66●『ジェニーの肖像』(3)……時は螺旋! 鳥肌の演出。

66●『ジェニーの肖像』(3)……時は螺旋! 鳥肌の演出。





 『ジェニーの肖像』、そのオープニングナレーションは、時間の哲学を語ります。


  “万物は滅びるのでなく、変わりゆくものである。

   時は行き過ぎるのではなく、巡るものであり、

   過去と未来は、永遠に私たちと共にある。”


 思えば、凄いことを言っておりますね。

 諸行無常で万物は流転する。

 しかし滅びるのではない。

 いや、その通りです。

 この宇宙を構成しているおおもとのツブツブである素粒子。

 それら無量大数の素粒子たちの、そのエネルギーと質量が組み合わせを変えていくことで、私たちの世界は変化しているのですから。

 変化しているけれど、宇宙全体のエネルギーと質量の総和は、変わらない。

  (いや、変わるという立場もあるでしょうが、『ジェニーの肖像』では、いちおう“変わらない”という趣旨ですね)

 しかもそういった世界の“変化”、すなわち“過去と未来”は、「覆水盆に戻らず」式の、絶対不変の一方通行じゃなくて、観測者である私たちの周りを、ぐるりぐるりと“巡っている”と言うのです。


 世界の“過去の状態”も“未来の状態”も、私たちから見て、全く手の届かない不可触の領域にあるのではなく、じつは意外と近くに巡り来ていて、ずっと、私たちと共に、そこにあるのかもしれない……


 なんとも哲学的ですが……

 だから、過去と未来の時間線がときとして接触して、現在と過去、現在と未来が、互いに見えて、触れることのできる状態が起こるかもしれない……

 それが『ジェニーの肖像』におけるタイムトラベルなのだ……と、私は思います。

 あ、あくまで個人の感想ですよ。


 では、この作品におけるタイムトラベルの仕組みは、具体的に、どんなイメージなのでしょうか?


 なんと、しっかりと、ビジュアルで見せてくれるのです。

 どこに?


 物語のクライマックス。

 数年前に亡くなったとされるジェニーを救うために、青年イーベンが、必死の思いで時間をさかのぼり、過去に戻って死の直前のジェニーをその腕にキャッチしようと試みる場面です。


 場所は、大西洋に突き出したコッド岬。

 そのまた最先端の“地の果てランズエンド灯台”。

 ハリケーンが近づく中、ボートを漕いで灯台をめざすイーベン。

 その頭上に嵐の乱雲が渦巻き、稲妻が閃き雷鳴が轟きます。そのとき……

 モノクロの画面は突如、エメラルドグリーンのフィルターに覆われます。

 シンプルですが、目が醒めるような色彩転換です。

 タイムトラベルのシークエンスに入ったのです。

 荒波にボートを奪われたイーベンは岩場にとりついて灯台にたどりつき、その塔内に入ります。

 見上げた彼の視界を満たすのは……

 この世のものと思えぬ神秘的な緑の光に浮かび上がる、巨大な螺旋階段。

 おおっ、と声を上げたくなります。

 この刹那の情景、鳥肌モノです。

 時間とは、こういうものだ……と『ジェニーの肖像』が啓示を告げているのです。

 そうだと、私は思います。

 エメラルドグリーンに輝き、天に昇る螺旋階段。

 イーベンは駆けあがり、塔頂の投光室を囲むバルコニーから見おろして……

 ジェニーの姿を見つけます。

 数年前の過去へのタイムトラベルが成功したのです。


 『ジェニーの肖像』は、映像だけで、こう伝えてくれたのではないでしょうか。


 “時間線は、螺旋である”……と。


 何故なら、螺旋階段を駆け上がることで、イーベンは時間移動したからです。

 ランズエンド灯台は、据置型タイムマシンの機能を果たしました。

 生と死の時間に分かたれていた二人が、ついに出逢うことに……


 いやもう、この場面、感動でココロわしづかみです。

 オープニングナレーションで「時は行き過ぎるのではなく、巡るものであり……」と語られた内容が、具体的なイメージとなって起ちあがったのですから。


 そうですね、時間は、螺旋の姿をして、私たちの周りを巡るのです。

 だからときとして、螺旋の角度が変わり、過去と未来は、現在と交差することができるのです。


       *


 素晴らしいと感じるのは、このオープニングナレーションと、ランズエンド灯台の場面が、原作にはない、映画オリジナルの演出だということです。


 原作のままだと、過去のジェニーと現在のイーベンの逢瀬は自然界の気まぐれで作り出された偶然の運命のままであり、「ジェニーは成仏できなかった幽霊である」という解釈もできますので、観ようによっては、単なる怪談話、妖気漂うホラーとして受け止められて終わったかもしれません。


 が、そうではなく、時間の摂理の中で叶えられた、過去と現在と未来の出逢い……として、説明し、そのイメージを語りきったことに、映画『ジェニーの肖像』の偉大な功績があるのではないでしょうか。


 幽霊ではない、過去の時間にしっかりと生きているジェニーが、運命の人イーベンに出逢い、そして生きた証として、イーベンをして肖像画を残させたのだ。それは同時に、画家イーベンの、ジェニーへの永遠の愛の証でもある……


 これって、グッときますね。

 死んだ少女の魂だけが幽体離脱的にトリップしてきたのではなく、過去の実像と交差したのだと。

 その証拠に……

 最初に彼女に会ったときに渡し損ねた、彼女の忘れ物……

 一枚のスカーフが、イーベンの手元に残されたのです。


 いや本当に、このうえなく美しく、ロマンティックなお話です。

 愛というものが、時を超えて、永遠を手にするとは、こういうことでは……


 さらに、全編に漂う古典の風格。

 古風なお話です、しかし画面のどこをとっても、決して陳腐化していない。

 最新のファンタジーに、なんら引けを取らない。


 絞り込まれたテーマと、無駄を排した演出。

 これまた、上出来ウェルダンの逸品です。

 文句のつけどころがありません。


       *


 物語の前半で、貧乏なイーベンを助けるために、アイルランド系のレストランオーナーが、故郷の独立運動の志士マイケル・コリンズの肖像画を壁に描いてくれと注文するあたり、なんだか余分なエピソードに見えなくもありませんが……

 ここで、それまで風景画一辺倒だったイーベンが、肖像画に挑戦させられて、その描きがいに気付かされるのですね。

 本人はあまり楽しくなかったようですが、丹精込めて描かれた一枚の肖像画が多くの人々の心を触発し、奮い立たせる場面があります。

 のちに彼がジェニーの肖像を描くにあたって、描く動機を生み出すための、見事な伏線になっていると思われます。


       *


 ここで振り返って、1991年の『グランド・ツアー』を思い返してみましょう。


 “愛する少女の命を救うため、彼が過去へ時間移動する”


 このモチーフ、1948年の『ジェニーの肖像』と同じですね。

 『グランド・ツアー』の原作であるC・L・ムーアの『ヴィンテージ・シーズン』の内容に、映画『ジェニーの肖像』の時間移動のイメージを重ねれば、大筋がどことなく似てきます。


 映画『ジェニーの肖像』のジェニーは時を超えて出現した過去の少女でしたが、『グランド・ツアー』のヒラリーは現実の少女だった、という違いがあるだけですね。共通するのは、やはり美少女であることですが。


 『グランド・ツアー』の制作スタッフ、たぶん映画の『ジェニーの肖像』は観ていたでしょう。SF好きにとっては教科書みたいな古典作品なのですから。

 だから、ジェニー・アップルトンの姓と同じ女性のスー・アップルトンと彼女が経営するアップルトン・ホテルを『グランド・ツアー』の舞台の街に登場させたのかもしれません。


 偉大な先輩が残した古典作品への敬意を込めて……ではないかと思うのです。





  【次章へ続きます】






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