20●『ホルス』から『かぐや姫』へ(2)…人と自然の対立を避けた『未来少年コナン』

20●『ホルス』から『かぐや姫』へ(2)…人と自然の対立を避けた『未来少年コナン』





〈『未来少年コナン』(1978)〉

 超磁力兵器を使用した大戦で地球環境に“大変動”が発生、大陸はことごとく海没し、一度大自然が滅んだ二十年後の世界が舞台。

 自然の回復力は目覚ましく、わずか二十年で草木は茂り、碧い海原に魚類の群れが泳ぐ。

 この“滅びから回復しつつある限られた自然”から得られる生活資源をめぐって、崩壊に瀕する科学国家インダストリアが、自然を守り育て収穫する理想郷ハイハーバーを侵略する。


 『太陽の王子ホルスの大冒険』と異なるのは……

 すでに一度人類が大自然を滅ぼしており、残された貴重な自然の恵みをめぐって、強者が弱者から奪おうとする図式ですね。

 『太陽の王子ホルスの大冒険』のような“人類vs自然”ではなく、“人類vs人類”です。

 “壊すか奪う”生き方の人々と、“作るか育てる”生き方の人々がせめぎ合い、後者の人々が勝利します。


 これ、考えようによっては、『太陽の王子ホルスの大冒険』の続編ともいえる性格を有しているのですね。

 『ホルス……』の村人たちは、農耕牧畜を知らない、狩猟採集民族です。

 歴史的には、その後いずれ農耕牧畜を営む人類勢力が現れ、狩猟採集のノウハウしか持たない旧来の勢力がその蓄えに目をつけて資源争奪戦が起こると思われます。農業や牧畜をなりわいとする村々を、海賊や山賊が襲って収奪するという図式ですね。中世的な『七人の侍』の世界です。

 その状況を、古代ではなく未来に舞台を移して再構成したのが『未来少年コナン』であると考えられないでしょうか。


 主要キャラとしては、まずはヒロイン役が、『太陽の王子ホルスの大冒険』のヒルダの影を引きずっています。

 善と悪、あるいは二つの正義の間に引き裂かれる苦悩のヒロインです。

 しかし、一人の少女が心の中で引き裂かれて苦しむという状態は、絵的には、極めて描きにくいものです。胸をかきむしって煩悶するくらいしか、演技のしようがありません。

 そのため『ホルス……』では、善を現すチロ、悪を現すトトという二体のペット動物キャラを用意して、それぞれにヒルダの内面の心を代弁させる……という複雑で高度な技巧が用いられました。

 この手法は素晴らしい演出効果を上げ、最後にヒルダ自身がトトを切り殺すことで、“悪魔からの脱却”を視覚的に表現したあたりは、じつに見事です。

 とはいえ、一人の人物を表現する手間が本人と二匹のペットの分、つまり三倍になるわけでして、シナリオ作りがもう大変になることは目に見えていて、ヒルダの心理描写にとてつもない労苦が注がれたことは確かでしょう。


 “引き裂かれたヒロイン”をもっとシンプルに、わかりやすく表現するには、どうすればいいのか……


 そこで『未来少年コナン』では、ヒロインが二人のキャラに分離して描かれたのです。

 善を象徴するラナと、悪を象徴するモンスリーです。

 『ホルス……』で善悪を代弁していたチロとトトの役割を、それぞれそのまま、二人のヒロインを立てて、あてはめてしまったともいえるでしょう。

 この手法も成功したと思われ、その後の作品に引き継がれました。

 『風の谷のナウシカ』のナウシカとクシャナ。

 そして『もののけ姫』のサンとエボシ御前です。

 しかも、悪役ヒロインとはいえ、その生い立ちに宿命的な暗い出来事を抱え、心理的なトラウマとなっている点で、モンスリーもクシャナもエボシも共通します。

 観客が同情する余地を与えていたのですね。

 正義ではない、しかし極悪ではない、と。

 モンスリーもクシャナもエボシも、人知れず悩んで、自分を変えていきます。

 物語の最初と最後で、最も大きく人格が変貌する、劇的なキャラクターなのです。


 とりわけモンスリーは、コナンの影響を受けることで、自らの内面で善と悪がせめぎ合い、ホルスに影響されるヒルダと全く同じといっていい“引き裂かれたヒロイン”を演じました。

 つまるところ、ラナとモンスリー、ナウシカとクシャナ、サンとエボシ、いずれも、『太陽の王子ホルスの大冒険』のヒルダの分身でありバリエーションだと考えて差し支えないと思うのです。


 さて主要キャラのもうひとり、コナンですが、明らかに十年前のホルスを継承しつつ性格を少しいじった“ホルス・マークⅡ”ともいえる人物像とされています。

 超人的な身体能力、とりわけ彼ならではの特技は、どんなに高いところから落ちても死なないこと。

 二人きりで暮らしていた父親キャラを亡くし、仲間を求めて一人で船出してゆく“旅の勇者”的な設定。

 これらの点は共通していますが、性格はやや異なり、ホルス君のような“ヒルダからみて実にうっとおしくて押しつけがましいと感じる”説教臭さからは脱皮して、天然というか能天気というか、陽気で前向きのキャラを全面に出しています。

 生い立ちは孤独ですが、そのかわり“絶望”を経験していない、“絶望”というものを学んでいない、これが強みなんですね。


 そのおかげで、『太陽の王子ホルスの大冒険』からダークな側面を綺麗に取り払い、明るくてすっきりした結末を、『未来少年コナン』は実現できたと思われます。


 しかし……

 『未来少年コナン』は、エコロジーの側面をモティーフとしながらも、その本質にせまる場面は避けたように思えます。

 人類による自然破壊は、二十年前の“大変動”にまとめられ、今、人類は反省してその罪を償わねばならない。自然破壊に邁進するゆとりはない……というスタンスですね。


 ですから『未来少年コナン』は、“人類文明と大自然”の相克、文明による自然破壊の問題には触れていません。

 つまり、人間と人間の対立による戦争と平和の物語です。

 人類は大自然の猛威に対してあくまで無力。

 インダストリアは沈み、新大陸は隆起します。

 しかしそのかわり、 “大変動”で滅びた大自然は、なぜか、意外と簡単によみがえりつつあります。

 何もせずほおっておいても、自然は回復していく、いずれ傷は癒される……

 そんな“楽観”が画面に流れていました。

 ラストシーンの“新大陸”が、すでに植物の緑で飾られていたことからして、そうですね。


 ……でも、それはちょっと、甘いんじゃないか?


 そう考えたアニメファンもいたことでしょう。

 そんな疑問に対する、完璧にして強烈なまでの回答が、『風の谷のナウシカ』でした。




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