82●主人公は“親を喪失する”(1)

82●主人公は“親を喪失する”(1)



 『ガンダム』『エヴァ』『進撃』『約ネバ』『鬼滅』にみる“ヒットの共通原則”。

 その第二の項目は……


 “親の喪失”です。


 主人公は親を失うか、親から捨てられた状態に直面します。


 『ガンダム』では、アムロ君とその父母との関係ですね。父親は家族など眼中になくロボットオタクの道を歩んだあげく、酸欠事故で頭がおかしくなり、母親は兵士となった息子を偏見の目で蔑みます。いわば救いのない家庭崩壊ですね。


 『エヴァ』でもシンジ君はすでに家庭崩壊状態にあります。ゲンドウとかいうあのオヤジ、極悪非道じゃないですか。母を亡くした父子家庭で、無責任にもさっさと育児放棄していたのがミエミエです。

 しかも、実の息子があんなに嫌がっているのに目の前で負傷したレイをダシにしてエヴァへの搭乗を強制するあたり、モラル的には自分の代わりに子供に万引きさせる親と同格。

 自分の父親があれだったら、絶対に許せない……と思いませんか?


 『進撃の巨人』では、主人公の親があっさりと巨人に喰われてしまいます。一瞬にして災害孤児、あるいは戦災孤児ともいうべき状態に置かれ、その復讐心も手伝って、巨人との闘いに加わっていくことになります。


 『約ネバ』では主人公のエマ嬢、ノーマン君の実の親は理論的にはどこかにいるはずですが、まったくその存在がわからない状態に置かれています。

 そもそもが、孤児院という設定を信じさせられているのですから。

 親代わりの“ママ”はいるのですが、彼女が孤児たちに注ぐ愛情が、じつは、食用家畜を育てる牧場主の愛情であることに気づかされたとき、主人公は物理的にも精神的にも、親を喪失することになります。


 『鬼滅の刃』は、『進撃の巨人』と似ていますね。

 第一話で主人公の少年は親ばかりか家族のほぼ全員を鬼に惨殺されます。


 ……ということは、主人公にとって、何を意味するでしょうか。

 以上の五作品とも、何らかの形で、主人公は親を失くすか、見捨てられます。

 その結果……


 第一に、“親の喪失”によって、親の庇護が無くなり、自立を促されます。

 自分の意志で行動し、その責任を取らねばなりません。

 誰しもくぐらねばならない、自立への関門です。

 大人への成長の一段階、と言えば聞こえはいいですが、実際はそんなに生易しくない必死のサバイバルであることが、すぐに明らかになります。

 生きるか死ぬかの瀬戸際。

 しかしそれは、私たちの現実の社会でも、同じことでしょう。

 銃や刃物で殺し合わないだけで、職場や地域には当然のようにイジメもパワハラもあり、ブラックな下剋上も粛清もあるのですから。

 今どきの社会、“親の七光り”がなければ、一生の格差が天と地ほどに開いてしまいます。

 その現実を踏まえて、主人公は、“親の七光り”なき戦いに挑むしかありません。

 この点、五つの作品のいずれにも共通します。


 第二に、“親の喪失”によって、主人公が何かを求めて旅に出る、あるいは戦うといった主体的な行動の動機が生まれることです。

 特に、親が敵に殺された場合、その復讐を遂げるという直接的な動機で、主人公は戦いの場に身を投じていきます。

 主人公が親から見放されていたケースでは、“自分の親と闘う”という状況も発生します。失ってしまった親と、戦うべき自分の敵が同じだった……ということですね。映画 『スター・ウォーズ』シリーズがその典型例です。

 『エヴァ』のシンジ君の場合も、ある意味、父親が敵となります。

 父親からみてシンジ君は、秘密の計画に役立つ駒であり、用が済めば捨てることもできるのですから。とても味方とはいえませんね。

 使徒との闘いの果てに、シンジ君は、いずれは父親ゲンドウと対峙して、“息子が自分の父親を乗り越える”という試練に直面する運命を課せられていたのだと思います。これは心の深層にエディプス・コンプレックスが潜んでいるといえるかもしれません。父親ゲンドウを何らかの方法で倒すか克服することで、ゲンドウに心身ともに支配されている綾波(シンジ君の母親が化体した存在)を救い出し、自分のものにしたい……という心理が働いていたとしても不思議はないでしょう。


 さて一方、物語の中で、主人公は自分自身の復讐心が果たして正しいのか、あるいは、復讐することになんらかの意味があるのか? と問われます。自問を重ねたその結果、自分の立場に疑問を持ち、自分の中の理性を奮い立たせて復讐心と闘う……といった、ドラマチックな局面が導かれることもあります。

 これも、映画『スター・ウォーズ』の各エピソードの主人公が典型例です。

 親を敵に殺されたことで主人公ルーク青年は復讐の動機を得ると同時に、親の束縛から解放されたことで、自分の意志で戦いに参加していきます。

 しかしその結果として、自分自身の心のダークサイドに巣食うことになった腹黒い欲望や憎悪の心を抑えきれなくなり、フォースの奥義を会得することで悪への転落を防げないかと悩み苦しむ場面も出てくるわけです。



 第三に、“親の喪失”によってポッカリと開いた“心の欠落”を埋めようとする心情が、主人公を変えていくことです。

 異性の恋人を求め、その優しさで癒されたい、あるいは逞しさで自分を守ってもらいたい……といった情動が、主人公をより勇敢にし、大胆にし、無謀にし、弱気にもし、心を狂わせることにもなります。『ガンダムSEED』のフレイとキラの刹那的な、けれど切ない関係がそうでしょうか。……青春ですねエ。


 ともあれ“親の喪失”が、主人公を、生きるための次なる行動へと駆り立てる有力な動機となることは確かです。

 いわゆる世界名作とされる児童文学と、そのアニメ化作品の多くもそうでしたね。

 『小公女』『家なき娘』『秘密の花園』『赤毛のアン』『あしながおじさん』『ロミオの青い空』など。『母をたずねて三千里』は、文字通り、音信不通となることで喪失状態と同じになった母親を探し求める物語でした。

 付記すれば、庵野監督の『ふしぎの海のナディア』『トップをねらえ!』もそうですし、『天元突破グレンラガン』もそうでしたね。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も、同じ前提を踏まえているといえるでしょう。


 親を失った主人公の孤独、家族の愛情への飢餓感、そして心から愛することができる誰かを求める心情。


 しかしこれ、21世紀の私たちの社会が抱えている、身近な問題でもあります。

 家庭や家族は小規模化し、その存在感がますます希薄になりつつあります。

 シングルマザーやシングルパパの家庭も珍しくなくなりました。

 老人も孤独死する昨今です。

 そこに主人公への共感が生まれるのでしょう。

 “親を喪失すること”、その結果として生まれた孤独を抱えたまま、戦いに身を投じていくこと……は、作品ヒットの基本的な条件であり、原則と言っていいのかもしれません。




   【次章へ続きます】





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