それぞれの『スピリッツ』

第1回 今村久美さんの話

 部屋の真ん中に、一人の女性が座っていた。

「こんにちは。あなたが未來君?」

彼女は柔和な表情で席を勧めてくる。

「はい……こんにちは。佐藤未來と申します。はじめまして」

未來は寸法通りの挨拶を済ませたあと、遠慮がちに席についた。


 一体どんな話があるのだろうかと緊張する彼に、女性はゆっくりと話をはじめた。

「じゃあまずは、簡単に自己紹介をさせてください。私はNPO法人の『カタリバ』という所で代表理事をやっている、今村久美といいます。よろしくお願いします」

「NPO法人、ですか」

聞き覚えのある響きに、未來は小さく唸った。確か、社会貢献などを目的とした非営利団体だったっけ。


「SFCの卒業生なんですよね?」

未來の問いかけに、今村さんはうなずいた。

「はい。私は79年生まれなので……八期生か九期生か、それぐらいですね。岐阜県の高山という所で生まれました」

そうか、このキャンパスは110年ほど前にできたんだな。未來は一人で納得しながら、彼女の次の言葉を待った。


「今日は私が、その『カタリバ』という法人で何をしているのかをお話しできればと思って」

「なるほど。それで、『カタリバ』というのは、どのようなNPO法人なのですか?」

「そうですね、私たちは”親や学校の先生に、教育を丸投げしない社会”を目指して活動しています。家庭の事情で学校に行けない子供達のために、オンラインで教育を提供するサービスもやっているんですよ」


 学校に行けない子供たちという言葉に、未來は電流が走るような感覚を覚えた。先程のミネルバの問いを思い出したからだ。

『あなたの周りに、学校へ行けてない人はいる?』

学校教育を受けられないというのは、2100年現在の問題とばかり思っていた。しかし、それは思い違いだったということになる。80年前のにも、そのような境遇の子供がいたのだ。


 そこまで考えて、未來はふと疑問に思った。

「あの、質問いいですか」

「ええ、歓迎ですよ」

「今村さんは慶應SFCを卒業されたってことですよね……ってことは、いい環境でいい教育を受けられたと思うんです。それがどうして、教育を受けられない人たちにフォーカスしたNPO法人を始めたんですか?」


 今村さんはその質問を待っていたかのように、溌剌と語り出した。

「それは私の、大学時代の体験が影響していますね。私の育った高山というところは、SFCとは全く違う環境なんですよ。何というか、大学に進学する人が周りにほとんどいないような所で」

未來は身を乗り出し、話に聴き入っていた。

「でも、SFCの学生たちは違うんですよね。学ぶことの楽しさを知っているというか、人生というものに対する姿勢も違うように見えて。私、それに凄くギャップを感じたんです。積極的に学びを楽しむことが、許されている人とそうでない人がいるような気がして」


 彼女の話は、まさしく未來の暮らす2100年の日本にも言えることだった。高等教育を受けられるのは、限られた富裕層のみ。そのほかの階級の子供には、自らの意志で学ぶ機会など与えられていないのだ。

「それで、教育によってその分断を越えられるかもしれないという思いで、卒業後にカタリバを始めたんです」

「なるほど……」


 未來は思い出したようにミネルバの方を見た。彼女は教室の隅で、黙って二人のやりとりを聞いている。彼女の姿が見えないのか、今村さんはミネルバの存在を気に留めていないようだ。

「ちょっと失礼な質問かもしれないんですけど」

彼が勇気を出して言うと、今村さんの視線がこちらを向くのを感じる。

「もし学校に行けなくても、学ぶことはできると思うんです。本を買って勉強すればいいし、今はネットとかもあるじゃないですか」

彼女は何も言わず、静かに肯いている。未來の言わんとしていることを、すでに察しているようにも見える。

「そうじゃなくて、わざわざ学校の代わりとなる環境を提供する意味はどこにあるのでしょう。僕たちはどうして、学校に行くんでしょうか」


 しばしの沈黙が流れ、未來は居心地悪そうにみじろぎした。

「確かに、ただ勉強するだけなら、学校に行く必要はないですね。でも私が思うに、学校というものはただ知識を得るための場じゃないんです。親元から離れて、一人の人間として生活する場所ですから。そこには『個人』としての、子供同士のつながりがある。そういうものを学ぶための環境として、やっぱり学校は大切なのだと思ってます」


「小さな社会としての学校、ってことですか」

これまで考えたことのなかった指摘に、未來は目から鱗が落ちるようだった。

「そうですね。それに、カタリバとしては、"ナナメの関係"というのを軸としています」

「ナナメの関係?」

聴き慣れない言葉に、未來は首を傾げる。

「親でも先生でも、友達でもない年長者との関わりのことです。先輩って表現が近いのかな。本人たちよりも経験が豊かで、違った視点で物事を教えてくれる人。そういう人との関係がすごく大切だと思うんです」


 今村さんはチラリと時計に目をやり、改まった口調で言った。

「一つ、未來君に伝えたいことがあります」

背筋がピンと張るのを感じた。

「な、なんでしょう」

「自分が持っている『特権』を、よく自覚して欲しいの。あなたは学校に行けている。最低限の生活ができている。でも、それって実は当たり前のことじゃないんです。世の中にはいろいろな環境があって、恵まれている人とそうでない人の格差があります。そういう視点を持つことが大切だと思いますよ」


 もう時間だ、と今村さんは席を立つ。それにつられて、未來も立ち上がる。

「今日はお話ありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございました。では、失礼しますね」

部屋を後にする今村さんを、未來は名残惜しそうに見送った。

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