第5話

「紫苑、行くよ! 今日はサッカーするんだから」

「ま、待って姉さん。袖が伸びる! せめて手を握ってよ!」


 これは夢だ。そう理解するのには時間はかからなかった。グランドに向かう僕、その腕を引く。それを俯瞰的に眺めている。

 僕と姉の背丈は去年頃には並んでいた。だから、この夢はかなり前の記憶になる。姉は中学生になるとあまり僕に構わなくなったから、たぶんお互いに小学生に属している時の記憶だろう。


 この時の自分は姉にかなり憧れを抱いていたと記憶している。姉は俗にいう優等生という奴で、クラスの人気者だった。勉強も苦も無くこなしていたし、特にスポーツでは向かう所敵なしと言っても過言ではない。

 そんな姉に、身近で偉大な姉に憧れを抱いたのは……いつのことだったか。記憶に無いぐらいには遥か前だ。物心ついた頃と言ってしまってもいい。まあ、その真偽は置いておく。今となっては分からないし。明確化する必要もないからだ。


 脱線した話を戻そう。


 姉の憧れを自覚する前から憧れていた僕にとって、姉を目指すのは必然だった。姉の様に“他者に認められる何者か”になりたかった。

 僕は姉の後を追い、地元の中学に進学した。姉のいた部活に入った。それで僕も姉の様になれるはずだと思ったのだ。それだけで、望みが叶うはずもないことは、ちょっと考えれば気が付きそうなものだとは思う。けれど、僕は気が付くことのないまま中学を過ごし始めた。


 途中、違和感を覚え、努力を始めた。

 努力の量を増やしたり、改良をしたりもした。

 でも、結論だけ言ってしまえば、そのどれもが報われる事はなかった。

 目標としている姉、その手前にすら僕は届かない。自分がもたついているハードルを自分よりも努力をしていない者が軽々と超えていく。


 自分は姉の様にはなれないのだと、理解するのに時間はかからなかった。……認めるのに多くの時間を有した。

 何物にもなれない僕には、どんな存在意義があるのだろう。そんな問いが僕には常に付きまとっている。考えない様にしても、ふとした時に考えてしまっている。


 そして、この問いには今でも明確な答えを示すことができていないのだった。


  ▼


 一筋の光が目に入った。そこから徐々に視界が広がっていく。ゆっくりと体を起こすと、肩にかけられていた布団がずり落ちて、衣擦れの音がした。


「起きたんだね」


 声がした方向に顔を向けた。窓の外を見ていたのだろうか、背中越しに彼女は僕を見ていた。月明かりに照らされる緋色の髪は昼間とはまた違った印象を受ける。開放たれた窓からは風が吹いていて、カーテンと共に彼女の髪を揺らす。


「……はい。おはようございます」

「もう夜だけどね」

「そうみたいですね」

「それにしてもひどい顔だ。嫌な夢でも見たのかな?」

「まあ、そんな所です」

「……そう。じゃあ、こっちにおいで。今日はいいものが見れるから」


 頷いて、彼女の隣へと歩く。彼女の視線の先を僕も見る。夜空に浮かぶ星々は僕が見ていたものとは違う。大幅に配置変更がされていた。極めつけは歪な形をした月の様な物だ。それが、星空に点々と映っている。ここでは、月が夜に浮かばないのだ。


「綺麗でしょ。ティアーズがよく見えるの」

「ティアーズ?」

「あのひときわ大きな、この星に一番近い星たち。知ってるでしょ?」

「いえ、全く」

「知らないってことはないでしょ? 天邪鬼あまのじゃくだね、君は」


 寝ぼけた頭で素直に答えてしまったけれど、よくよく考えれば濁しておくべきだった。僕は彼女に違う世界から来たであろうことを伝えていない。この星に住んでいるなら、衛星を知らないってとんでもないことだ。


「……見たことはあったんですけど、そういう名前だったんですね」

「やっぱりシオン君は不思議だね。嫌いじゃないけど」

「……そうですか」


 しばらく星を眺め、夜風を浴びる。昼間に比べて冷ややかなそれは体温を奪っていく。心地の良い時間だった。けれど、いつまでもこうしてはいられない。僕は、どうして今こうしているのか分からないからだ。

 あの後、戦いがどうなったのかも知らない。自分が役割を果たせたのかどうかも。知らないままでは不快感が残る。その感覚を断つため、彼女に問う。


「……試合はどうなったんですか?」

「ああ、結果は両者気絶で引き分けだ」


 彼女はそんな事もあったなぐらいの気軽さで結果を口にする。負けなかったけれど、彼女に勝利を捧げることができなかった。それは、僕にとって何よりも悔しい。


「……そうですか。勝てなくて、すいません」

「初めてであのエマさんから引き分けをもぎ取ったのは上出来だよ。いや、むしろ出来過ぎかな? どちらにしろ、君はよくやったさ」


 彼女がまた僕の頭を撫でてくる。それだけで僕の悔しさが緩んでいく。どうしようもなく気分が高まる。僕はきっと人類の中でも指折りの単純さを誇っているのかもしれない。


「ところで、体の調子はどうかな。ダメージは受けなかったはずだけれど、倒れたんだ。少しでも体調が悪くなっていたら報告して欲しい」


 ペタペタと頬に触れて彼女は言う。目と目が強制的に合わせられる。心配そうな彼女の表情。幼い子共に対する接し方みたいでちょっと戸惑う。


「どうなの?」

「だ、大丈夫です。少なくとも今は」


 彼女は安堵したのかほっと息を漏らした。頬に添えられていた手が離れて「良かった」と言う。本来メイドはこんな風に過保護に扱われるべきではないのだろう。

 今日あったアイザックさんなんかを見ていればそれは分かる。この世界においてメイドとは戦う者であり、主人の盾なのだ。けれど、僕の無力さ故にそれが逆転してしまっている。その事をより歯がゆく感じた。


「よかった。君を殺させないための物は用意したつもりでいたけれど、まさかあんなことになるなんて、思いもしなかったんだ」


 あんなこと。そう言われて思い出すのは戦いの終盤だ。あの時、僕は得体の知れない力に助けられた。自分というフィルターを通し、出所が不明な力を使った。

 だからこそ負けずにいられた。けれど、直後に倒れてしまったのではこの先が思いやられる。今後の為にもあの力の正体は知っておくべきだろう。


「…………君が倒れたとき、本当に心配だったから」


 今にも膝から崩れ落ちてしまいそうな、表情を見せる。それはこれまでの彼女に見られなかった一面だった。たぶん、彼女は“失う”という行為が嫌なのだ。

 彼女が戦う理由。失ったものを取り戻すという願いからも読み取れる。彼女は──


「ミツレさんは……優しいですね」


 僕がそう言うと彼女は「そんなこと無い」と首を振る。


「私は断るすべの無い君を利用している。自分の都合でね。悪い人……なんだよ」


 僕の眼から視線を逸らして、星空へと向けた。罪悪感に狩られる彼女の横顔。それで、僕の考えは確信へと至る。


「ミツレさんは悪役になり切れないですね。そんな感じがします」

「どうして、そんなこと言える。君とは知り合ったばかりだよ? 本質を晒し切っていない」

「本当に悪い人は、自分のことをそんな風に言ったりしませんから」


 僕は言葉を区切る。彼女にそんな顔をして欲しくなかった。どうしてそう思ったのかは分からない。理屈に落とし込めない。でも、それを拒むものも存在しなかった。だから、感覚に従う。


「ミツレさん。貴方は優しい人ですよ。自分が思っているよりも、ずっと」


 確信を口にする。彼女の表情を完全に解すことはできなかった。僕らはまだ出会って二日の仲だ。この程度では彼女の心の枷を外すことはできないのだろう。

 そう思い至って、僕は決心する。


「僕は貴方のメイドになる。もうドジメイドなんて言わせない。貴方が誇れるようなメイドになって見せます」


 これは誓いだ。彼女のよりどころになれるように。いつか、彼女に本当に心から笑って貰えるように。

 ミツレさん風に言えば、僕は悪い人だと思う。他に頼る手段がない彼女に押し付ける誓い《もの》。一方通行な誓い《ねがい》だ。受理されると分かり切っている。

 それでも、改めて僕は口にしておきたかった。自分がぼんやりと目指していた“何か”その具体像として。今度は決して迷わない様に。


「……何か言って下さいよ」

「ちょっと返事に困っちゃって、だってシオン君、とっくに私のメイドでしょ?」

「まだ、新人研修中ですから」

「そうだった。じゃあ待ってる。君がもっと立派で、私が自慢したくなるメイドになるのを」


 作られた笑み。それに向かって手を伸ばす。彼女はそれを包んで優しく圧力をかける。


「改めて、よろしくお願いします。ミツレさん」

「こちらこそ」


 僕には何者にもなれなかった。でも、そんな僕にも何かできることがあるかもしれない。月の浮かばぬこの世界。そこで僕は“主人に本当に笑って貰えるようなメイド”を目指すと、決めた。
















「じゃあ、さっそくだけど言葉遣いのレクチャーをしよう。アイザックのおかげで昼間は滅茶苦茶だっただろう?」

「いや、滅茶苦茶にしたのはミツレさんでしょう」

「細かいところはいいんだよ。よし、さっきの台詞から直そう。繰り返して……『よろしくお願いしますわ、お嬢様』はい、復唱っ」

「……え?」

「ほら、繰り返す!」

「……よ、よろしくお願いしますわ、お嬢様」


 シオンは赤面した。

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