第33話 ◆ その時、月は輝いて 《姫はまだ、彼女たちを知らない》

※ タイトルの前に◆が付く話は間話です。大体姫が知る由の無い事が描かれていますが、読まなくても一応話はつながります。

 基本的に章の終わり辺りにしかこのスタイルは使いませんので、作中の視点が変わるのが嫌だなぁって人は読み飛ばしてください。


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 火炎の大陸、そこにある砂漠の国の一つ。


 その国の南方にいくつも点在する小規模なオアシスの一つに、小さな小さな女の子が一人佇んでいる。


 神聖なる砂漠の泉に深く拝礼をし、丁寧に磨き上げた白磁の器をゆっくりと水に浸していく。


 水は砂漠の宝。

 故に少女は一滴たりとも溢さぬ様に慎重に器を持ち上げ、器の周囲から水を跳ね除け、その滴をオアシスへと溢していく。

 この一滴が氏族の子の明日への糧となることを少女は誰よりも理解しているのだ。


 故にたとえ小指の爪の先ほどの滴さえ疎かにはできない。


 水気を払った器を傾けぬ様に両手で保持し、膝を揃えながら地面へと座る。

 正面にうやうやしく器を置くと、胸の前で両手を組んで空を見上げた。


 空は満天の星空。

 黒い布にミルクをこぼしたかの様な、そんな乳白色の道ミルキーウェイを見て、少女は頬を染めてため息を漏らした。

 昼間の灼熱で火照った大地を優しく冷ます様に、夜は彼女に安らぎを与えてくれる。 


「ああ、今日も氏族の子が一人も欠けることなく、この夜を迎えることができました。月の女神様、貴女の慈悲に感謝致します」


 そうボソリと呟くと、少女は器に右手を静かに浸した。

 左手は右手首のブレスレットに無数に付いている蒼色の玉を摘んで、少しばかりの力を込めて音を立てずに潰し割った。


「今宵もこの身を捧げます。どうか明日も、私たちラボア氏族の子の安寧をお恵み下さい」


 玉から出てきた深い蒼色の粉が水に溶け、強烈な発光となってオアシスを照らす。


 少女はゆっくりと右手を引いて、その手に着いた水滴を右の頬、そして左の頬へとなすりつけた。


 ゆっくりとした所作で流れる行為は、やがて少女がその身体を閉じる様に纏っていた布の襟首までたどり着き、一切の逡巡もなく裸体を空気に曝け出す。


 手を離して落ちた布はオアシスの草木と砂へと落ちていった。


 幼い肌を露出させながら少女はまた器の中に両手を差し入れて、蒼く発光し続ける水を手のひらで掬いあげると、身体をのけ反らせながら勢いよく飲み干した。


 喉を鳴らして体内へと注がれる水は少女の小さな口では到底全て飲み干せず、口の端から零れ顎を通って喉へと伝い、胸のなだらかな膨らみに沿って流れ、腹を濡らし、腰のラインと窪みに従って股に集まり、最後に地面へと落ちる。


「はぁ……」


 どこか恍惚にも似た表情を浮かべた少女は未だ空を仰ぎ見て、手のひらに残った水を肩から順に腕や胸、尻や足、そして秘所へと塗りたくった。


 最後に氏族の特徴である赤黒い髪を額からかきあげる様に濡らし、瞼をギュッと瞑る。


 長い髪は身体を反らしているがために先が地面に付き、砂の粒をかき混ぜる。


「このミァン・ペルシカ・ラボアの身であるならば、如何様にもお使いくださいませ。月の女神様……」


 少女───ミァンは熱に浮かされた様な声色でそう告げると、大きな瞳を薄く開く。

 その姿は幼いながらもどこか扇情的であり、見るものによっては劣情を催しかねない光景であった。


 その鈍色の瞳で見据えるのは、中天に浮かぶ銀の月。


 氏族の崇拝する、慈愛の女神。

 

 伝承ではそこには荘厳な神殿が鎮座していて、氏族の子らを優しく見守り時に手を差し伸べてくれると言う。


 今季で齢十一にして、新米の巫女となったミァンにとっては日課となったこの儀式。

 毎夜毎夜欠かさず自らを奉納し、月の女神に感謝を述べるとても大事な儀式。


 しかしその日はどこか違う感覚を得た。


「……女神様?」


 巫女シャーマンであるミァンの感覚は他の氏族の子らと違って鋭敏だった。


 だからこそ彼女はその日の月の様子が違って見えたのだろう。

 決して肉眼では捉えることのできない変化。

 決して普通の知覚では及び知ることの出来ない力の波動を、ミァンはその優れた資質から感じ取ることができたのだ。


 その日、その時、ミァンが見つめるその月でまさに今。


 彼女のこれからにおいてとても重要な女の子が覚醒を果たした事を、ミァンはまだ知る由もない。



 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 一年を通して常に身も凍える冷気に包まれたその地、その城。


 豪奢にして華美なその建築物は、その雰囲気にそぐわない地下室を備えていた。

 堀の遥か下、鉄格子から漏れる月明かりに照らされて、罪人は一人項垂れる。


 冷たい床に身を投げ打ち、もう死んでしまいたいと何度嘆いた事だろう。

 救済は無い。許しも無い。

 涙はとうに枯れ果てて、血を吐き出した喉は酷く掠れている。


 己が身の上に降りかかった不幸は、今も罪人である彼女を苦しめ続けているが、命を投げ出すことすら自由にできないので、彼女はただ打ちひしがれるしかできない。


 牢獄において見張りすら立たず、罪人は今日もその城が誇る栄華の為に使い減らされている。


 罪とはなんだ。

 罰とはなんだ。


 どんなに考えても納得できず、でも足掻くこともできず、吹雪と隙間風の奏でる悲鳴に似た音が罪人のか細い声を掻き消してしまう。


 唯一外の景色を窺えるのは、高い塀の天井付近に申し訳程度に開いた僅かな隙間。


 嘆き悲しむ罪人は、その隙間をただ見つめ続ける。


 一度で良い。

 生まれ育ったこの故郷の、父祖が守ったこの故郷の景色を見る事が叶えば、罪人はそれだけで満足できる。


 そう始めに願ったのはもう数年も前の事。

 今は自分が何を願っているのかも分からない。


 特異にして強大な自らの身体と力を呪い続けても、結局何も変化など起きなかった。


 だから罪人は飽いている。

 苦痛と悲嘆に飽いている。


「だれ……か」


 未だ胸に微かに残っていた希望が、意思を伴わずにその口から零れ落ちた。


 まだ縋っているのかと、自分の事ながら罪人は驚く。


「わたし……を、呼んで」


 記憶の中を探ってみても、最後に名前を呼ばれたのが何時なのか思い出せない。


「わた……しは、エイミィ」


 エイミィ・ブライト・アングリスカ。

 罪人は久しぶりに自分の名前を思い出す。


 そう、わたしは愛されていた。

 かつて愛しき人たちに、愛を込めて呼ばれていたのだ。


 罪人の目から、新たな涙の粒が生まれる。


 記憶は残酷だ。

 思い出さなければ、過去の幸せを忘れられていれば、新たな絶望を生む事なんてなかったのに。


「おねが……い、だれ、か」


 それでも何かに縋らなければ、希望の光を求めなければ、罪人の心は決して保たないのだろう。


 一瞬、吹雪と風の音が止んだ。


 耳に痛いほどの静寂が訪れ、罪人は戸惑う。

 この牢に囚われてから今まで、吹雪が止んだことなど一度も無い。

 

 軋む身体をなんとか動かして、濡れた瞳で塀の上の隙間をじっと見つめる。


 夜天の闇に浮かぶ、月と目があった。


 優しい光が隙間から入りこみ、エイミィの肢体を包み込む。


「──────あ……」


 日光でも、炎の揺らめきでも無いその光が、不思議と温かかった。


「あ、ああ……あああああ」


 嗚咽し、涙を流しながら罪人はその光を求めて手を伸ばす。


 この光が彼女の心と身体を救いだすのは、もう少し先の事となる。



 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 どこかの地、深い深い森の中。


 女性の姿を模した、物言わぬ石像がそこにあった。


 剣を振り上げ、何かに抗う様に雄叫びをあげる姿はとても精巧で、人の造った物とは思えぬ意匠であった。


 苔むして緑に染まり、雨風に打たれて表面が風化してなお分かるその迫力は、この地に訪れるものさえいればきっと名工と持てはやされる石像だっただろう。

 だが悲しいかな、その地は只人が踏み込めるほど生易しい場所では無かった。


 殺戮と血を求める獣が我が物顔で闊歩し、悪魔が悪魔と躍り狂い、人智を超越した生命である竜が治めるその地において、芸術的価値観を持つ存在など正気では居られない。


 ならば石像はなぜそこにあるのだろうか。

 

 それは今となっては誰にも分からない。


 もはやその記憶を持つものが消え失せてから、どれだけの時が流れたかすらあやふやなのだ。


 だけど『彼女』はそこに居る。


 今もかつての勇壮にして可憐な姿そのままに、『彼女』はまだ──────戦っている。


 夕暮れの空、闇が光を追いかけてくる。

 赤く染まった森が徐々にその姿を隠し始めて、月が薄く姿を現した。


 その淡い光に呼応する様に、石像の持つ剣が──────淡く輝いては、すぐに消えた。




 第一章 学びの季節、育みの年         完

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