52●『大YAMATO零号』(5)……“男おいどん”と松本スピリット

52●【アニメ】『大YAMATOゼロ号』(5)……“男おいどん”と松本スピリット





 『男おいどん』(1971-73連載)。最初の単行本は全六巻。

 田舎から上京した無一文の少年の、東京でのボンビー生活を淡々と活写した漫画作品です。

 “無芸大食、人畜無害”の主人公が、“大下宿館”の“大四畳半”で、未来を信じながら悶々と赤貧生活を送り続ける……というだけであり、最後まで混迷のまま事態が進展することがありませんので、ある意味、迷作と称してもいいかもしれません。


 舞台は、半世紀昔の下宿屋。

 そもそも風呂はなく、トイレもキッチンも共同という、粗末な四畳半の個室を並べただけのアパートは21世紀の現代ではまず存在しないので、内容のリアリティを期待してはいけません。

 むしろ、こういう感じの“異世界”である……と理解して読めばいいでしょう。


 主人公の少年、背は低くて風采ふうさいも上がらず、とりたてて役に立つ特技も能力もなく、知力も体力も人並み以下です。

 偉大な野望を抱いているはずなのですが、その野望がどういうものなのか、本人にも確たる認識はありません。ただ茫漠として大人物となることを目指しながら、ひたすら何をするでもなく日々を送る、全然イケていない怪人物です。

 漫画の主人公として、現代の作品ではまず失格でしょう。

 21世紀の貧富差カテゴリーでは、格差社会の最下層のほんの少し手前、かろうじてホームレス寸前といった境遇です。

 現代の豊かな社会の冷たい価値観からすれば、救いがたい低スペック人間であり、ただのグータラな怠け者として世間から無視されて、それで終わると思われます。

 ストーリーも、最後まで主人公の望みが実現する兆しはなく、将来の明るさが予知されるわけではありません。


 すげー暗い。

 なによりも本人にはどうにもできない孤独感が、相当なものです。

 当時のニッポンは高度経済成長期、豊かな生活を手に入れた他の登場人物からは、あからさまにバカにされ、冷たく嘲笑されるばかりです。

 絵柄がコミカルなので、多少は笑える要素もありますが、楽しくスカッと笑えるのではなく、切ない泣き笑い……あたりがせいぜいでしょう。


 しかし、私は好きです。この作品、かなり好きです。


 “おいどん”の立場、決して他人事ではありません。

 人生、自分よりも優位な者に虐げられる屈辱や自身の無力感や絶望感との闘いがつきものです。

 だから、描かれているストーリーや、そのリアリティはさておいて、主人公の少年の内面的な精神の中核、その心のやるせない呻吟に共感できるのです。


 人並みの生活を送れていないことをいやほど自覚させられる主人公にとって、毎日が、耐えがたい屈辱の連続です。

 そのたび、主人公は自分自身の劣等感と是非もなく対峙しなくてはなりません。


 そこで主人公は、自分に向けてつぶやきます。


「ひとはひと、われはわれなり」


 けだし名言ですね。

 これはおそらく、無力な主人公の、世間の不条理に対する最強の抗議プロテスト

 常に敗北を強いられる主人公が自滅を防ぐ、唯一の武器なのだと思います。

 この作品が、傑作だなあ……としみじみ思うのは、このセリフゆえです。


 他人は他人、自分は自分。


 つまり、他者と自己の優劣を比べない。

 自分の価値観のみで、自分の幸せを探す。

 シンプルな哲学ですが、これを唯一の支えとして主人公は生き続けてゆくのであり、それだけに、この言葉が無類のタフネスを伴って、心に刺さります。


 とかくSNSで他者と自分を比較し、わずかな優位性を捜してマウンティングにいそしむ21世紀人には、いささか理解しがたい人生哲学かもしれません。

 しかし、自分が他者の上か下かで一喜一憂したところで、何ら詮無いこと。

 人間、死ぬときはどんなにじたばたあがいても、たった独り。

 だれかと一緒に……という横着な注文は不可能です。

 そんなことを他人に強制してはなりません。

 結局、生も死も、最後は自分独りで受け止めなくてはならない。

 それが、この格差社会で、万人に等しく与えられた唯一にして普遍の摂理ですね。


 『男おいどん』は、そういった心の覚悟を考えさせてくれます。

 我は我なり。ゆえに誰がなんと言おうと、我はゆく、我が道を。

 これって、地球を飛び立つヤマトの檣楼しょうろうに一人立つ、沖田の心境に通じるのではありませんか。

 これは哲学です。

 松本フィロソフィ、あるいは“松本スピリット”とでもいうべき精神性です。


 だから『男おいどん』は……

 松本零士先生の最高傑作だと思います。



 というのは、「ひとはひと、われはわれなり」の哲学を具現化する登場人物が、さまざまな分身となって、以後の松本作品に生き続けていくからです。

 『男おいどん』の主人公の少年は、いつのまにか大四畳半を飛び出してしまい、『銀河鉄道999』の鉄郎や、『宇宙海賊キャプテンハーロック』のトチローなどに扮し、『ワダチ』や『ガンフロンティア』『戦場まんがシリーズ』、さらに幾多の作品へと拡散しています。


 “おいどん”的なキャラには、松本零士先生ご自身が投影されているとか。

 いわば、作中の作者。

 松本作品の大半に共通して登場する、最も普遍的なマルチロールキャラクターともいえるでしょう。


 つまり……

 “おいどん”的なキャラクターとともに、「ひとはひと、われはわれなり」の哲学が各作品を一本の横串で貫いているということですね。




 【次章に続きます】





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