在りし夏の日

ラゴス

在りし夏の日

 子どもの頃の決まりごと。夏休みになると祖母の家に行く。電車とバスを乗り継いで二時間の田舎だ。

 バスを降りると空気が違っていた。ひらけた空の雲間から射し込む光が、アスファルトを白く照らしている。車が一台通るたび、しばらく静かな時間が流れた。普段は気づかない、澄んだ空気というものを感じる。まとわりつく暑さもいくらかマシに思えた。

「ほら、行くよ」

 母に呼ばれて私は歩きだす。

 シャッターが降りたままの商店を過ぎたら、横道に入る。うねった坂道が上へ続いていて、左右には古びた家々がある。郵便受けは塗装があちこち剥がれているし、石壁の下の方は苔むしている。道路にはぺちゃんこになった泥の塊が点々と続いており、農耕機が通った跡だろうと思われた。

 坂を登りきり、下りはじめてすぐ右手に祖母の家がある。大きな日本家屋だ。

 庭には、これも大粒の玉砂利が敷いてあって、裸足でも痛くないほどつるつるしている。日当たりの良い縁側、その奥にある蔵の前には犬が繋がれていた。

 いつも最初は吠えられるけど、私が近づいていくと思い出すらしく、最後には尻尾を振って歓迎してくれる。鎖を鳴らしながら、いそいそと左右に動くのが可愛い。長いところと短いところが混じった毛は、不思議な触り心地がした。大抵、家に入る前に犬に挨拶する。

 ようやく玄関に入ると、家の奥から足音がした。インターホンなんてないから、人の気配を察知して出てきてくれるんだろう。

「ああどうも、遠かったでしょ」

 出迎えてくれるのは、母の兄の奥さんだ。私からすれば伯母になる。ガラス戸を開けて中に促された時、線香の匂いがした。

 畳の感触が足に心地良い。この家はほとんどの部屋が畳張りだ。感触がやさしくて、仏間で手を合わせる時も正座するのが辛くなかった。

 居間に行くと祖母が寝転んでいた。座布団を折って枕にしている。ぼさぼさの白髪に日に焼けた肌。朝から畑仕事をして疲れているのか、体勢を変えずに「来たんけ」と笑う。くちゃくちゃのシワの中につぶらな瞳があって、祖母の笑顔を見ていると、私はなんだか安心した。

 お寿司の出前を取ってくれているので、その間に私は犬の散歩に行く。

 来た時とは逆の方の坂道を下っていくのだけど、これが本当に長くて、百メートル近くあると思う。でも誰もいない道を一気に駆け下りるのが、すごく気持ちいい。

 散歩用の紐をぐっと掴みながら、私は走る。土と田んぼの匂い。虫の声と、側溝を流れる水の音。生ぬるい風を頬で切りながら、一切が浮かんでは過ぎていく。遠いところに来た実感が湧いてくると同時に、妙な解放感があった。

 坂の終わりまで来たら、段々と速度を落として膝に手をついた。周りにはやはり誰もおらず、自分の呼吸ばかりが聞こえる。髪に日差しを受け、自分の影を見ながら息を荒げる私の周りで、うれしそうに犬が跳ねていた。まだまだ走れそうな姿に、信じられない気持ちになる。

 少し進むと橋に着いた。名前のない短い石橋だ。下方には浅い川があり、落ちて岩にぶつかった時を想像すると怖くなる。この川原で遊んだことはない。

 私はいつもここで引き返す。橋の先にはまた家々が並んでいて、細い路地を成しているのだけど、なんとなく行っちゃいけない気がするのだ。

 帰りは走らずに、犬の気の向くまま農道を歩いて戻り、着いたら犬に水をやった。その犬用の器がぼこぼこにへこんだ鍋なのを見て「田舎だなあ」としみじみ感じる。

 玄関から台所へ通じる道があるので、そちらから入っていき、水を飲もうとしたら、伯母さんが氷をくれた。コップに入れてパキパキ言わせてから水を飲んだ後、氷を噛み砕いて流し込むと、汗が噴き出した。

 タオルを貸してもらって居間の扇風機の前に行く。この家にクーラーはない。でも風通しがいいみたいで、そこまでの暑さは感じない。廊下の木窓に吊るした風鈴が、ちりりんと鳴っていた。

 涼んでいると、横の部屋のふすまが開いて、愛ちゃんが入ってきた。

「あ、美咲ちゃん。いらっしゃい」

「ひさしぶりー」

 私たちは再会を喜んだ。愛ちゃんは私と同い年で、伯母さんの娘にあたる。この時は三年生ぐらいだったかな。白と黒のボーダーのキャミソールを着ていて、たぶん駅前のデパートで買ってもらったんだと思う。駅前といっても車で二十分はかかるけど。

「愛ちゃん、また背伸びたね」

 私の母が声をかけると、愛ちゃんは「そうやねえ」と照れくさそうにしていた。

 そのうちお寿司が届いた。私と愛ちゃんで祖母の手を取って座椅子に座らせてあげると、祖母はうれしそうにお辞儀をした。叔父さんは今日は仕事でいない。毎日峠を越えて、市のスーパーまで出勤しているらしい。

 昼のバラエティ番組を見ながらお寿司を食べる。祖母の皿の上に乗った握りが崩れて、シャリが醤油にべったり浸かっていた。箸を持つ手があまり安定していない。

「ばあちゃん、寿司バラバラやん」と私が言ったら、

「難しいでよ」と、笑いながらネタだけ食べている姿に、みんなも笑った。

 お寿司を食べた後は、伯母さんが盛り合わせのお菓子を盆に載せて持ってきた。私は正直満腹だったけど、手をつけずにいたら「ほら遠慮せんと」と言われるので、ちょこちょこは食べるようにした。一緒に食べていたはずの祖母は、少し目を離した隙に急に寝ていた。いつ寝たのか全然わからない。

 その後は愛ちゃんと夏休みの宿題をした。それぞれの学校の話をするたび愛ちゃんが羨ましがるので、時々私は返事に困った。

 夜になって叔父さんが帰ってくると、いつも晩ごはん後にみんなで人生ゲームをする。叔父さんが悲惨な目に遭ってばかりだったり、結婚したのに赤いピンが足りなくて車に青いピンだけがずらりと並んでいたりして、お腹を抱えて笑った。

 お風呂に入った後はまたテレビを見て、早々に寝支度をする。家ではベッドだから、畳の上に布団を敷いて寝転ぶと、高さのせいでちょっと違和感があった。普段と肌触りの違う布団は、押入れみたいな匂いがする。部屋を豆電球だけにして、母と私と愛ちゃんが三人とも布団に入ると、しんとした夜の気配に混じって、かすかに虫の声がした。

 いつのまにか私は寝ていて、起きた最初は見慣れない場所に戸惑ったけど、すぐ祖母の家に来ていることを思い出す。涼しい朝だった。

 朝ごはんを食べた後は愛ちゃんと犬の散歩に行き、昼前にはみんなで墓参りに出かけた。

 山の上にある墓を目指して歩く。

 顔の位置よりも高い草木が生い茂り、おまけに急勾配な道ばかりだ。祖母は杖をついていたけど健脚で、私が虫を嫌がって手をぶんぶんしていたら、これでもかというぐらい虫よけスプレーを撒いていた。

 何人かで墓をきれいにして、叔父が線香を焚いた。お墓の横には切った竹が何本か突き立ててあって、そこに水を注いだらお供え物を置く。

 私以外の人は目を瞑って手を合わせていたけど、私は何に祈ればいいかわからず、他の人が終わるのを見てから手をほどいた。

 家に戻って昼ごはんを食べた後は、そろそろお暇しようかという雰囲気になってくる。

 母が帰り支度をしている間に犬のところへ行くと、祖母が犬を触っていたので、私も一緒になって首輪の下を掻いてやった。

 そこで私は気がついたのだけど、真横にいる祖母の肌はすべすべだった。シワはあるのにつるんとしているのだ。

「なんでこんなすべすべなん?」

 手の甲で頬を撫でると「恥ずかしいでよ」と言いながら、祖母は高らかに笑っていた。

 駅までは伯母さんが車で送ってくれる。家を出る時、叔父と愛ちゃんと祖母が並んで手を振ってくれた。三人を見ていると「ああ、今年はもう会えないんだな」という淋しさが胸をよぎる。でもそれがあるから、次の年に会えた時うれしいのかもしれない。


 祖母が亡くなって七年が経つ。

 あの家には行かなくなったのに、毎年夏になると、何でもない思い出が呼び起こされる。

 私はいつまで覚えていられるだろう。

 祖母の姿はもう記憶の中にしかない。

 忘れたくない記憶を繋ぎ止めるのに、この身はなんて頼りないのか……。

 やがて一切が薄れゆき、消えたことすら気付かないのだとしたら、私の視界に映る景色も、触れ合った人たちも、すべては泡沫の幻なのかもしれない。

 今年も夏が終わる。

 寝苦しい夜だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

在りし夏の日 ラゴス @spi_MIKKE

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ