65●『ジェニーの肖像』(2)……時間はフクザツ、パラレルとバタフライ。

65●『ジェニーの肖像』(2)……時間はフクザツ、パラレルとバタフライ。





 “時間の概念”は、いまだ科学的に解明されたとはいえません。

 私たちにとって極めて身近な謎でありながら、謎のままなのです。

 だからこそ時間テーマのSFが書かれ続け、映像化もされてきたのでしょう。


 科学の世界では未解明でも、何とかして、自分が生きているうちに、納得のいく説明のできる“時間の概念”が欲しいと、私たちは願っているからでしょうね。

 だからあまたの時間SFで、時間概念の仮説が展開されてきました。


 だって、不思議ですよね。

 私たちは、「過去は変えられない、未来は変えられる」などと、特に企業の精神的研修の場面で、まことしやかに教えられますが……


 そんなこと、誰が決めたのか?

 たしかに経験則では、そういうことなんだろうけれど、現在の私たちが無限に長い時間線のある一点にいるのなら、「過去と未来」は相対的なものであるはず。


 たとえば2013年の自分にとって、2016年の自分は未来の存在だから変えられるはずだけど……

 2021年の自分からみて、2016年の自分は過去だから変えられない、となりますね。


 これ、深く考えるのはやめます。

 まともに考えると、劇場アニメ『君の名は。』の時間概念がこんぐらかってしまいますから、きっと。


 よくある時間概念は、鉄道のレールと、その上を走る列車に例えられるでしょう。

 時間線はレール。

 私たちの“今”の世界は、その上を走る列車です。

 (『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のシリーズのラストに出て来た列車タイプのタイムマシンは、言い得て妙ですね)


 だから、どこかで何者かの仕業によって…人的な歴史改変もあり、自然現象としての歴史改変もありですが…歴史が変えられたとき、時間線のレールは支線に分岐して、そしてまたどこかで本線に戻る……といったイメージが出てきます。

 線路はアミダクジ状に分岐することができ、歴史改変があるたび、一時的にコースが変わって、またどこかで本線に戻る、と言ったところでしょうか。

 このとき、私たちが乗った列車にとって、一時的に通過した新しい支線が、通過してしまったことによって、支線のままでなく本線の一部になってしまう、と考えられます。

 歴史改変で新たな支線に入ると、列車の乗客が乗り降りする駅も変わるので、本来なら降りている人が乗ったままであるとか、降りるはずが無かった人が途中下車するといったアクシデンタルな事象が起こります。

 つまり、列車全体(世界構造)には変化がないが、その中身の乗客(構成事物)には変化があるということですね。

 そうやって、私たちの列車“現在号”は走り続けていきます。


 そこで、タイムトラベラーがひとりだけ、過去の駅の一つに戻ったとしましょう。

 するとそこに、やはり列車“現在号”が到着して乗せてくれます。

 タイムトラベラーにとって、そこが“現在”だからです。

 不思議なことに、その列車“現在号”は、未来の世界で走っている“現在号”と全く同じものです。

 ただし複製品ではなく、“過去時点における現在号”であります。

 というのは、“現在”というものは常に相対的であり、“観測者タイムトラベラーの本人にとってのみ、唯一無二”の存在だからです。


 “現在”というものは、観測者にとってはただ一つの絶対的な存在であるが、かつ、時間線上のどこにでも位置することのできる、相対的な存在である……。


 ただの私見ですが、私は、様々な時間SFを読んだり観たりするときに、この考え方をあてはめてみるようにしています。


 とりあえず、以前触れました、“量子力学に基づく多世界理論”というものは、否定するつもりはもちろんありませんが、私の理解を超えた謎の物体として、いったんは棚の上に載せることにしています。

 どのような事象が起これば歴史が分岐してパラレルワールドができるのか、そこのところの見極めがつかないからです。第二次大戦で米国よりもドイツが先に原爆製造に成功していたら、そりゃあ歴史は変わるでしょうが、今朝、私が寝坊したかどうかで歴史が変わるとは思えず、その格差はなんなんだ、と言うことですね。


 ともあれ、そうたびたび世界が分岐してパラレル化しますと、それぞれの世界を構成している物質が、どこから調達されるのやら。宇宙の保有質量が絶対的に無限でなくては、成立しないのでは? と、素人のひからびた脳味噌では心配になって来るというものです。


 だいたい、ややこしいではありませんか。

 無限の並行世界なんて。

 人間の想像の限界を超えてしまいそうです。


 しかも、“バタフライ効果”なるものがあって、ウィキから引用しますと……


 バタフライ効果(butterfly effect):力学系の状態にわずかな変化を与えると、そのわずかな変化が無かった場合とは、その後の系の状態が大きく異なってしまうという現象。


 レイ・ブラッドベリの短編SF『雷のような音』(1952)は、過去の世界に行ったタイムトラベラーが、現地で一羽の蝶を殺してしまったことが原因で現在に因果が及び、歴史がとんでもないことになってしまうというお話で、『サウンド・オブ・サンダー』(2005)という、まんまのタイトルで映画化されています。

 要するに、そういった現象のことですね。


 この“バタフライ効果”まで加わってくると、パラレル+バタフライで、とにもかくにも滅茶苦茶な世界になってしまいます。


 世界は歴史改変のたびに無限に分裂してしまい、その結果も拡大して、なんだかとんでもないことになっている……

 と、まあ、何でもありの世界になってしまうではありませんか。


 それはそれで学術的にあり得る世界なのかもしれませんが、体感的に理解するのは大変困難なことでありまして……


       *


 つまりですね、何が言いたいかといいますと……

 私たちの時間が様々なきっかけで無限に分岐して、無限数のパラレルワールドができている……と仮定したとして、その状態を少し離れた位置から眺めたとしたら、どう見えるでしょうか?


 


 無限の数でギッシリと時空間にひしめくパラレルワールドは、スーパーで買うエノキダケの束みたいに、「ワンパックに一本化したものと同じ」であると認識されるのではないでしょうか。

 とするとそこには、無限に並行するパラレルワールドでなく、無限に変化する可能性を持った繊維をより合わせて作った、「一本の太い歴史の流れ」があるってことになります。


 ありとあらゆる変化を一本に束ねた、つまり、いくらでも変化する可塑性かそせいがたっぷり含まれた、一つの歴史。

 結局のところ、タイムトラベラーが体験する歴史ってものは、そういうものではないでしょうか。固い一本の棒みたいな、融通の利かない歴史でなく、くねくねと曲がっていくらでも姿を変え得る大河みたいなものではないかと。

 その「時間の大河」は、たぶん、左右に広がる河川敷の範囲で融通無碍に蛇行しており、その水路はクネクネと、生きた蛇のように姿を変え続けている。しかし、河川敷の外にあふれて氾濫することはない。つまりそこが、「可能性の限界点」ってことであると……


 そんなふうに考えています。


 つまり、こうです。タイムトラベラーが2023年から2001年に旅して、そこで歴史を観光したとしましょう。この人は2023年に還ってきて、再び翌年の2024年に、同じ2001年に旅して、そこで歴史を観光する。

 この時、最初に観光した2001年と、後から観光した2001年とでは、細部があちこち変わっている、したがって、自分が還っていく2024年も、細部があちこち変化している。

 その過程で、たとえば映画『ターミネーター』の世界のように、人類が滅亡の危機に瀕しているかもしれませんね。しかし、歴史を刻む時空間そのものは、ぶち壊れることなく、存在し続けている……そんなイメージです。


       *


 だから、歴史は絶対不変のガチガチな存在でなく、適度に融通無碍ゆうずうむげにに変化し続けている、フニャフニャな性質も持っているのではないでしょうか。


 無限数のパラレルワールドに悩むよりも、時間というものは割とズボラで、フニャなものである……と。

 だって、三日前に自分が何をしたか、例えば何時に起きて何を食べたかなんて、たいてい忘れていて、正確に思い出すことなんかできないし、そのことが世界の歴史を変えたとも思えないし……ですね。そんな枝葉末節な事柄は、歴史の中では「誤差の範囲」で片づけられてしまうのでしょう。


       *

 

 しかしこうなると、タイムトラベルは不可能であって、歴史は絶対不変である……であってくれる方が、よほど安心できるかもしれませんね。もっとも、そう断じると、時間SFの多くは成立しなくなりますが……



 そういった複雑怪奇な思考迷路に陥って、ストーリーが泥沼ダンジョン化するのを防ぐために、おそらく、『グランド・ツアー』は素晴らしい名解答を示してくれたのでしょう。つまり、前述した、「歴史はフニャフニャ」説なのです。


「時間というものは、そう簡単に壊れはしない、弾力性があるからね」


 これを聞くと、ほっとします。

 私たちがいる時間線は意外とタフであって、少々曲げられてもねじれても、その不安定要素をどこかで吸収して、元の、一本の線に戻ってくれるということですね。


 以上、とにかく申し上げたいことは……

 時間理論はかくも複雑怪奇……ってことです。


 しかそこはさすが、『ジェニーの肖像』は傑作でした。

 時間とはどういうものか、という“時間哲学”をきちんと示してくれたからです。




  【次章へ続きます】


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