第5話 水野亜玖亜は読まされる #2


「ずっと待ってたんですよ、綾香さん。あなたがノートを持ってる間、執筆が全然進まなかったんですから。ま、綾香さんなら絶対自分で持ってくると思ってましたけどね」


 碧宇美こと御厨美紅はつかつかと私に近づいてきて、一口にそう言った。腰に手を当て、悪戯げに口の端を吊り上げて見せる。逆さ三日月のようににんまりとしたキレのある眼に射竦められると、氷漬けにされたかのごとく目を逸らせなくなる。最近の女子高生ってほぼ初対面の相手にこんなにマウントを取ってくるものなの……?

 図書館で抱いた彼女の貞淑なイメージは、数日ばかり保っていた儚い表層にひびが入り、音を立てて崩れていく。

 いや、それよりも大事なことは——、


「あなた、綾香——って、どうしてあなたが私の名前を知ってるの?」


 私の中で美紅の顔と名前、そしてペンネームが一致しているのは、先日図書館で拾ったノートという手がかりがあったからだ。

 美紅の方からしたら、図書館で出会った私が赤谷綾香という名前であり、ペンネーム水野亜玖亜として活動しているアマチュアWEB小説家であるという事実に繋がる導線を持っていない。


「せっかくですから、散歩でもしませんか?」


 こちらの返事など聞いていないという風に、美紅は大橋をずんずん先に進んでいく。

 私は小走りになって彼女の隣に並ぶ。風を切ると秋の空気がストールの中に忍び入ってくる。彼女の背丈は思ったより低かった。


「ほんの少しだけ昔」


 自動車が走り抜ける音をBGMに、美紅は私の耳に届けるのに必要十分な声量で、淡々と語り始める。


「ある出版社に小説を持ち込んだ少女がいました」


 ボブカットのサイドが美紅の表情を隠すようになびいている。


「その小説は異世界ファンタジー風本格ミステリーという、一風変わったジャンルでした。もし世に出ていれば、テンプレ通りの異世界ファンタジーに傾倒しかかっていたライトノベル界に、一石を投じる作品になったかもしれない」


 美紅は足元の小石をローファーのつま先で蹴飛ばした。それは真っ直ぐに彼女の行く先に転がっていく。


「しかし、現実にはそうはなりませんでした。少女はその小説を担当編集の男にこき下ろされ、作品はお蔵入りに。それにすっかり心が折れてしまったんでしょうか——。可哀想に、少女は二度と持ち込みにはやって来ず、文壇に立つのを諦めてしまいました」


 美紅は追いついた小石をもう一度蹴飛ばし、その行方を見ずに、私に向かって顔を上げた。感傷に浸るような表情で。

 間違いない。随分と脚色されているけれど、筋書きは合っている。


「——その小説が、一人の少女に夢を見させたことを知らないまま」


「その小説って、私の……」


「そう、『幽体転生 〜異世界に転生し損ねたわたしは幽霊のままラストダンジョンを彷徨う〜』ですよ。綾香さん。私にライトノベルの楽しさを教えてくれた、初めての小説です」


 胃のあたりがひくりとする。

 何かの冗談にしか思えなかった。あんなに流麗な日本語で、あんなに繊細に人間の機微を描写する小説家が、事もあろうにたった一人の読者にへし折られた私の作品をもてはやしている。そんなはずがない。第一、作風もジャンルも全く違うではないか。


「からかわないでよ。美紅さんの方がずっと面白い小説ものを書けるんだし。だいたい畑が違いすぎじゃない。私の作品からあんな恋愛小説が生まれたなんて言われても、誰だって信じられないよ」


「本当です。別に、書いている小説と読んで面白いと思う小説の方向性が同じじゃなきゃいけない決まり事なんて、ありませんし」


「それは——そう、だけど……」


 美紅は嘘偽りないと言わんばかりに、端正な顔で私を見つめ続ける。


「わたしの原体験を、否定しないでください。綾香さんだけはせめて」


 その表情を見て初めて、己の過ちに気がついた。好きな作家が自身の作品を否定している姿なんて見たくない。そりゃ、私とて原点や原典の一つ二つはあるのだ。ゆえに、そのぐらいは私にだって共感できる。

 ——でもねぇ……。


「やっぱり、実感はちょっとないなぁ……」


「……こほん。『トラックのフロントガラスに散ったのは桜の花びらではなくわたしの命だった。ひびの入ったフロントガラスに張り付く血塗れの女子高生の死に様は、壮絶以外の何ものでもない。「ほぇぇ……これが死後の世界ってやつかぁ。まさか自分の身体(しかもぐちゃぐちゃ)を客観的に見る日が来るとは思わなかった」わたしは事故現場の真上を漂い、ぐにゃりと歪んだ肢体を真上から見ている。しかし、薄い膜を隔てているかのように、世界の輪郭はぼやけている』——」


「——!? うわ、うわわわ——っ」


 動揺する私をよそに、美紅は情感たっぷりに抑揚をつけて続ける。


「『ふいに、どこからか、抑えたような低音の笑い声がこだまする。「ほう。自らの死にこうも動じない人間も珍しい。多少は見所がありそうだな」「誰……?」眼下には目撃者の垣根を越えて救急隊員が集まっていたが、誰一人としてその声に反応した者はいない。「娘よ、余の僕となって働いてみるがよい——!」その叫びと共に、視界が暗澹たる紫に染まる。十六回目の、夏の日の出来事だった』」


「——やめっ、分かったから!」


 私は手をばたつかせてギブアップする。美紅がそらんじたのは『幽体転生 〜異世界に転生し損ねたわたしは幽霊のままラストダンジョンを彷徨う〜』の冒頭部だ。

 自分の小説を一言一句はっきりと声にして読まれる責め苦は、かつて痛いほど味わっている。その場でミジンコになって逃げ出したくなるくらいのダメージを急所に叩き込まれたほどの、いたたまれない気分だった。


「少しは信じてくれました?」


「——そう、ね」


 美紅が暗唱した一節は間違いなく、あの小説の文言ほぼそのままだ。他人の小説を丸ごと暗記するなんて簡単なことじゃない。少なくとも美紅は『幽体転生 〜異世界に転生し損ねたわたしは幽霊のままラストダンジョンを彷徨う〜』を繰り返し読んだに違いない。

 ——私の小説が、美紅の心を動かしたってこと……?


「すっかり日も暮れてきましたね」


 車のヘッドライトの光を背負った少女が黒いシルエットになる。それと同時に発せられる言葉。


「散歩、付き合ってくれませんか?」


 うっすらと再び、少女の邪悪な笑顔が覗いたような気がした。




   ***つづく***

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