次女と第二王子5
執務室を抜け出した私は中庭の大きな木を背にもたれかかっていた。
先程の執務室がある建物からロビーを繋ぐ中庭は、ノア様が帰るときに通るはずなので、ここにいれば気づいてもらえるはずだ。
私は空を見上げながら、感じ悪かったかな、と先ほど取ってしまった自分の幼い行動を悔いていた。今日は本当に私らしくない気がする。
大人しく宮殿に届ければよかったのだ。慣れないことをするものではない。
エミリアさんとノア様の姿を思い出して、ノア様に名前を呼ばれたのはいつだったかな、と記憶を辿っていると、また胸が痛んだ。
こんなことを考えるのも私らしくない、ともう考えないように思考を止めた。
目を閉じて、ふうと息を吐き出すと、ようやく慣れない緊張感から解放されたのか、睡魔が襲ってきた。
寝ちゃダメだと思いつつ、瞼が重くなってきて、その内意識を手放していた。
「おい、起きろ」と声がして瞼を開けると、少し身を屈めたノア様が軽く私の肩を揺らしていた。
先程まで青かった空は夕日に染まっていて、あのまま寝てしまったのだと理解する。
「ごめんなさい、寝てしまって」
「帰ろう」
体を起こしながら呟くと、ノア様は私の腕を支えて立ち上がらせた。
二人で乗り込んだ馬車はエステート家の屋敷に向かっている。
一度眠ったことで落ち着きを取り戻せた私はいつものように無言で馬車に揺られていた。
「団長の妻なんだ」
もう少しで屋敷につくところで、ノア様が唐突に口を開いた。
訳が分からず、首を傾げると、ノア様は「エミリア」と短く言った。
「騎士団に入団する前から訓練に参加させてもらっていたから、もう十年近い知り合いなんだ」
「そうなんですね」
急にどうしたのだろうと目をパチパチさせていると、そんな私の表情を見て、ノア様がばつが悪そうに呟いた。
「気にしてないならいいんだ」
そこで、ノア様が意図していることを察して、もしかして醜い嫉妬心を見破られていたのだろうか、と羞恥に顔が熱くなった。
恥ずかしさから慌てて「気にしていません」と強めに言うと、ノア様は「ならいいんだ」と目線を下げて繰り返した。
それからノア様は何も言わなくなったが、彼の言葉に内心ほっとしてしまっている自分が尚更恥ずかしくて、赤くなった顔を見られないようにと、私は屋敷につくまで俯くことになった。
今日は土曜日。
私はいつも通り教会に来ていた。
朝は礼拝のお手伝い、それから教会の掃除や子供たちの洗濯をしていると午後もあっという間に時間が過ぎていた。
16時半前。
17時過ぎに迎えの車が来る。それまで子供たちに遊んでもらおうかと、食堂に向かっているとシスターに呼び止められた。
なんでも今日は牧師様が午後から出かけているらしく、代わりにシスターが告解の番をしていたのが、来客があってどうしてもシスターが対応しないといけないとのこと。
「それで、少しの間だけお願いしたいの」
「牧師でもシスターでもない私が務めると逆にバチが当たりませんか…」
「大丈夫大丈夫!懺悔に来る人たちは話を聞いて欲しいのよ。人に話すだけで気持ちが楽になるの。それに少しの間だけだから」
「はあ…」
「こんな小さい教会じゃ、周りに住むご老人が話し相手を求めてくることがほとんどだから!大丈夫!」
シスター、信仰とは…と思ったが、30分だけだからと自分に言い聞かせて礼拝堂の隣のゆるしの秘跡に向かった。
意外にも誰もこないまま、あっという間に時間が過ぎて、16時50分頃になった。
もうこのまま誰もこないかな、と安心していると、ガチャっと扉が開いた。
私と懺悔を行う人の間には仕切りがある。
お互いの声が聞こえるように格子型になっているが、低い位置に設置されているため、顔は見えなくなっている。
なんと声をかけようかと少し思案していると、「もう話していいのか」と聞き覚えのある声が聞こえてぎょっとした。
なぜ、ノア様がここに…。
私だとバレてはいけない、と咄嗟に思い、口を噤んでいるとノア様が静かに話し始めた。
「私は…騎士らしからぬことをしてしまった」
聞いていいのかなとドキドキしつつ、続きが気になって耳をすませていると、「私には婚約者がいるのだが…」とまさかの自分の話に卒倒しそうになった。
「私が不得意なせいで、婚約者らしいことは一切してこなかった。決して蔑ろにするつもりはない…が、大切にする方法がわからなくて…」
話を続けるノア様に私の心臓はばくばくと音を立てた。
「それなのに、欲だけは一丁前にある自分に嫌気がさす…」
予想外の言葉に(よ、欲!?)と声にならない声が出た。
「先日職場に彼女が来たのだが…木陰で寝ている彼女を見て、その愛らしさに思わず唇を…」
聞いた瞬間、ぼんと音を立てて顔が一気赤くなった気がした。
「寝込みを襲うなんて騎士、いや、それ以前に男性としてあるまじき行為だ」
「しかも、同僚に見られ」み、見られてたの!と私の顔はこれ以上赤くならないところまで真っ赤である。
「バレたら嫌われると言われて…いや、もちろん、冗談なのは分かっているのだが、実際彼女に知られたら、嫌がられるに違いなくて…」
自信なさげにノア様が続けたとき、気づくと「嫌じゃないです」と口から言葉が出ていた。
はっと我に返った時には時すでに遅く、「は」とノア様が短く驚嘆したのを聞いて観念することにした。
「ノア様」と呼びかけると、「ちょっと待て」とノア様は状況についていけないらしく、慌てた声を出した。
「ごめんなさい…聞くつもりはなかったんです…」
すごく申し訳ない気持ちになりながら続けると、沈黙が訪れた。
しばらく静寂に包まれた後、ふうと短く息を吐く音がして、「何をしているんだ」と声をかけられた。
「牧師様とシスターが用事で対応できなくて、代わりに私が…」
「そうか…」
今度は私が聞いていいのか分からないが勇気を出して「ノア様は」と声をかけると、「元々懺悔をするつもりはなかったんだ。
帰る時間がちょうど重なったからお前を迎えに来て…」と返ってきた。
その後、こうなったんだと思って、居たたまれなさに言葉に詰まっていると、17時の鐘が大きく鳴った。
鐘の音が鳴り止んだ後、ノア様の「帰るか」と言う言葉に「はい」と返事をした。
帰りの馬車はなんとも言えない空気だった。
そわそわと、バザーのために教会に向かった馬車の中とはまた別の居心地の悪さを感じていた。
ノア様の方はもちろん見られなくて、どんな顔をしているのかは全く分からない。
そうこうしている間に、馬車はエステート家の門の前に止まった。
「それでは、ノア様」
意を決してノア様の顔を見て軽く微笑むと、案外いつもと同じ顔をしたノア様が「ああ」と短く返した。
ふと肩が軽くなるのを感じながら馬車を降りて、出発するであろう馬車から離れるために、門の方に近づくように数歩進むと、「サヨ」と名前を呼ばれた。
振り返るとそこには馬車に乗っているはずのノア様が立っていて、目を見張った。
声を出す間も無く、両頬がノア様の大きな手に包まれて、次の瞬間には、ノア様の整った顔が間近に迫り、唇に何かが掠めたのを感じた。
目を見張ったまま呆然としていると、ノア様が私の両頬を掌で優しく包んだまま、こちらを見下ろして「嫌じゃないと言ったから」と囁きながら、ふっと目を細めた。
私が耳の先まで赤くなるのを感じて、何も言えないまま立ち竦んでいると、「それじゃあ、また水曜日」とノア様は馬車に乗り込んでいった。
ノア様を乗せた馬車が小さくなっていくのをぼんやりと眺めながら、彼が婚約者で良かったかも、と柄にもなく思ってしまった。
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