第5話 水野亜玖亜は読まされる #1
◆
「俺が一人で行くよ」
アレスは夜更けの石畳に立ち、ヒナコに告げた。過去の勇者の記憶が封じ込められているという鎧は石英のような結晶に覆われていて、未だその本懐を見せていない。
「で、でも——リナリア様は……悲しむよ。私も……」
「だからこそ、俺はヒナコたちを危険な目に遭わせるわけにはいかない」
アレスは片手を上げる。カツンと石英が擦れ合った。
「絶対に勝って帰ってくる。それが例え、七王の一人だとしてもな」
◆
私はこめかみを叩きながら、書いたばかりの千文字余りを削除する。
——勇者アレスにはリアリティがありません。
そうは言っても、ねぇ……?
『波止場』における碧宇美とのやり取りは続いていた。
心動かされた表現や展開を褒め称える一方、「ここ、誤字がありました」「こんな表現にしてみてはいかがでしょう?」など、お互いに研鑚する関係になっていた。そうしていくうちに、私の作品にも少しずつPVが付くようになってきた。まぁ、碧宇美のコメント欄から流れてきた読者がほとんどだろうけど……。それにしたって、貴重な読者に変わりはない。応援やコメントをつけてくる人もいて、以前よりずっとモチベーションが高まっているのを感じていた。
彼女との交流の中で私はふと思い出すのだった。拙い作品に飾り気のない『何故』を問いかけてくれるあの子のことを。
*
今日も一人、図書館にノートパソコンを持ち込んで小説のネタ出しをしている。パソコンの脇には図鑑などの資料がどさりと積んである。子供の頃はグロテスクだからと遠ざけていた昆虫図鑑だったが、今となっては物語に登場させるモンスターの造形に欠かせない必携の書だ。
自分の作品を読み返してみるまでもなく、碧宇美の指摘は至極ごもっともである。言い返す余地もない。
根本的に私は、人というものを知らないんだと思う。
だからキャラクターを描いても、実像がぼやけた記号の寄せ集めになってしまう。そこには『その作者ゆえに描ける人間味』とでも言うべき必然が抜け落ちている。
表現とは物量と一貫性だ。文字の奔流。際立たせたいところは特に大仰に言葉を尽くし、人物の関係やそれにまつわる事件を広げながらも、一つの揺るぎないテーマに向かっていく。ごく稀に、端的な一言で全てを表現してしまうような、妙なりと唸らざるを得ない文章にも出会うけれど、それはごく一部だけのこと。原則としては物量と一貫性の二本柱だと信じている。
それらを支えるのは、知識と経験によって磨かれた作者の感性。
理屈は分かっているつもりなのだけれど、どうにも埋め合わせる手段を知らない。
大学に入って友達と呼べる存在はできなかったわけではない。しかし、相変わらず一人で読み書きに耽る時間の方がずっと長くて、人付き合いは程々に得意じゃない。時たま誘われる合コンやサークル活動にもピンとこない。もしかすると、小説のネタになるチャンスなのかもしれないのだけれど……。
バイト先は——あり得ないな。五十を過ぎた貫禄のある店長を筆頭に三十余りのパッとしないおじさんたちが営む古びた古書店だ。
雑念ばかりに押し流されて、キーボードに置いた手は先の物語をろくすっぽ綴ってくれない。勇者パーティーの場面を書いていると、碧宇美のコメントが蘇ってしまって、書いてはみるもののボツを連発している。
——仕方ない。モンスターとの戦闘シーンでも先に書くか。
パソコンの画面に目を向けたまま図鑑に手を伸ばす。すると、手元が狂ってしまい、書籍の塔の中ほどを押し込んでしまう。しまった——と思う前に、忽ち塔の上層は崩れ、図鑑を始め数冊の本が隣の席に落ちてしまった。どさどさと重たい音が図書館の静けさに響く。
「すみません、大丈夫ですか?」
図鑑が落ちた先を確認しながら、臨席の人に小声で声をかける。よかった、手に当たったりはしていないみたいだ。机上には大学ノートと日本史の教科書——学生だろうか。
「はい、ご心配なく。ええと——昆虫図鑑、ですか。何か調べ物でも?」
丁寧に本の表紙を払って差し出してくれたのは、予想通りというか、ダークネイビーに白のライン——冬服のセーラー服を着た学生の少女だった。近所の小中高一貫お嬢様学校の制服だ。小首を傾げると、肩で切り揃えられた艶のあるボブカットも綺麗に傾く。
「ええ。大学の課題でね、ちょっと生物学のレポートを書いているんですよ」
さりげなく振られた世間話に適当に相槌を返す。職業小説家になる前から小説家を名乗れるほど肝は座っていない。
「……こちらも、生物学のレポートですか?」
彼女が手にしているのは図鑑に巻き込まれて落ちたうちの一冊——『中世ヨーロッパにおける装飾と文化』だ。もちろん生物学とは一切関係ない。
「え、あ——。いやぁ、そっちは人文の課題で……」
「へぇ……。大学生って大変なんですね」
二人でせっせと書籍の塔を積み直す。少女は律儀に手伝ってくれた。
うっかり増やしてしまった余計な一仕事を終えて、少女にお礼を伝える。あらためてノートパソコンに向き直ると、隣の少女がビロードの絨毯の上の椅子を滑らせて立ち上がった。
「それでは、わたしは帰りますね。課題、がんばってください」
「ううん、ありがとう」
少女は深々とお辞儀をすると、踵を返して颯爽と歩いて行った。なんとなく、その背中が小さくなるまで見送ってしまう。
仕草のいちいちが素敵な子だった。しかも物腰が柔らかく丁寧だ。やっぱりお嬢様学校に通っているような女の子は、身体と心の——器と魂の造りからして違うんだろうか。
図書館の壁掛け時計を見ると、閉館時間も間際になっていた。書籍の塔を一段ずつばらして、借りて帰る本を選んでいく。図鑑を二冊と、ヨーロッパのやつも必要だろう。何せ次回はアレスの新装備のお披露目でもあるのだ。世界観にあった鎧兜を描いてやりたいものだ。
今日は結局五百文字くらいしか進まなかった。特に七王との決戦を前にして緊張感漂う勇者パーティーが街を歩く『日常』の場面が一文字も進んでいない。明日投稿するのは難しいかなぁ……。肩口から脱力感が一気に襲ってくる。
——あれ。この本……——いや、ノート?
書籍の間に、見知らぬ大学ノートが挟まれていた。さっきの少女の忘れ物に違いない。塔を積み直すときに紛れてしまったのだろう。
——さて、どうしたものか。
図書館の人に預かってもらうのが一番いいような気がする。
制服から学校は割れているし、ノートの表紙には几帳面な丸文字で名前が書かれてある。その気になれば、返す手段はあるのだけれども。
表紙には名前以外の文字が書いていない。何の教科だろう……。
試しにと、ぱらりと一ページめくってみた途端に、全身を戦慄が走った。
*
豪奢な白い正門の脇で、私は居心地悪く立ち尽くしていた。
今日の私は他所行きの装いだ。ニットのハイネックセーターにカシミヤのストールを羽織り、ダークブラウンのフレアスカートを穿いている。
とはいえ、行き交うのはダークネイビーのセーラー服に身を包んだ少女たち。場違い感からか、無駄に視線を感じてしまう。
待ち合わせなどしていない。だから、その子が何時に出てくるのかは知る由もない。でも、なんとなく、帰宅部のような気がしたのだ。『彼女』が女子高の中でその小説を書いているとは思えなかったから。
はてさて、その予想は的中することになる。あの短い対面のうちに覚えてしまった、艶のあるボブカット。
「——
「綾香さん。行きましょう。そこの、橋のところまで」
言うが早いか、少女はさっさと歩き出してしまう。私はその後ろを離れないようについて歩いて、多摩川にかかる大きな橋の袂までやってくる。
「思ったより遅かったです」
「碧宇美さんね?」
「ええ。ようやく来ましたね。水野亜玖亜さん」
少女は口角を歪め、邪悪と形容するしかない笑みを浮かべた。
***つづく***
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