第40話 あおいろラスト(7)
五
葵からは、了解と返事があった。
よほど暇だったか、かなり間を空けて返したのに、数秒でのリターン。けれど、到着は少し遅くなるというから、一足先に公民館へ向かうことにした。
例によって、自習用テーブルには誰もいなかった。今日は老人会も手芸教室もないようで、館内はいつもに増してしんと静か。館主はよほど暇していたのだろう。またチェアに深々と腰掛け、船を漕いでいた。この閑散具合なら、それもまた仕方のないことなのかもしれない。かばんから参考書を取り出す。何冊か左手に積んで、そこへ筆箱を立てかけたところで、気づいた。受験が終わった今、これらはもう必要ないのだった。公民館の光景があまりにいつもと同じで、油断していた。そもそも喫茶やファミレス、カラオケでの慰労会でもよかったかもしれない。
けれど、葵にメッセージを送った時、ふと浮かんだのはここだった。とはいえ、あまりになにもない。ゲームのやりすぎ、電池のすり減ったスマホは、連絡が取れなくなったら困るから実質使用不可だ。館主よろしく、椅子に深く沈みこむ。こう牧歌的な空気が流れていると、どうにも流されてしまう。ともすれば眠り込みそうになって、座ったばかりの席を立った。センター試験終わりみたく、自販機でコーヒーを買う。砂糖あり、ミルクありの甘いもの。この時点で、寛ぐつもりありき、だったのかもしれない。
戻る時、前回みたく、小林悠里がいやしないかと一瞬よぎったけれど、なんのことはなく誰もいなかった。さすがに会うにはまだ気まずい。
ほっと一息つき、壁掛けの時計を見る。葵はいつ来るだろうか、少しくらい寝てもいいだろうか。
律儀な葵のことだ、急に反故にされることはないだろう。そう思いつつ、しばらく眺める。秒針のない時計は、まるで進んでいる気がしなかった。小林悠里と桜の木の下でした話がなんとなく浮かんだ。
目を切って、コーヒーを一口飲む。頭を下げたせい、垂れてきた前髪を耳にかけるようにして搔き上げる。逆らい難い眠気が瞼に乗っかってきた。
小机に肘をつき腕に額を当てる。まぶたは、自然と降りてきた。眠りかかって、身体を少し揺らした。息を、一つ二つと数える。浅くなっていく。少しずつ調子が整っていって、そのうち数えるのも忘れた。
「なに、寝てるの」
どれくらいか経った頃、不意な声がした。反応はしたものの、瞼が重い。眠ったままいると声は続ける。
「私には真面目にやれ、っていつも言ってたのに」
それは、渡辺さんのものだった。遠くなっていた意識を寄せて、薄眼を開ける。けれど、どこにもその姿はなかった。
浅い眠りで、夢を見ていたらしい。一人、くすりと笑う。これじゃあ誰を待っているのか分からない。首を起こして、誰もいない目の前の席を見据えた。
「……うるさい」呟く。
待っても当然、誰もいなければ返事もなかった。寝ぼけるのも、大概だ。気付けに、とコーヒーを飲む。首を一周くるりと回して、伸びをした。空の席をもう一度見る。
その上で、本当にいたらいいな、と思った。
彼女がここにいたら、どれほどいいだろう。一人でいられないわけではないけれど、いたらきっといい。そう、はっきりと思ったのは、初めてのことだった。気づいたばかりの感情に半ば戸惑いを覚えつつ、過去を辿る。
初めの大喧嘩は、理由からなにから、本当に酷かった。この先も、あれほどのことはないと思う。それでも互いの学校生活のため、仲直りして。滅多にない自分たちの似た境遇を共有して、この場所で愚痴を語り、小競り合いをした。
思えば、色んなことがこの場所から始まっている。師走際も、憧れていた吉良さんと初めて会話を交わしたのも、この場所だった。あの時彼女に会っていなかったら、どうなっていただろう。全く違う今になっていたかもしれない。小林悠里とまた話すことだって、たぶんなかった。葵も良太も、六人で囲んだこのテーブルは、かなり賑やかだった。人には言わないけれど、結構好きな光景だったりする。しかし、なにより焼き付いているのは、違った。
二人。斜め前に、目の前に、彼女がいる光景だった。
一人、合点する。俺がここへ来たいと思ったのは、ただ慣れた場所だからではなく、彼女がいた場所だから、なのかもしれない。
適当に散らされた荷物、変に捻れて引かれた椅子。単語帳をめくる紙の擦れた音、沈黙の内に聞こえた外の柳が揺れる音。たまにくれた変に婆くさい菓子の味、まったりぬるい空気。全て簡単に思い浮かぶ。
たぶん、どこにもありそうな、しみったれたそれらが気に入っていたのだ。
なくなった今になって気づくのが、実に俺らしい。けれど、同時にもう一つ気づいていたことがあった。それらは結局は背景ということ。たとえば、一つずつ欠けていってその最後白塗りになっても、別にいい。
最後に彼女が残っているなら、それがいい。
つまり、取りも直さず言うなら────それ以外になかった。
どうも結構はじめから俺は、ここで渡辺結衣を待っていたのかもしれない。もう、うんと初めから。
半ば放心していた。
顔を横たえたまま、積んだ参考書のページを弾く。一枚一枚から、彼女の声が聞こえてくる気がした。どうやらよほど寝ぼけているらしい。きっとこれは受験勉強に費やした一年分の疲れだ。流されるまま、もう一度目を閉じた。
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