第37話 あおいろラスト(4)



***



次の日は、久しぶりの登校日だった。

卒業式へ向けた、いわば練習日。

前日まで休みを謳歌していたクラスメイトたちは、蓋の緩んだ炭酸みたく気が抜けきっていた。中には茶髪のまま来たり、制服の下に派手なカラーシャツを着込んでいる人もいて、朝礼は先生による教育指導から始まった。

「もう卒業するというのに情けない」とかなんとか、くどくどと叱られる。

ようやく受験の緊張から放たれたと思ったら、このだらしなさ具合。そんなスタートでは、いざ練習が始まっても、いまいち締まらない。


「どこの卒業式も同じの歌うんだろうねぇ」


ばーゆは肘を頬について、実につまらなさそうに目を細める。

その視線の先では、クラスの男子が歌っている。私たちはそれを、体育座りで聞いていた。というよりは、歌う番が回ってくるのを待っていた。仰げば尊し、卒業式の定番曲だ。

けれど、やはり知らない人も一定数いるもので。声は揃わず、数人の遅れた声が二重、三重にエコーがかかったみたく聞こえる。

聞くに耐えないほどではないけれど、傍目にも上手いとは言えなかった。校歌さえろくに覚えておらず、適当にメロディだけ合わせている人ばかりなのだから当然といえばそう。


「でも、変な歌よりはよくない?」


つばきが、ブレザーの襟を繕いつつ言う。歌には全く無関心だ。


「変な歌ってなに、つばき」

「うーん、そう言われると具体的には出てこないけど、流行のポップとか、そういうこと」

「えぇー、その方がいいよ。先生に恩、そこまでは感じてないし」

「しっ! 聞こえるよ」

「いいの、もう成績なんて関係なーい」


二人が慣れた掛け合いをする。私は、それを片耳で聞きながら、ぼうっと終わった後のことを考えていて、ばーゆに肘でつつかれた。


「なに、結衣ってば恋煩い?」

「ん、違うよ。先のこと考えてたの」

「……あー。それはそれで、中々深刻なこと考えてるねぇ」

「まぁまだ受験終わったばっかり、結果も出てないもんね。考えたくなるのも分かるよ」


二人が、うんうんと首を縦に振る。それも違うと、私は重ねて否定した。


「考えてたのは、放課後のこと! 大体、こんなの聞きながら将来のこと考えられる?」


たしかに、と二人が全く同じように言う。

その声は、男子の歌声よりよっぽど揃っていた。待つことそこからしばらく、ようやく男子だけでの練習が終わる。クラス全体で音を合わせると、なおさら酷いことになっていた。女子は男子の不協和音とも言える歌声を聞いていたせいだろう。

アルトはバスに、ソプラノはテナーに釣られて、もはや主音が分からない。他クラスから聞こえるのとは、うちだけ明らかに外れて低かった。

おかしさで声帯が緩んで、音を伸ばすべきところで、声が裏返る。隣のクラスメイトと目が合って、ふふと笑ってしまった。


練習が終わり、帰り支度をする。卒業式を除けば最後の登校日、もう終礼はない。自由解散だ。歌でこそ、調子の揃わなかったクラスだけれど、普段の仲はきっと他のどのクラスよりもいい。中々誰も帰り出そうとせず、だらだらと名残惜しそうに集まって会話をしている。そのうち、ボウリング行こうよ、なんて一人が言い出して、その場にいた大勢が話に加わっていた。


「結衣、まだ? 帰るよー」


その外れ、教室の端。つばきが私を催促する。もう少し、と答えると、今度はなに、とばーゆがまゆを曲げた。

なぜか、持ってきたはずのイヤホンがどこにも見当たらなかった。今日置いていけば、次はもう卒業式までこない。卒業式に探し物だなんて、惨めな目には会いたくなかった。スカートのポケットを返す。もう三度目だ。当然出てこない。


「かばんは?」つばきが言う。


「んー、もう見たんだけどな」

「前ポケットとか、意外と入ってたりしないかな」

「そんなとこ入れないと思うんだけど……」


そう言いつつ探ると、本当に出てきた。それも引っ張りあげると、二本ある。うち一本は、昔断線して、使うのをやめたものだった。


「もう結衣らしい。っていうかそれヘッドのゴムないけど大丈夫?」

「……あー、ほんとだ。まぁそれは諦める。替えがたしか家にあったし」

「その繰り返しで物なくすんだよ」


つばきのお小言は聞き流して、私はかばんを背負い立ち上がる。入り口まで出たところをちょうど、渡辺さんたちもどう? と、クラスメイトに誘いをかけられた。


私は用事があるから、と断りを入れる。つばきも申し訳なさげな表情で、高い頭を軽く下げた。唯一ばーゆだけが迷って、私とつばきを見比べてから両手を合わせていた。


「ばーゆ、行ってもよかったのに。私、本当に用事があるだけだよ」


三人で三年坂、もとい獣道を下る。ばーゆは、えぇと声を上げて大げさに反応した。


「なんだ、てっきり二人がいそいそ出ていくから、三人で遊ぼうってことかと思った~」

「それなら、そう言うよ」


つばきが口に手を当て軽く笑う。


「ボーリングかー、久しくしてないからしたかったかも」

「今から戻って行ってもいいんじゃない」


ばーゆが右腕をぐると回して素振りまでするから、私はこう言う。


「なし! 戻るの面倒だし、なんか格好悪くない?」


しかし、それは話が別らしい。

「そんなに暇なの?」つばきがピンと張った高い背を、斜めに折ってばーゆを覗いた。


「まぁねぇ、課題も終わったし。家に一人でいたらさー、ずっとスマホでゲームかネットサーフィンしちゃう」

「あは、暇人そのものだ。それに不健康。んー、川中くんの家でも行ってきたら? いい散歩になるよ」


つい、ぴくと身体が反応する。しかし、そうは悟られないよう、調子を保って坂を下った。


「んー、それもなし! 散歩はいいけど、あそこのお父さん怖いんだよねぇ。有無を言わさぬ仏頂面!」

「へー、そうなんだ? この前行った時はいなかったな」

「あれ、つばき行ったの?」

「うん。その時はね、妹と川中くん二人だったよ。でも、はじめはカウンターに赤ん坊一人でねー」


つばきが楽しげに語るのを、笑って聞く。哺乳瓶に菜箸、傑作だ。そう思う一方で、少し拗ねたくもなった。

私が行った時は、待っても待っても帰ってこなかったくせに。


でも、それも気づかれないようにしていたら、いつもの集合兼解散場所まで着いていた。つばきがまた連絡してね、と手を振り去っていく。これもあと一回、なんて考えると少し感傷的な気分になった。姿が見えなくなるまで見送る。


「うわぁ、髪ハネっぱなしだった~……今気づくってもう手遅れじゃん」


ばーゆは、そんな私の気分とは無関係。碁会所のガラス張りに向き合って、髪をといでいた。「結局どうするの」その背中ごし、私も一応身繕いをしつつ問う。かばんですれたのだろうか。ブラウスが、スカートからはみ出ていた。


「……わたぱんでも行こうかな」


ばーゆは櫛を内ポケットにしまいながら、ぼそりと呟く。よっぽど暇らしかった。


「だから、私は用事あるからいないよ」

「分かってる、だからお父さんお母さんと喋りに行くの~。ねぇ用事ってなんなの、ちなみに」

「下見。滑り止めの方の大学、違う試験会場で受けて、キャンパス行ったことないから見に行くの」

「……そっか、驚いた。結衣にしてはかなりちゃんとしてる」

「まぁ第一志望が通ってれば、本当はそれがいいんだけどね。希望ばっかでもダメかな、って思って」


白昼の商店街を通るのは久しぶりだった。ビニルの天井を透いて、薄日が差しこむ。しかし、その程度で暖かくなるわけでもなく、むしろ脇道から差し込む風が冷たい。

寒い寒いと二人で言い合って身を寄せていたら、すぐにアーケードを抜けた。私は家を横目にして、駅へ続く細い道に折れる。ばーゆは変わらず、隣で冗談を話し続けていた。


「わたぱんの場所忘れたの?」

「そんなわけないじゃん、何回行ったと思ってるの」

「じゃあどうしたの」

「いやぁ、下見についていこうかと思ってね。私がいたら心強いでしょ」

「……都会までは出るけど、遊びに行くわけじゃないよ」


ばーゆは、分かってると二つ返事で請け合う。まず分かっていないだろうと思った。けれど、私もそういう浮いた気持ちがないわけではなかったから、そのまま二人で駅舎に入る。


券売機でICOCAのチャージをしていて、交通費が往復で二千円を超えることを思い出した。私は両親から貰っていたからいいけれど、高校生にとってこの額はかなり大きい。けれど、それを伝えても、ばーゆは改札を通るのをためらわなかった。なんとなく、暇というだけの理由ではないような気がした。


ホームには、他に人がいなかった。錆びたベンチに座り、電光掲示板を見る。一時間に二、三本と多くはないダイヤとしては運良く、次の電車まではあと三分だった。入念に何度か、乗り換えを確認する。ばーゆは、駅舎の錆びた天井のへりをぼうっと眺めていた。


「昔、こんな風に誰もいない電車に乗って海を見に行ったことがあったなぁ」


てっきり上の空かと思ったら、違ったらしい。


「なにそれ、めっちゃ青春っぽい」

「うん、そうだったと思う。川中となんだけど」


へぇ、生返事が出た。

それを重ね塗るように、ちょうど電車が走りこんでくる。二両編成のえんじ色。乗り込んでも、私たち以外に人はいないようだった。ばーゆは、長椅子の真ん中に座る。かばんを左に置いたのを見てから、私は彼女の右側に座った。かばんを膝の上に乗っけて、もう一度イヤホンの有無を確かめる。うん、当然だけどある。

発車音とともに扉が閉まった。電車はゆっくりと走り出して、だんだん車窓の景色の流れが速くなる。妙な沈黙があった。その間、私は電車の車輪が回る音を聞いた。古いからだろう、たまに耳障りな金属の摩擦音がした。


「……あのさ、結衣。実は一個言っときたいことがあって、ついてきちゃったんだけど」


しばらくして、ばーゆが口を開く。


「……うん、そうだと思った」

「そっか、なんの話かまで分かる?」私はかぶりを振ったけれど、大体の想像はついた。


「フラれたんだよねぇ、私」


極めて平静そうに、ばーゆは言った。ポイントに乗ったのだろう、電車が縦に揺れる。


「なにも言ってなくてごめん。やー、ダメだった~。そうだろうな、とは思ってたけどさ」


ばーゆは、だらっと姿勢を崩し、窓とサッシに頭を預ける。私は、背を張ったまま適切な返事を探した。しかし、そう手頃な範囲には見つかりそうになかった。また車輪が回る音を聞く。親友なら、悲しみを分け合うべきなのかもしれない。けれど心のどこかには、たしかに別の感情もあった。

残念だったね、とか合わせる言葉はいくつも浮かぶ。しかしそれは口に出した途端、全てくすんで灰くずにでもなる気がした。たぶん上辺さえ繕えず、この車内の床に砂利と一緒に溜まる。


「友達のままでいよう、って言われたよ。私には感謝はしてるし、昔なら頷いてたかもしれない。けど、ダメ。好きな人いるの、って聞いたら、いるとかいないとかそういうことじゃないって。好きな人どうのは、結局濁された」


私には、隠している赤い果実がある。

それは自分でさえ知らぬうちに陰で膨らんで、ある日色づいた状態で私の内側に忽然と現れた。

自分でもまだ、その存在には戸惑っている。けれど、たしかに今ここにあるのだ。たぶんそれを見せなければ、どんな綺麗な修辞をしても、言葉は意味を持たない。


「でもねぇ。私、分かってるんだ。それはよく川中のことを見てるし、知ってるからなんだけど……って、これ結構皮肉だね」

「ばーゆ、その……私、さ」


息を吸って、


「ねぇ結衣、私は結衣のことだってよく見てるよ」


勢い込んだところ、桁を外された。へ、と間の抜けた声が出る。


「授業中はよくスリッパ投げ出してる、とか気分がいいとポニーテールになるとか、笑うと右頬にえくぼができるとか。挙げたらキリないくらい、なんでも」

「……えっと」

「だから、言わなくていい。結衣を見てたら分かるもの。簡単にわかるもの」


それから、その言葉にはっと息を呑んだ。

優しい声音だった。まっすぐに私を見る彼女を見ていたら、本当に分かっているのだろうなと思った。私だけ、なんて。どうやら大きな思い違いをしていたらしい。ばーゆが何を考えているか私が分かったみたいに、たぶん彼女にも私の内側が見えていた。もしかすると、私が気づくよりずっと前から。


心臓のあたりがじんと熱くなっていく感じがする。それは昨日電車で感じた嫌な熱っぽさとは全く別のもの。その熱を失くさないよう胸に手を当てて、妙な感触にあたった。


「なに結衣、そんなに寒かった?」

「……ううん、もうかなり前の奴」

「あは、さすが」


クリスマス、大石くんにもらったミニカイロだった。すっかり冷えて、ごつとして固まっている。私は手癖で少しほぐして見るけれど、当然もう温まってはこない。


「捨てたら? ポケットしまったらまた放置しちゃうよ」

「うん、そうする」


二人だけを乗せた電車はなおも進む。途中、ターミナル駅に止まって、ようやく人が乗ってきた。都会が近づくにつれて乗客は増える。


「やっぱり遊びに行こう、結衣」

「えぇ、遊びじゃないよって言ったじゃん」

「大学の中を探索とか面白そう!」

「もう仕方ないなぁ」



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