第4話 水野亜玖亜は読んでしまう
◆
それは、スタジオ練での一幕だった。
曲の出だしのワン・ツー・スリー。いつも走りがちなドラムスティックのリズムがどんなに待っても聴こえてこない。
気になって肩越しに振り返ると、
「私は、別に……。あなたたちみたいに、好きでバンドをやってるわけじゃないんです!」
「
床に膝をついて、その楽譜を一枚一枚、丁寧に拾い集める少女の名前が、思いがけず私の口から漏れた。臙の音に迷いがあるのは少し前から気付いていた。翠はその事情まで察している様子だ。だって、臙を最初に誘ったのは彼女だから。
「どんなにがんばっても、私は来年——高校生になったら、バンドを辞めなきゃいけないのです。それが、お父様との約束なのですから……。すぐ目の前の終わりのために演るなんて道化が過ぎるじゃありませんか?」
「臙……、やっぱり違うよ」
翠は臙に、拾い上げた楽譜をそっと手渡す。
「終わらせないために歌うのさ。歌って歌って歌って、いつかあのSCOREを超えて最速で武道館に行こうぜ!」
臙が翠の双眸から逃れるように俯いた。
「そうだね。そこまでやったら、見返してやれるんじゃない。バンドと神職、両方目指すくらい欲張って、何が悪いのってさ?」
これはリーダーである
——底抜けに楽天的というか、世間知らずというか。
バンドが成功するかも分からない上に、その結果に臙の両親が納得するかも確証がない。ただでさえしきたりに厳しいであろう神職になったら、バンドと両立する余裕など残らないかもしれない。
「あはは、相変わらずハクは無茶を言うね」
——でも。
「——でも。でもだけど、もしそれが果たせるとしたら、わたしはこの四人が良いな」
一度は諦めた夢をもう一度見させてくれた今の仲間たち。灰白、翠、臙——。
スタジオの大型鏡に映った私——
◆
酒深み朝のさえずりいと忙し。
こめかみを押さえて起き上がると、猛烈な頭痛に襲われた。テーブルの上には空になったビール缶が七本、所狭しと並んでいる。ベッドにも入らず床で眠りこけてしまったらしい。身体が冷えてしまっていて、ぶるっと身震いしてしまう。
壁掛け時計を見るともう午前九時を回っていた。
特に予定があるわけではないが、休日に執筆をする際は身支度を整えてからという個人的なルールに則って、シャワーを浴び、長袖のTシャツとリネンのロングスカートというラフな格好に着替える。
ブランチとして目玉焼きトッピングのトーストをがっついていると、持ち主とそっくりの寡黙なスマートフォンが鳴り響いた。馴染みのない電子音に、肩がびくりと跳ねる。
私の行動圏内は大学とバイト先くらいで、どちらもマナーモードが鉄則。ついつい家の中でもそのままにしていることが多いため、聞き慣れない音に思いの外驚いてしまった。
——あなたのコメントに作者から返信がありました。
それは、『波止場』からの通知だった。
滅多に来ることのない通知に、そして作者の名前——碧宇美——の文字に、瞬時に顔面が沸騰する。思い出したから。私が昨日、何をしたのかを。
私はトーストを咥えたままテーブルを離れ、パソコンの前へと駆け出した。電源を入れて、起動する時間ももどかしく、トーストの最後の一切れを飲み込む。
足の指をもぞもぞさせながら待っていると、ようやくパソコンが操作できるようになったのでブラウザを立ち上げ、『波止場』のコメント欄に辿り着く。
そこには果たして、昨日私——水野亜玖亜が碧宇美に送ったメッセージが表示されていた。
◇
こんばんは、碧宇美さん。初めてコメントをします。
バンド解散の危機に直面した第六話を彷彿とさせる大ピンチですね。当時はメンバー同士お互いをよく知らないせいで行き違いが生じていましたが、今回はメンバーの個人的な悩みが発端となっているので根が深そうです。前話から臙の思い悩む様子がつぶさに描かれていて、ふいになりきって読んでいる自分に気がつきました。
きっと仲間がいるから大丈夫。ドラマーの臙が無事に家庭環境を乗り越えて復帰するよう祈っています……。
それではまた、次回を拝読するのを楽しみにしています。
ところで、七十行目についてですが『燃えるような』と表現されているのですが、ずっと臙の中には暗い想いが根差していたことを考えると、もっとしつこく『煮えたぎるような』ものじゃないでしょうかね。
また、そのシーンの後に挿入されている臙と翠の過去回想ですが、これを最初に持ってきた方が引き立つ構成になると思います。
あと、誤字が散見されますね。四十行目のてにをはが気になりました。それから————。
◇
そこから四百字詰め原稿用紙二枚分くらいの難癖が続いている。酔っ払いのくだ巻きでは済まされないくらいの無礼だ。暗黒面がだだ漏れしているにもほどがある。
碧宇美。彼女との繋がりはここ数日のことだ、PV二万、レビュワー百人ほどの人気作家であることは知っている。
かたや水野亜玖亜は、PV三十八の弱小作家。
執筆歴は脇に置くにしても、評価だけをみれば天と地ほどに違いがある。そんな天上人のごとき彼女に向かって、偉そうに指摘しているコイツは何様になったつもりだろうか。その上、碧宇美は私の作品全てに対して丁寧にコメントをしてくれているマジもんの天使だ。
割れんばかりの喝采、高らかな賛辞の言葉が並ぶコメント欄にあって、私のコメントは異彩を放ち過ぎている。明らかな異分子。このままでは作者や読者を不快にさせるばかりか、最悪自分のコメント欄が炎上しかねない。巷では炎上商法なんてやり口もあるが、私の
まだ過激なファンの目に晒されていないことを祈りつつ、コメントの下にある削除の赤文字をクリックしようとした瞬間、タイミングを窺っていたかのように再びスマートフォンが鳴る。
——あなたの『無線記録』にコメントが届きました。
それは、再び『波止場』からの通知だった。
◇
おはようございます、亜玖亜さん。
コメント拝見しました。お返事も心を込めて
P.S. 間違ってもノーチェックで削除されませんよう★
◇
我知らず呼吸が浅くなっていた。特に最後の一文が怖すぎる。
気持ちを落ち着けるために深呼吸をする。そう、すでに碧宇美はこのコメントを読んでしまっている。慌てるな。
私は意を決して、恐る恐る、コメント欄に立ち戻った。
◇
コメントありがとうございます。水野亜玖亜さん。
なりきってしまうほど深く没入していただけて、作者にとっても物語にとっても幸せなことです。
そうですね。今回は臙の悩みが発端。トラブルの根本が違うので、これまでのように万事何事もなく解決できないかもしれません。それでも、四人がどう立ち向かっていくのか、ぜひ続きも期待してください。
誤字脱字に関する指摘は本当に仰る通りでした。今読み返すと違和感しか感じられませんね。今後読まれる方々のためにも、全て訂正いたします。ありがとうございました。
さて、『燃えるような』と『煮えたぎるような』ですが、ここは譲れませんね。臙は煮えたぎるような焦りを抱えてはいますけれど、メンバーに向かってぶちまけてしまったのは刹那的な想いであって、それは瞬間湯沸かし器のように『燃えるような』なものだと思うからです。
それと、回想の件ですが————。
◇
マウスの上においた手の甲に、ぽたりと雫が落ちた。
「——……うわ……、どこまでいい子、なのさ……」
デスクトップの黒い壁紙に、底意地の悪そうなつり目の泣き顔が映っている。
私が殴り書きしたコメント、いや、難癖の一つ一つに律儀に返答を書いてくれている。しかも、言われるがままに取り込むのではなく、端から拒絶するのではなく。吟味した上で自分の意見も交えて、より説得力のあるものを選ぶというその行為は、校正に他ならなかった。
碧宇美の瑞々しくもあるひたむきさに、不覚にも心打たれてしまった。この涙はその証明なのかもしれない。
同時に、悔しい、と思った。やっかみに時間を割いている場合じゃない。高校生の身の上でこれだけ書ける子が、重箱の隅をつつくような指摘にさえ、真摯な態度で接している。そして、着実に書く力を伸ばしている。
——私は絶対、ライトノベル作家になるんだ。
涙を拭った私は、気合を入れて今日の分の執筆作業に入り、定例の十九時に第二十二話をアップロードした。
それから、二十二時ちょっと前にコメントが投稿されてきた。もちろん碧宇美からだ。
◇
こんばんは、亜玖亜さん。
いよいよ次回から村を守る闘いが始まりますね。戦闘描写が好きなので、とても楽しみにしています。
ちなみに、今回の勇者のダジャレ「ヒナコぞうに矢を受けてしまってな……」「——ヒナコは象でもないし矢を受けたこともないぞ?」は個人的にツボでした。
さて。これは、ずっと言おうか迷っていたのですが——。
アレスのキャラクター性があまりに薄すぎます。勇者らしい行動をしているのは分かりますが、あまりに意志が見えないというか……。魔剣使いという設定に頼りすぎじゃないでしょうか。主人公なのに一番リアリティがありません。リナリアたちがどうして勇者に付いてきているのか、どうして勇者の決断に耳を傾けるのか、もう一度考え直してみると深みが出るかもしれません。
亜玖亜さんとはこんな風に率直に意見を言い合いたいです。
これからもよろしくお願いします★
◇
——うん。とてつもない切れ味だ。
出版社に持ち込みした際に、担当編集者のおじさんからもらった古傷が疼き出すほどに。
『波止場』におけるユーザー間のやり取りは基本的に褒めて伸ばす方式だ。つまり、作品の良いところを薦めるような、肯定的なコメントが推奨されている。作家に寄り添った優しい空間というわけだ。誹謗中傷に溢れるよりかはずっといいけれど、少しだけ物足りなくもある。まぁ、私は碧宇美以外からコメントをもらったことがないのだけれど。
それにしても、何も思いつかなくて苦し紛れに突っ込んだダジャレが受けて、物語の中心である勇者の人となりには強烈なダメ出しを見舞われるとは。つくづく成長していないものだと思う。
くそう、次回こそ見返してやる。
——とりあえず、明日から。
***つづく***
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