第2話 水野亜玖亜は読まれない #1


 私、赤谷綾香あかやあやかはお昼寝付きの三度の飯よりも、ライトノベル——通称ラノベが好きな大学三年生だ。

 どのくらい好きかというと、「パンがなければラノベを読めばいいじゃない」と言って友達にドン引きされる程度の具合である。毎月三十タイトルくらいのラノベを読み漁り、異世界おばさ——お姉さんの名を欲しいままにしている。


 きっかけは小学生時代に図書室で見つけた青い鳥文庫。そこで出会った『王の奏者』に心を掴まれて以来、異世界を舞台としたファンタジーやSFを読み漁るようになった。読書経験を積み重ねるうちに肌に合うと感じたのは、剣と魔法の王道バトルものだ。それらは特に、ラノベと分類される作品において顕著に見られた。ゆえに、私はラノベに傾倒していったのだった。

 そして、自然と執筆にも興味が湧いた。最初の作品は——今となってはとても見せられたものではないけれど——大学ノートに手書きをした、数千文字の魔女の物語。とある国の王子を見染めてしまった魔女が、あの手この手で彼を籠絡しようとするけれど、少しも相手にされないという、コミカル調のファンタジー系恋愛小説だ。誰にも読ませていないそれは、押入れに突っ込んだ蓋付き収納ボックスにひっそりと封印されている。

 やがて執筆環境を整えていき、スケッチブックにプロットを、原稿用紙に本文を書くスタイルを確立した。放課後や休日は他人と関わるよりも本を読み書きする時間に費やしていった。その頃は、一人で書いて一人で読むことにたいそう満足していたもので、その先にある可能性を考えたことがなかった。


 そんな私が作品を他人に読まれたいと思ったのは、いつからだったろう。たぶん高校に入った頃——、隣の席の女の子に話しかけられてからだ。


「綾香さん、それ何? 作文の宿題なんか出てたっけ?」


 平時は学校で執筆することはない。誰かに心ない一言でもかけられたら、立ち直れない自信があったから。

 でもその日はたまたま、授業中に浮かんだワンシーンをどうしてもしたためておきたくなって、休み時間に原稿用紙を広げしまった。窓際最後列——たなびくカーテンから受ける微風が心地よい、ラノベ主人公の定位置だ。そして、休み時間になるとみんな友達のところに移動してしまうから、周囲にはいい感じに誰もいなくなる。ちょうど一人の世界に没頭するにふさわしい空間なのだけど、


「あう——え——、あの……小説……」


 たまたま残っていたのか、彼女の存在に全く気づかなかった。

 執筆作業を見られることに慣れていなかった私は突然のことに狼狽てしまう。

 ——さすがに挙動不審に思われちゃったよね……。

 一気に暗い気持ちに落ち込んでいく。しかし、彼女は、私の覚束ない単語を噛み砕く間を置いてから、にこりと顔を綻ばせる。


「読んでもいいかな? 綾香さんの小説」


「う、うん……」


「どんなお話を書いてるの?」


「ええと、ライトノベルって言って。今書いてるやつは魔法使いのお話」


 ちょうど書いていたのは異世界の魔法学園を舞台にしたギャグ小説。あまり設定も複雑じゃなく、異世界ファンタジーに造詣が深くない人でも読みやすい作品になるように作り上げたつもりだ。


「ああ、ラノベってやつね。少しだけ読んだことあるよ。『リップル・クエスト』っていう作品なんだけど——」


「知ってる! 面白いよね」


 ファンタジー読みならほとんどの人が名前くらいは聞いたことがあるであろう。大人気の探検家の物語だ。

 同じ作品を読んだことがあると知って、テンションが上がってしまう。つい語りたくなってしまう思いを抑えて、満足げに頷く彼女に、私は書きかけの原稿用紙の束を手渡した。

 念のためだけど、万が一吊り上げられて笑い物にされたときのことを考えて、舌を噛み切る覚悟を決めておく。


   ◆


 魔法学園の二棟ある建物のうちの一棟が炎上していた。天を焦がす勢いで真紅の柱が揺らめていた。それは赤黒く舐めるような不定形にドス黒い煙を巻き上げるような普通の炎ではない。魔法によって生成された消して消えることのない形状の固定された火柱だ。

 私の友達のキトゥリは腹を抱えて爆笑する。


「はっはっはっ。こいつぁ虹じゃなくて火事だな。やるじゃねーか、エファ」

「いや、全然笑えないし! どうしよう!」


 エファは私の名前だ。

 唐突に「虹を見たい」と言ったキトゥリの要望に応えるために、校庭に出て魔法の実演をしたのだけれど、つい先刻の授業で記憶した術式と混同してしまって、うっかり火の魔法を行使してしまった。


「水の魔法で消しゃあいいじゃん?」

「だから、水の魔法は得意じゃないんだって。ちょっとだけ雨を降らせて虹を出すくらいしか……——————」


 ——いや、待てよ……。


「ん、どうした。丸一日煮込んだトンコツみたいなポンコツ面して」

「そうよ! あんたのダジャレ魔法で、火事を虹にするのよ。虹を生み出す条件は私がなんとかするわ」


 普段から親父ギャグ顔負けのダジャレを口癖にしているキトゥリだが、彼女が最も得意とする魔法は、語感の近い言葉による事象の置換——私たちは敬意を表してダジャレ魔術と呼んでいる。つまり、目の前で起こっている火事かじという事象をにじという事象に置き換えてしまうのだ。語彙力こそ必要になるものの、高レアリティの強力な魔法だ。


「おま、天才か!」

「うるさい。トンコツとかポンコツとか呼ばわったのはあとで精算してもらうからねっ」

「非常事態だ、大目に見ろ!」

「ざけんな!」

「わかったわかった、あとで豚骨ラーメン奢ってあげるよ」

「ざけんな! 許す!」


 叫びながら、私は詠唱前の刻印を切った。目の前に小さな雨雲が生成されつつある。キトゥリもまた、言の葉に集中するように目を閉じている。

 かくして私たちは、自分たちの巻いた火消しに乗り出すことになった。


 キトゥリのダジャレ魔術は期待通りの効果を、発揮し焼け野原の校舎の上空には七色の橋がかかった。


 ちなみに生徒に犠牲者は一人もなく、骨組みまで焼け落ちたはずの校舎は、次の話では何事もなかったかのように復元されていた。


   ◆


 原稿用紙をめくっている彼女は、穏やかに睫毛を伏せて、時折くすっと笑っていた。私の書いた殴り書きみたいな文字を追いかけて、そこに広がるストーリーを楽しんでいる。少なくとも私にはそう見えた。


「可笑しい。綾香さん、言葉遊びが上手なんだね」


 自分のために書いた作品をこうして他人に読まれるのは恥ずかしかったけれど、それ以上に何か——感情が明滅するような高揚感が湧き上がってくるのを実感していた。それが私にとって、『読まれる』ことの原体験だ。

 些細な出来事、ちょっとだけ勇気を振り絞ったコミュニケーション。だけど、このとき初めて明確に「ラノベ作家になりたい」と思うようになった。


 でも結局、クラス替えと同時に彼女との関係は切れてしまった。

 そうなってみて初めて気づいた。彼女は一年近くも私に付き合ってくれたけれど、その間に「すごい」とか「面白い」とか手放しの賛辞をくれたことは一度もなかった。代わりと言ってはなんだが、「この用語の意味は何?」とか「キトゥリはどうしてこんな変な行動を取ったの?」とか、素朴な疑問をたくさん投げかけてきた。その度に、わたしはしどろもどろな返答をしてお茶を濁し、密かに自分の筆力不足を恥じたものだけど。

 もしかしたら彼女は、私の無味乾燥なラノベを流し読んでは、双方が傷つかない感想を必死で探していたのかもしれない。そう思うと、顔見知りのアマチュアの子に作品を読ませるのは、恥ずべきことに思えてきたのだった。




   ***つづく***

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