第36話 あおいろラスト(3)



   二



電車を降りて、私、渡辺結衣は、冷たい空気を肺の奥まで吸い込む。

計約一時間半、かなり長いこと乗車していた。

暖房が効きすぎていたのも、途中で寝てしまったのもあって身体の奥には嫌な熱が籠もっていた。


けれどそれも、何度か息を吸ったらどこかへ立ち消えになる。

反転して、今度は晴れやかしい気分が降りてきた。それに背中を押されるまま階段を駆け上って、改札を抜ける。空を見上げると、雲はまばらにあるけれど、陰った感じはしなかった。薄い橙が綺麗に街を覆っていた。

私は足取り軽く、短い家路を歩く。人がいなかったら、鼻歌くらいは歌ってしまっていたかもしれない。

なにせ、試験が終わったのだ。私立入試の最終日、そこには今まで感じたことのないような安堵感と充足感があった。それに、結果いかんはひとまず関係ない。

このまま帰るのは、物足りない気がした。

一歩ごと、そんな思いが形になった。きっちゃんに会いにでもいこう。そう決めて私は、家の前を通り過ぎて、するると商店街を北へ上っていく。そのまま進んで、きっちゃんのいる薬局に入った。客がたまたまいなかったからだろう、すぐに温かい紅茶で出迎えてくれる。


「薬局じゃなくて、カフェみたい」


こう言うと、


「薬局だよ。なんなら、今からでも葛根湯の水溶きに替えようか?」


彼女は意地悪に笑う。

私は急いで首を振って、カップを取った。暖かさとほんのりした葉の苦味がする。これでいい。あれはとにかく苦いのだ。もう散々飲まされて、嫌になっている。


「もう熱ないんだから、飲む必要ないじゃんかー」

「葛根湯は、普段から飲んでてもいいんだよ。体が温まるからね、どうする? 冷え性にはもってこいだけど」


私は重ねて首を振った。

思い出されるのは、熱にうなされた正月。仕事も忙しいだろうに、きっちゃんは連日、朝夕と私の家にやってきた。その度に薬や漢方を提げてきて、目の前で飲まされる。結衣は見てないと捨てちゃうだろうから、なんて図星を言い当てて。そのおかげなのか、どうなのか。

少しして、熱は嘘のように引いた。もっとぐずつくと思っていたのに、そんな不安があたることもなく、センター試験の日にはすっかり。調子が回復したことが、特段結果には比例しなかったけれど(残念なことに)、とにかく無事に間に合った。


「で、今日の試験の出来栄えは?」

「んー、中の上くらい。悪くはなかったから、受かっててほしいなぁ。結構迷ったところあったけど、調べてみたら当たってたし!」

「今日のが本命だっけ?」

「うん、本命にしてラスト! 何回か受けたし、なんとか通ってないかなぁ。結構受けたし、一個くらい」

「私も祈ってるよ。とりあえずお疲れ様。疲れてるだろうし、それ飲み終わったら早く帰って寝たら?」


私は返事をしない。なんならしばらくは舞い上がって寝付けないだろうなと思っている。だから代わりに、今日試験の帰りに見かけたケーキ屋の話をした。大学近くにあったアクセ屋の話をした。

なんだかんだ言って、きっちゃんは大概の与太話には付き合ってくれるのだ。小一時間ほど話してから、


「そろそろ締めるよ」


と喝をもらった私は、薬局を出た。もう日が沈む頃だった。薄暮がグラデーションになって、アーケードの屋根に乗っかっている。

年始の夜みたいだと思った。薬を貰い忘れて、ここまでふらふら辿り着いて、それで──。靄は、もうかかっていない。幾重にも映った電灯の明かりだって、今ははっきりと見えた。

あれほど晴れることを祈った靄の先、広がっていた景色には、やっぱりなにもなかった。枯れ木の一つすらない。ただ埋まらない器を見つめるだけ、空っぽの私がいた。でも、だからこそ見えたものは、ほんの単純な一つだった。

人のことを気にして、否定してもしょうがない。もうたぶん間違いなくそうなのだ。一方的な感情なのだとしても、叶うとか叶わないとか、そんなことはさておいて。

私は、心がぐんと軌道高く突き上げてくる衝動を覚える。今なら、あの時のお礼の一つくらい言えるに違いない。

降りたシャッター群が脇に並ぶ、緩やかな上りを走る。アーケードの出口の先、一つだけ煌々と光るパン屋の前へ。

実は、初めてだった。

「リヴィエール・パーミ」。洒落た店名だなんて思いつつ、緊張を感じて看板の前少し立ち止まる。それから、そろりと扉を引き、店内に足を踏み入れた。

川中くんはいなかった。店台には、眉間に立派な皺を蓄えた強面の中年男性が腕組みで立っている。今まで聞いてきたことから察するに、あれがお父さんなのだろう。目を合わせるのがなんとなく憚られて、私は店内を見回る。なんとなくフォカッチャ、塩パンをトレーに乗せて、おずおずとレジへ。


「カレーパンもどうですか」

「え?」

「人気商品ですので、ぜひ家にでも」

「あー、えっと……じゃあ」


まさかセールストークとは思わなかった。戸惑いもあって、言われるままにカレーパンもトレーに乗せる。見方を変えれば、押し売りみたい。思いながらお金を払って、紙袋に包んでもらっている間に、思い切って聞いてみた。


「あの、川中くんいますか」

「……なんだ、大雅の知り合いか。今日は夜までいないけど」

「……あー、そうですか。えっと、来たのでついでに顔を見ようかと思っただけなので、えっと大丈夫です」


私は色を伺いながら喋る。

とくに次の言葉がないうちに、パン袋と釣り銭だけが返ってきて、その人は無言のまま店裏へと消えていった。しばらく待っても、戻ってこない。いないから、帰れということなのだろうか。難しい人だ、そう思いつつ店台を離れようとしたら


「あれ~、たいちゃんの友達の子? こんばんは~」


今度は奥から、まるで正反対の印象の女性が出てきた。派手めのワンピースに、ゆるく巻いた髪。察するに、今度はお母さんだ。


「てっきり悠里ちゃんかと思ったけど、別の子か~。たいちゃんも中々やるなぁ」

「……えっと」

「あなた、お名前は?」


話には聞いていたけれど、その年不相応な若さは、目の当たりにすると結構面食らう。渡辺ですと、なにも考えずに答えてしまって、それからはっとした。

パン屋同士、競合が調査に乗り込んで来たと疑われては困る。けれど、今は取引相手でもあるから、なんて焦って言い訳を探していたら、そんな不安は全く掠りもしていなくて、


「大雅の母の平梨です」と笑顔の自己紹介があった。

「お若いですね、びっくりしました」


世辞抜きで思ったから、すんなり言葉が出てくる。

私のお母さんも別に老けて見えるわけではないけれど、モノが違った。ありがとう、と照れ笑いする姿は二十代OLのそれだ。

気を良くしたのか、川中くんのお母さんは笑顔が絶えなかった。店内にある小机に席まで用意してくれて、パンを食べながら話す。

そのうちに帰ってくるだろう、なんて思って私は話していたけれど、結局は戻らないうちにお母さんから「早く帰るように」と電話があった。

土産にたくさんのパンを持たされて、店を出る。私がパン屋の子だと分かっているのかどうなのか、確かめようとは思いつつも、最後まで言い出せなかった。

商店街を南へ下る。折角出向いてやったのに、と思った。

私はスマホを取り出し、メッセージ画面を開く。恨み言の一つぐらいは、許されていいはずだ。どうせなら川中くんのお母さんと話したことも書こう。たいちゃん、と呼ばれているのは今後弄ってやるのに、いいタネになるかもしれない。そうして文面を迷っていたら、また着信が鳴る。


「今帰ってるから、あと二十分くらい!」


私の声が、誰もいない通りに響いた。



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