第39話 あおいろラスト(6)



いつかの夏祭りで掬った、スーパーボールみたいなものだ。

妹と競り合って意気揚々と臨んだくせに、ポイがすぐに破れて、一つしか掬えずじまい。

マーブル模様のその一つを、ポケットに大事に入れて帰って、気づいたら失くしていた。今はどこにあるのだろう、部屋のどこかか、公園の隅か。検討もつかない。


たまたますれ違った、知らない誰かみたいなものだ。

どこから来て、どこへ行くのか私は当然知らない。格好から予想をするのが精一杯だ。素性なんてもってのほか。でも、そういうものだ。なにも、偉い高僧みたく大層な悟りを得たわけじゃない。知らない、分からない、は今も同じままここにある。

けれど、あの日家のボロ天井に向けて笑ったら、それも答えになるのかもしれないと思った。それが普通で、なんでも分かる必要なんてない。ただ今、そこにある。あるのだから、理由は後回しでいい。


ラッコのついたペンを予定帳に叩きながら、つい一人笑ってしまう。うん、きっと恋に違いない。なんてことない一言を、ちゃんと覚えているんだもの。だったら、あとは伝えるだけだ。ばーゆも、直接ではないけれど、背中を押してくれた。

相変わらず空白だらけの予定帳、明日の日付を囲む。瞬間、緊張が喉元まで走って、唾を飲んだ。たぶんここがそのタイミング、もしかすると最初で最後になるかもしれない。受験が終わってから今日まで、ぼんやり解放感に浸っていたらすぐ時間が過ぎてしまった。


いよいよ明日が、卒業式だ。結局年始以来、全く話さないうちに、ここまで来てしまった。自分が受験に追われていたのもある。受験が終わってからは、何度も会いにいこうと考えはした。

けれど、彼の受験が終わっていないことを思うと、邪魔になるのは気が引けた。一度店まで行った以外は、ただ悶々と過ごして今日を迎えている。第一志望に合格したことさえ、まだ伝えていない。


おかしなものだ。ちょっと前までは、全く平気だったのに。

今は考えるだけで、どうにも落ち着けない。ねずみが騒ぐみたいに、身体が脈打っていた。つばきに電話でもしよう、と考える。つばきならこの緊張も、卒業式前日のほんのりセンチメンタルもきっと分かってくれる。しかし、コールを押す少し前、部屋の戸がにわかに叩かれた。


「お姉ちゃん、ちょっと前までは真面目に勉強してたのに。もう携帯ゲーム?」


顔をひょこっと覗かせたのは、妹だった。右手には、スマホと包み紙で挟んだクリームパンが握られている。


「違うよ、それは藍子でしょ。で、なんの用?」

「なんかお父さんが呼んでるよ」

「えー……。パンならいらない、って言ってきて」

「自分で言ってきなよ」


妹はすぐ向かいの自分の部屋へと逃げるように去っていく。厄介ごとを押し付けられたくないのは、妹も同じらしかった。私は、部屋から何度か「パンはいらないよ」と声を張る。不服ながら、声のよく響く我が家なら届くはずだった。けれど一向に反応はない。

仕方なくスマホをポケットにしまう。ため息を混じらせながら階段を降りて、無人のリビングに、店の方から呼ばれていたのだと気づかされた。


「なに? パンならいらないんだけど」


私は家と店とを隔てているのれんから頭だけをのぞかせる。リビングまでの短い距離とはいえ無駄足まで食らった。不機嫌さを、わざとらしく言葉の端に乗せる。しかし、そこにも父はいなかった。矛を向ける先を失った感覚、店全体をきょろと見渡す。


「本当面白いなぁ、渡辺さんは」


けらけらと笑う大石くんと目が合った。

父が来客だよ、と抜けた声で言うのが厨房の奥から遅れて聞こえる。

私は途端に恥ずかしくなって、のれんの奥に引っ込んだ。はねた髪を、だらけた格好を、玄関の姿見で慌てて整える。

スニーカーを踵でつっかけて、店の正面口から大石くんを外へ連れ出した。



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