ストロマトライト戦記

いちはじめ

果てしなき戦いの末に

 この世界は今危機にあった。

 何億年もの間、平穏な時代を謳歌していた我々は、何の根拠もなく、この平穏が永遠に続くものと信じていた。

 だがその願いは、無残にも打ち砕かれようとしている。

 謎の生命体が突如出現し、この世界を侵食し始めたのだ。その藍色の生命体は、あらゆるものを腐食させる、猛毒のガスを吐き散らす恐ろしい怪物だった。ガスに腐食された世界は、どす黒い赤に染まり、その中では、我々は生きていくことが許されないのだ。

 この赤の世界は、今や全世界を覆いつくさんとしている。


「司令官、エリアA-1からA-6までの退避、完了しました」


「良し、第二大隊は作戦通りエリアA-2まで敵を侵入させた後、そのまま封じ込めよ。あの辺りは海流が巻いているところだ、ガスの影響を受けずにかなり接近できるはずだ。そして夜半に残りの全戦力を投入して総攻撃をかける、準備にかかれ」


「はっ」


 部下たちが、作戦を遂行すべく、慌ただしく持ち場に散っていく。この絶望的な戦いの中で、これほど冷静かつ使命感を持って、任務をこなす部下たちの姿を頼もしく思いつつも、司令官は、この作戦が単なる時間稼ぎにしかならないことを痛感していた。


 藍色の生命体の存在が確認されたのは、ずいぶん前のことだ。彼らは昼間、光を浴びることで体内にその活動エネルギーを蓄え、その際の代謝としてガスを吐き出しているらしかった。個体数も少なく、発見された当初は、それほど危険視されていなかった。

 だが甘かった。

 彼らもまた、我々と同じように生命の宿命を、自分の仲間を増やすという宿命を背負っていた。

 彼らは自分たちのテリトリーを拡張すべく増殖し、そして世界中に散らばった。

 彼らが侵入すると、まず周りの空間が赤色に染まりだす。それは、この環境に溶け込んでいた元素が、ガスにより腐食され始めたことを示すサインだ。そして色の濃さが最大に達すると、そこは彼らだけしか受け付けない死の世界に変わる。


 おびただしい仲間の死体の上に降り積もってゆく赤色の降灰物。

 そうやって赤の世界が何億年にわたって徐々に広がっていった。

 識者の間で、このままでは遅かれ早かれ、この世のすべてが彼らに浸食されてしまうのではないか、と囁かれていた。


「司令官。本部から通信が入っております」


「分かった。部屋に回してくれ。少し席を外す」


 司令官は二言三言、側近に指示を与えると指令室を後にし、自分の部屋に戻っていった。大方の予想はついていた。撤退戦だ。

 もう戦線は維持できない。潮時であろう。

 案に違わず撤退の指示であった。多くの同胞を避難させるために、できるだけ時間を稼げという内容だった。

 だがどこへ避難する。まあ良い、それを考えても詮無いことだ。上層部にはプランがあるのだろう。

 そうなれば今夜の総攻撃は中止だ。作戦を撤退戦用に練り直さなくてはいけない。部下たちにはもうひと働きしてもらわねばなるまい。

 なぁに、今度は生き延びるための作戦だ、今まで以上の使命感を持ってやってくれるだろう。


 撤退戦が進行しているさなか、司令官のもとに妙な報告が上がってきた。

 これまでガスに侵された負傷兵の中で、死の淵から生還した者はいなかったが、最近完全に回復したものがいるという報告だった。しかもその兵士は、ガスの環境下で活性化しているというのだ。


「にわかには信じられん。それが本当なら……。その兵士に面会に行く」


 面会場所への移動中、司令官は静かに思いを巡らせていた。

 多くの者は、彼らはただ本能の赴くままに行動し、毒ガスをまき散らしているだけの、意思疎通もできない藍色の怪物で、その行動には何の目的もないのだと考えている。

 しかし司令官はこの戦いの中で答えを求め続けていた。

 藍色の生命体が現れた意味を。

 彼らがこの世界を改変していく意味を。

 そして我々が存在するこの世界の意味を。


 我々がこの世界に現れたのは十億年ほど前だと言われている。それまで、この世界には生命は存在していなかったという。

 すると我々は何の目的もなく、ただ偶然生まれただけなのか?

 いやそんなはずはない。

 でなければ、何億年にもわたって子孫を増やし、この世界に広がっていくはずがない。それはそういう使命を負わされていたのだ。

 だとすると、この藍色の生命体も同じではないのか。

 彼らもまた使命を負わされているのかもしれない。

 それがこの世界の改変なら、そしてそれに意味があるのだとしたら。

 もしそうなら、我々にもう抗うすべはない。


 その兵士は救護エリアではなく、生存可能圏の境界線上にいた。

 我々が、ぎりぎり生存できるガス濃度の中での面会となった。

 彼はガス濃度の高いエリア側にいるのだが、平気な顔をして立っている。


「君か、ガスの中でも生きていられるようになった兵士というのは」


「はいそうです、司令官」


「驚いたな、報告は間違いではなかったようだ。何が起こったんだ」


「私にもよくわかりません。この戦いで多くの仲間が死に、それに報いたくて必死で戦ってきました。でも全く歯が立ちませんでした。それでも必死に頑張ってきました。しかしある戦闘でガスを浴びてしまい、死を覚悟した時です。不思議なことが起こったのです」


「司令官、この濃度ではお体が持ちません、すぐに退避を」

 側近が進言したが司令官はそれを手で制した。


「続けてくれ」


「体の中にガスが入ってくるのを感じたのですが、それが痛みや苦しみではなく、力がみなぎるような感じがしたのです。そう感じたらもうガスは苦にならなくなりました。体も前より動けるようになったほどです」


 彼には敢えて言わなかったが、彼の体はガスのない環境では生きられない体質に変化しつつあるという。

 もはや彼を一緒に連れていくことはできない。彼の体はこの未曽有の状況に対応し変化したのだ。


「我々は今、撤退戦を戦っている最中だ。この世界を放棄し、彼らの影響が及ばない世界へ退かなければならない。君はこの戦いに何か意味があったと思うか?」


 問われた兵士は、しばらく沈黙していたが、意を決して司令官の問に答えた。


「戦いの意味は、こうなってしまっては正直分かりません。ただ彼らの行動には、自分たちの繁栄を考えているだけではなく、この世界の仕組みを変えるのだというような、何か使命感のようなものを感じました。そうでないと、この状況は説明できないと思います」


「そうか」


 彼は賢い。

 彼を前にして司令官は悟った。目の前に答えがあると。

 多くの犠牲を伴った、この長い長い戦いは、決して無駄ではなかったのだ。

 藍色の生命体は、彼のために新しい世界の地ならしをしているに過ぎないのだ。

 我々は生き残れないかもしれないが、彼は生き残るであろう、いや生き残ってもらわないと困る。

 彼はつぎの世界へ受け渡す希望そのものなのだから。

 そのことをこの目で確かめられただけでも幸せだ。

 司令官は最後に、君と同じように体質が変化した者を集め、その者たちとこの世界に残り、そして生きよと彼に命じた。

 彼は司令官に敬礼すると、赤の世界へ消えていった。


 司令官は指令室に戻ると、なぜか嬉しそうに部下に向けて檄を飛ばした。


「さて、使命は果たした。しかしやすやすと絶滅してたまるか。先輩生命体としての意地を見せてやる。撤退戦を完遂させるぞ」


 こうして約38億年前に初めて地球の海に誕生した生命体(古細菌)は、光合成により酸素を放出する藍藻らんそう(シアノバクテリア)の出現により駆逐され、主役の座を退いた。

 しかし彼らは決して絶滅したわけではない。

 今でも高温高圧で《酸素濃度0%》の地中の奥底で、託した「希望」の行く末を先輩生命体として見守っているに違いない。


終わり

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