夏の夜~なつのよ~
@kahoyui
夏の夜
深夜、クーラーの効いた部屋で数学の参考書を片手に受験勉強をしていると時折、集中力が途切れてきて、その度に台所に行って冷蔵庫の中を開けている。特に喉が渇いている訳でも無いのにミネラルウォーターに手を延ばして、一口だけ口を潤して又、冷蔵庫の扉を閉めた。部屋に戻ると机には戻らずに濃紺のカーテンと扉を開けてみる。僕の家は、JR中央線の三鷹駅と西武新宿線の東伏見駅との中間近くにある13階建てマンションの8階の端部屋だった。父の転勤のため、福岡の学校から今年の春に転校してきたばかりだったので、この町の土地勘には疎く、最寄り駅の隣の吉祥寺ぐらいが何となくテレビで聞き覚えがある程度の知識しか持ち合わせていなかった。ベランダに出ると深夜の1時近くだというのに、街の明かりは消えようともせず、さも当然のように電車の音が夜の喧騒に混じって聞こえてくる。ベランダから夜の街を眺めていると白い明かりに灯されたマンション前の公園が何気に気になった。勉強の集中力も完全に切れてしまっていたので、気分転換に外に出てみようと思った。深夜に中学生が徘徊していれば補導されるかも?と一瞬、脳裏を過ったが、自宅の目の前だし、最悪、補導されたらベランダから誤ってボールを落としたので拾いに来たと言えば、何とか誤魔かせるだろうと思った。
マンションのポーチを出ると、公園の右手奥にあったブランコに足を掛けた。ゆっくりと立ち漕ぎでブランコを動かしながら、僕は目の前の自分家のあるマンションを眺めた。1時を過ぎても幾つかの部屋には、カーテン越しに明かりが灯っているのが見える。自分の中に持っていた真夜中の概念を無くすには十分な光景だった。
「こんばんは」
“えっ”、急に背後から声を掛けられて心臓が止まるかと思うくらいに驚いた。後ろを振り向くと、丸刈りで色黒、細身だけど筋肉質な自分と同じか、いや年上の少年が笑顔で立っていた。
「こ、・・・こんばんは」
何でこんな時間に、僕以外の少年が出歩いているのか、僕は自分の事を棚に置いといて無意識のうちに目の前に立っている少年について詮索していた。
「これ、君のボール?」
少年が尋ねたのは、ブランコの後ろに僕が置いていた野球の硬式ボールだった。もしも、補導されたらと思い、言い訳用に部屋から持ってきた物だ。
「そうだけど・・・」
「ねぇ、少し貸してくれない?」
少年が笑顔で聞いてくる。口元からは色黒の肌とは対照的な白い歯が輝いた。
「いいよ」
優しそうな顔の少年に、特に嫌がる理由も無くボールを貸してあげる事にした。
「君、野球やってるの?」
「いや、今はもう。小学生の頃、少しだけやってたけど」
小学生の頃、校区にあった少年野球クラブに参加した事はあったが、レギュラーを任せられる訳でも無かったので“自分には才能が無いな”とすぐに諦めがつき、中学に進むと陸上部に入部していた。
「そうかぁ、やってはいたんだね。じゃあさぁ、キャッチボールやろうよ」
無邪気に少年が誘ってくる。
「いいよ」
ブランコを降りて、白い明かりの下に二人で移動すると、“そーいや、ボール遊びなんて最近やってなかったな”っと、ふと思い出していた。
“パシッ”、乾いた音が静まった公園の中に微かに響く、グローブの無いキャッチボールを二人で交わしていると、まるで昔からの知り合い、いや親友のような気がしていた。明かりの下に照らされた色黒の彼の姿が、夏の高校球児のようにもダブって見えてくる。遊びの中でのボールの受け渡しだけなのだが、彼のボールを投げるときの姿勢は美しくも見えた。グローブが在って、且つ自分が彼とバッテリーを組んでいたら、彼はどんな投球を見せてくれるのだろうかと考えると、心の中がどこからともなくワクワクとしていた。
「ねぇ、野球やってるの?」
今度は僕から、ボールを投げながら彼に話し掛けてみる。
「うん。最近はやれてないけどね」
「そっかぁ、じゃあ、僕と同じかなぁ」
「ねぇ、君さぁ名前何て言うの?」
そういや、まだ名前も交わしていなかった。
「ナカムラ コウヘイです。コウヘイってみんなに呼ばれてます。」
「えっ、ほんとに、俺もナカムラ。ナカムラ ヒロト。」
「えっ、ほんとっ」
よくある苗字だが、いざ、お互い意識せずに出会って名前を出してみると偶然が必然のような気がして、何か嬉しくなった。
「じゃあ、歳いくつ?」
もう一度、質問をしてみる。
「俺は、じゅうしち、十七。コウヘイは?」
「僕は、じゅうし、十四です」
目上だと言うのが解ったので、僕は急に言葉を直した。
「そっかぁ、十四かぁ。何か、急に弟が出来たみたいだ」
ヒロト君が照れながら笑っているのが見えた。
30分以上、他愛もない話をしてボールを投げ合っていると、夏休み中、冷房の効いた部屋でずっと過ごしていたせいもあって、体がバテてきた。
「ねぇ、少し休もう」
額に汗をかきながらヒロト君に言うと、
「俺より年下なのに、バテるのが早いなぁ」
と、半ばからかいながら僕の顔をヒロト君が覗き込んだ。
「ねぇ、ちょっと自販機、行って来ていい?」
「じはんき・・・」
ヒロト君が呟いたかと思うと、僕は公園の外にある自販機に既に走っていた。
あいにく、手持ちのお金はジュース1本分しか持っていなかった。二人で分けて飲めるようにペットボトルのサイダーを選んだ。公園のベンチに二人で座って、ペットボトルの口を開けるとパチパチと弾ける泡の音が聞こえた。
「ねぇ、ヒロト君、先に飲んでよ」
「俺はいいよ、コウヘイこそ先に飲めよ、自分の小遣いで買ったんだろ」
お互いに譲り合ったので、一口だけ先に僕が口をつけてからヒロト君にボトルを渡した。
「はぁー、冷たっ」
ヒロト君から、また笑顔が零れてくる。自分には二つ下に妹がいるが兄がいると、きっとこんなんだろうなと勝手に考えていた。
「ヒロト君、兄弟はいないの?」
「妹がいるよ。二つ下に」
「えっ、ほんと。僕と同じじゃん」
「えっ、コウヘイも妹いるの?いろいろ合うな」
二人であーだ、こーだと笑いながら話をしていると時間の経つのはあっという間だった。
「そろそろ、帰らないとな」
ヒロト君から声を掛けてきた。
「そうだね、もう一時間以上経ってる」
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい。・・・ねぇ、ヒロト君、また逢えるかな?」
「うん。逢えるよ、何だかんだ言っても小さい町だしな」
「よかった。今度、会う時はグローブちゃんと用意するね」
うん。小さく頷いてヒロト君は公園の出口を足早に去って行った。
あの夜から一週間程が立ち、僕ら家族は青梅の祖母の家に朝から向かった。東京に来てからは、祖母が僕の家に引っ越しの手伝いで来てくれていた事もあり、祖母の家に僕らがわざわざ出向く事はなかった。祖母の家は、青梅の駅から離れており、田園風景が広がる田舎の土地だった。
玄関を入り、右手の廊下から仏間に入ると仏壇にお盆のお供えがしてあった。この家には、祖母と父の弟家族が住んでいて、祖父は僕が小さい時に大腸癌で亡くなっていた。両親、妹と共に仏間に入り、仏壇に手を合わせていると、仏壇の右側の壁に飾ってある白黒の一枚の写真が目に留まった。カラー写真の見覚えのある祖父の写真の右隣りに緊張した硬い表情の少年の写真がある。子供の頃から何度とも無く、この家にも遊びに来ていたのに、この写真には気付けてなかったようだ。
「ヒロトくん・・・」
小声で呟いたのが、後ろに居た祖母には聞こえたみたいだ。
「コウちゃん、ヒロト兄さんの名前良く覚えてたね。誰に教えて貰ってたの?」
嬉しそうに祖母が聞いてくるのと同時に両親が、“んっ”と訝し気な表情で僕と祖母を見つめた。
両親と妹が従妹たちの元に行った後、祖母と二人きりになったので、ヒロトさんの事を聞いてみた。
「そんなことがあったの・・・。兄ちゃん、嬉しかったろうね」
祖母は、僕の話に特に疑いを持とうともせずに、昔の話をしてくれた。
「お爺さんとは、従妹同士での結婚だったからお爺さんも私も、元々、中村の姓 だったのね、ヒロト兄さんは、私のお兄ちゃんで歳が二つ離れてたのよ。私が小さい頃は、いつも兄ちゃん、兄ちゃんって追いかけ回してたわ。優しい兄だったから、余計お兄ちゃん子になったんだね」
祖母は優しい顔つきで懐かしそうに話を進めた。
「兄ちゃんが十五になる頃には、武蔵野の第一青年学校に入ってたわ。職業訓練の学校で昼間は中島飛行機で飛行機の組立ての仕事をやってたのね。でも、昭和20年の4月2日の空襲で工場が被災した時に兄ちゃんは建物の下敷きになって亡くなったの。」
僕は言葉が出てこなかった。ほとんど僕と歳の変らない少年が戦争の犠牲になっていたなんて、歴史の授業で頭では理解出来たはずなのに、心で理解出来てなかったんだと、初めて気づかされた。ボールを投げ合ってた時、間違いなく温もりのあるボールを投げ合ってたんだ、あの時、ヒロト君は生きていたんだ、死んだ人じゃないんだと自分で自分に言い聞かせていた。
「ヒロト君と又、会おうねって約束してたのに・・・」
「コウちゃん、ありがとね。お兄ちゃん、喜んでくれとるよ。お兄ちゃん野球が大好きで、いつも弟が欲しい、一緒に野球の出来る弟が欲しいってお母さんに言ってたから」
祖母の瞳が潤んでいるのを見て、僕はまた顔を伏せると、縁側から涼しい風が吹いた。
「ばあちゃん、にいちゃん、お昼ごはんだって」
居間から妹が呼びに来ると、祖母と僕は立ち上がり、居間に向かった。
居間のテーブルには、冷えた素麺と豪華なおかずが並べられていて、親戚たちは、みんな席について談笑している。その脇でテレビでは、夏の高校野球が映し出されており、その時の映像では、サイレンに合わせて選手全員が黙とうを捧げていた。
夏の夜~なつのよ~ @kahoyui
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