53●『大YAMATO零号』(6)……原点回帰と、“献辞”の熱意
53●【アニメ】『大YAMATO
“おいどん”的なキャラクターによって、数多くの松本零士作品を貫いてゆく、「ひとはひと、われはわれなり」の哲学……
これが、たぶん、“松本スピリット”。
松本零士先生の作品における“松本らしさ”の
20世紀の『さらば……』以降の西崎ヤマトでは、沖田艦長の存在感が薄まるとともに、この「ひとはひと、われはわれなり」の松本スピリットが薄まってゆき、いつのまにか松本零士らしくないヤマトに変貌してしまいました。
そしてまた、“松本スピリット”は1980年代の中盤から、社会の変化によって急速に信奉者を失っていきます。
バブル経済。
国民のだれもが金満生活を指向し、豊かであることを当然とする風潮が台頭することで、ある意味“貧乏哲学”、いや正確には“耐乏哲学”である松本スピリットは、社会から疎外され、札束の怒涛に押し流されて、たちまち忘れ去られていったと記憶しています。
マネーゲームで労せずに巨富を築く時代の到来によつて、貧困を逞しく生きようとする“男おいどん”な“苦労マニヨン人”は、絶滅するしかなかったのでした。
やむをえません、時代の流れだと思います。
しかしその後のバブル崩壊、就職氷河期、21世紀に入ってはリーマンショックに東日本大震災と、冷たい不況の嵐が吹き荒れ、バブルの恩恵は多くの国民にとって水の泡と消えました。
さらに、ここ十年近くで貧富の格差が急速に開き、理不尽なまでの格差社会が形成されています。
本来ならここで、“ボンビー哲学”ともいうべき松本スピリットが復活すべきでしょう。しかし、そうはなりませんでした。
松本スピリットの根本は、「ひとはひと、われはわれなり」と唱えることで、他者との比較で生じる劣等感を組み伏せ、自分自身の価値観を確立して、屈辱に耐え、不条理に抗い、理不尽に屈せず、ときに戦いを挑むことで、我が道を貫く精神である……と、私は理解しています。
これが、再び大衆の中に起ちあがることは、残念ながらありませんでした。
おそらく人々の多くは、社会の歪みを正すことよりも、格差社会の現状を肯定し、強者に媚びへつらいながら弱者を踏み台にして、強者の側へ“成り上がる”ことを選んだのではないでしょうか。
誰もかれもが「空気読めよ」と言い始めたころ……これが流行語となった2007年あたり……から、周囲の風向きを敏感に読んで、要領よく立ち回ることが美徳とされるようになったと思います。その方が楽ですから。
見た目は無様で、のたうち回りながらも、わが道を歩もうとする“おいどん”は大衆からそっぽを向かれてしまったのでした。
*
ここで、なんとも低次元な話題でスミマセンが……
閉店前に値引きセールをするスーパーの風景に、時代の変化を見ることができます。あくまで私の個人的な感想ですよ。
20世紀末までのバブル時代、スーパーの値引き食品は見向きもされず、閉店まで半額シールのまま店頭に残っていました。人々は高い商品をさっさと平気で買えたので、値引き品を漁るのはみっともなく思えたのでしょう。
バブル崩壊後、世紀をまたぐ数年で売り場の状況は一変しました。
店員さんが半額シールを貼りに来るのを待ち構える客が増えたのです。女性客だけでなく会社帰りの男性客が次々と参戦しました。値引き食品にはたちまち人が群がり、奪い合いになります。
そしてここ十年ほどの変化は……
あらかじめ商品の消費期限を確認して、値引き候補の品を選んで自分のカートに大量に確保、そのまま値引きタイムを待ち、値引きシールをつけにきた店員さんを捉まえて、カートの商品を示して値引きシールを貼るように要請する……という客を普通に見掛けるようになりました。まあ、明らかなフライングですね。
さらには、店員さんの顔を覚えてあれこれ話しかけて仲良くなり、そもそも値引きシールの時間帯のかなり前であるにもかかわらず、値引きを頼む客も現れました。ねえお願い、自分のカートの商品だけ、特別に先に値引きしてよ……ということです。若い女性店員さんを標的として、もっぱら高齢の女性客がこの戦術を用いているようですが、二百円の焼き芋を百円に値引きさせるために、そのような労力を払う人がいるのですね。
ここ三、四年で、それまで見かけなかった万引きも数回目撃しました。コソッとポケットに入れる類ばかりでなく、ドサッと籠に入れて、カートに乗せたままレジを通らずスルッと出ていく“カゴ抜け”もあり、これは高齢者の女性でした。言っておきますが、リアルに貧しい人ではないですよ。割と立派な持ち家に住む、生活に困っていない
レジ袋が有料化されると、籠を持ち帰ってしまう“カゴパク”が流行りましたが、
ここ十年ばかりで、スーパーの買い物は、なんとも寒々とした気分を伴うものになってしまいました。
ことの良し悪しは別として、今や値引きタイムのスーパーはまさに仁義なき戦場、ズルしても勝てば良し……と考える老人が顕在化してきたように感じます。
世知辛いことですね。
ときの政権のモラル低下がマスコミで指弾されていますが、極めて身近な日常では、もはや最低レベルのモラル崩壊が進んでいると実感せざるをえません。
あらゆることについて、ズルして勝つことへのハードルが低くなった社会。
バブル前には考えられなかった行為が、公然と行なわれるようになりました。
まるで終戦直後の闇市みたい?……といっても、私は体験しておりませんが。
このように庶民のモラルがあからさまに低下した現在、「ひとはひと、われはわれなり」と我が道をゆく“松本スピリット”の化身である“おいどん”のキャラクターは、哀しいことに、もはや絶滅に瀕しているというのが現状でしょう。
“男おいどん”は、あらゆる点で貧しくても、彼の生き方のモラルは21世紀ほどには凋落していなかったのですから。
*
では、2004年からOVAが発表され、2007年にDVDボックスが発売された『大YAMATO
残念ながら、“おいどん”はそのままのキャラでは出演していません。
しかし、複数の登場人物に分散して、その個性が引き継がれていると思われます。
たとえば最初の『宇宙戦艦ヤマト』では、“おいどん”キャラがそのまま移植されてはいないものの、医師の佐渡先生とアナライザーのペアが、“おいどん”的な位置づけでしたね。
そして、強大な敵にかなわず、慢性的な敗北を強いられ、屈辱に耐えて耐えて、最後にヤマトの発進に人生の再起を賭ける沖田艦長もまた、“おいどん”の分身であるといえましょう。
『大YAMATO
たとえば、艦長オズマの過去。
彼が隻眼であること、その将官帽が一部分裂けていることの理由が、彼の心中の“おいどん”を物語ってくれたかもしれません。
「ひとはひと、われはわれなり」
他者に支配されず、よろめくことなく、我が道を行く大YAMATOの雄姿、その根底に宿る“松本スピリット”が、いまだ描かれていない後半五話分で、熱く噴き出したのではないかと思うのです。
そうだとすれば、この作品は、『男おいどん』への哲学的な原点回帰となったことでしょう。
残念なことに、とても残念なことに、後半五話分は幻となったままです。
しかし、前半五話分に込められた松本零士先生のスピリットは、2008年に発売のDVDボックスに添付された、たった一枚の小さなリーフレットの最後の文言から
「この作品を天国にいる宮川先生と優希さんに捧ぐ…。」
この作品に秘められた熱意が、この一言に
公式に献辞を添えられた、ひょっとすると唯一の松本アニメかもしれませんね。
“優希さん”につきましては、ウィキの『大YAMATO
ですから……
松本零士先生にとって、おそらく特別な一品として、並々ならぬ気概で創りだされたと思われる、『大YAMATO
大YAMATOこそ、松本零士先生じきじきの手によって、“松本スピリット”が吹き込まれた、宇宙戦艦ヤマトの最も完成に近い到達点ではありますまいか。
20世紀の西崎ヤマトと21世紀のリメイクヤマトの間に置かれた、いわば、黄金の一里塚、とでも言えばいいのでしょうか。
この一里塚を、一介の路傍の石に終わらせてしまうのは、あまりに寂しすぎます。
大YAMATOよ、甦れ。
その再びの発進を願ってやみません。
松本零士先生の、ご健康とご健筆をお祈りいたします。
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