければ生きている資格がない。”
かれこれ半世紀をゆうに超える昔の作品の名言ですが、ヒット作の主人公の大多数が、結局のところ、この名言を心得て行動しているのではないでしょうか?
強くならねばならない主人公に、いかにして、優しさを獲得させるのか。
これ、ヒット作の鉄板の原則を言い当てていると思うのです。
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また一方で、物理的に親を失うのではなく、“親にネグレクトされる”ことで、精神的に“親の喪失と同じ状況”を作り出した『エヴァ』。
誠に先見の明があるといいますか、21世紀の社会問題を先取りした慧眼だったと思います。
ゲンドウ氏が私たちの社会に存在したら、どうみても親として失格ですが、現実に、そんな親が増え続けているのではないか? と危惧させてくれる問題作でもあるわけです。
そして最後に、重要なことですが……
“親の因果が子に報う”
もしくは“親の因果が子に祟る”というケースもあるかと思いますが……
親たちの行状が、その死後になって、子供たちの人生に善悪さまざまな影響を残し、子供たちの生き様を揺るがしてしまう、という現象が付加されています。
『ガンダム』で父親のテム・レイと再会したアムロが、あまりにも変わり果てた父の姿にどうしようもない寂寞の念を抱く様子。アムロ君が抱いていた理想の父親像はガラガラと崩壊し、自分が父親から引き継いだ性格や才能を激しく自責したかもしれません。
親から子が決定的に自立する瞬間であると同時に、親から受け継いだ血の呪縛も意識せざるを得なかったでしょう。
偶然の導きとはいえ、ガンダムに搭乗して見事に動かせたのは、父から引き継いだ才能あってのことでしょうから。
『エヴァ』のシンジ君は、さらに宿命的に、父母から定められた運命への抗いを見せ、エヴァのコクピットで呻吟します。自分がエヴァに乗り、戦っているこの事実は、全て、父と母が昔に企んで仕組んだ、“人類補完計画”の一要素に組み込まれた歯車のひとつでしかないのですから。
それゆえシンジ君が自分の人生を本当に生きるためには、父母を否定してでも自立し、エヴァを捨てる覚悟が求められることが、物語の途中で予感されてきます。
実際、TVシリーズの25-26話で、シンジ君はエヴァにまつわるすべてから解脱して、「僕は僕だ」と独白します。ある意味、ラストシーンの拍手は、シンジ君にとって最も正しい、しかるべき結末だったのかもしれません。
『シン・エヴァンゲリオン:||』はまだ視ておりませんが、聞くところでは、シンジ君の“エヴァ無き世界”への脱却が語られているようで、そうだとしたら、TVの26話にある、綾波嬢が食パンを加えて走り、シンジ君に激突する、あの、エヴァ無きのどかな日常世界への回帰が実現したのかな……と想像しています。
『進撃の巨人』では、エレン君とジーク氏の両親が、二人の息子の運命にどれほど皮肉に、かつ支配的に関わっていたのかが、アニメのファイナルシーズンで語られています。
まさに、親が残した、恐るべき血の呪縛。ですね。
茨の鎖のようにエレンとジークを結び、まるで破滅へ向かって責め立てているかのような、血の呪いなのですが、2021年3月末のこの時点では作品が完結していませんので、あとは結末を見守りたいと思います。
『約束のネバーランド』では、“親の血の束縛”といったものは主人公のエマやノーマンにはありませんが、そもそも人類の遠いご先祖様が鬼たちと交わした“約束”が今に祟っているわけです。
この先祖の“約束”を破棄して結び直すことで、今につながる呪縛を解き放つことが、物語の中核をなしています。
ですから、広い意味では、“親の因果が子に報う”事態に直面していると考えられるでしょう。
なお、敵方の主要キャラであるラートリー家の人物には、まさに“親の因果が子に祟る”としかいえない、諧謔的にして残酷な結末がもたらされます。
『鬼滅の刃』では、父親が主人公の記憶に残した秘伝の舞いの作法が、主人公の窮地を救います。それだけでなく、父母の立場と行動が、宿敵の鬼に狙われる一因をもたらしていたようですね。良くも悪くも、親に起因する凶事の後始末を、主人公が背負ったということになるかもしれません。
“親の因果が子に報う”ことで、“その因果を克服し、解決し、そして脱却するにはどうすればいいのか”を語ること……それも、ヒット作の共通原則のひとつにあげられるでしょう。
【次章に続きます】
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