第35話 あおいろラスト(2)

    ***



本当に酷い面をしていた。眼鏡はマスクで曇り、顔は赤く腫れ、はねた髪は多方向に毛羽立つ。今にもこけそうに歩いていた。ふらふらと足元はおぼつかず、よろめいて、最後には電柱に倒れかかった。驚いて駆け寄ると、身体が小刻みに震えている。呼吸は絶え絶えで、肩でやっと小さな息をしていた。覗き込んだ顔は、気力に欠けていた。普段の彼女からは、想像もつかない。


いつものごとく、少しだけからかう。返ってきたのは台詞以外いつもと全く別の、か細く今にも途切れそうな声だった。今に、泣き出すかと思った。


「なぁ、なにしてるか知らない?」


そのずっと前から、気になってはいた。

突然はたと公民館に来なくなったのは、クリスマスの日。小林悠里が菓子の大袋を三つと付属のクラッカーを持ってきたから、よく覚えている。

約束をしていたわけじゃない、けれどてっきり来るものだと思っていた。小林悠里もそれは同じだったようで、その大袋のうち一つには、渡辺さんの名前が書いてあったし、来たらクリスマス会だと、課題もおろそかにして語っていた。

けれど、待てど来ない。菓子は、夜になって痺れを切らした小林悠里が、お腹が空いたと食べていた。後から葵に、学校で会ったと聞いた時は驚いた。なぜ学校にいたのか、理由は未だに分かっていない。


次の日から、渡辺さんは全く来なくなった。彼女の性格を思えば、連絡くらい入れてもよさそうなのに、音沙汰もない。なにかあったのだろうか。参考書に向かいながら、気づけばふと、そう考えていることもあった。小林悠里に聞きもした。けれど、彼女も「さぁ」と首をひねる。


いないからと言って、なにかが大きく変わるわけじゃなかった。ただ公民館で勉強をし、閉館になったら帰る。それは、一人でも小林悠里がいても同じだった。ただ、どうもなにかが、しっくりとこなかった。それは快晴の青空に、白いぼんやり月がないような、小さな違いかもしれない。それでも、たしかに違和感があった。どれだけ小林悠里が愉快な話をしてくれても、その感覚は変わらない。物足りなかったり、多すぎたりした。


連絡はしなかった。小林悠里が返事がないと言うのだ。俺がしても意味がない、とそう思った。自分が渡辺さんにとって、どれだけの尺を持った存在か、測りきれていなかった。だから、葵なら、と気にかけてくれるよう頼み込んだ。けれど、始業式を休んだと聞いた時には、さすがに心配も沸点に達した。


公民館で勉強をしていても、いまいち身が入らない。細々メッセージを送るのも、そこに及んではまどろっこしく思えた。だから、あの日俺は渡辺さんの家まで行くことにした。今考えるとかなり、思い切りのある行動だったと思う。


かつかつと商店街を下って、まず軒先から店舗を覗く。しかし、姿は見当たらなかった。ならばと、裏に回り家のチャイムを鳴らすけれど、誰も出てこない。もう一度店側に戻る。どんな関係か疑われないだろうか。そんなことも少しよぎりつつ、ご両親に聞いたら、熱があると教えられた。たぶん寝込んでいるのだろう。チャイムを押しても出ないわけだ。しかし、そうなると一層気になった。仕様もなく悶々とする。そんな思いに背中を押されるまま早足で帰っていたら、見つけた。


本当にひどい格好だった。普段とは似ても似つかない。それでもすぐに、渡辺さんだと分かったのはなぜだったのだろう。


送り届けた下り坂、いつもみたく話をし、火にもならない言い合いをした。掠れて妙なほど落ち着いた声音に、調子が狂った。一人になってからの気分は、どう形容したらいいか未だに分かっていない。


一メートルと七十センチ。ただそれだけ先の、自分の足音が遠かった。虫の羽音、どこかの空き地ですすきが擦れる音ばかり、大きく耳に届く。


空を見上げてみた。新月の日だった。空気は冷たく、高く澄んでいた。星は良く見えるはずだったけれど、いつかみたく空の星を追っても、十も見つけられなかった。そのうちに、家に着いていた。



     ***



告白されて以来、小林悠里には会っていなかった。


その日を境に彼女は、ぱたりと公民館にこなくなった。避けられている、のかもしれない。断言できないのは俺も、行く機会が減っていたからだ。


怒涛の忙しさだった。センター試験が堰き止めていた時間の流れが、一気に奔流になって溢れたように瞬く間に日々が過ぎる。試験の結果が、願書が。言っている間に登校日は終わって、あれよあれよのうちに私立試験の初日になっていた。財布の中には、ふくろうのお守りが入ったままだった。行きの電車に乗ろうとして、思い出した。


告白をされるとは、思ってもみなかった。とくに十二月以降は、受験に掛り切り。誰が好きだ、とか考える余裕は、時間にも心にもなかった。だから、告白されてみて初めて考えた。小林悠里の、それから自分の感情。


「好きだから」


小林悠里の言葉がリフレインする。それは、どういう意味だっただろう。なにを恋、というのだったか。ともかく言えるのは、この中途半端な状態は早々に終わらせなければいけない、ということ。

もう何度目かの結論。至ったところで、ようやくはっとした。止まっていた手を動かし、刷毛でトレー周りのパン屑をゴミ袋へ払う。

店内に客はいなかった。しばらく来てもいなければ、外を見ても人通りはない。昼下がりだ、夕方頃まではこの調子が続くのだろう。つい気が抜けて、まどろんでしまった。ゆっくりとした足取りでレジ奥に戻って、据えてあった椅子に座る。横に置いた小さなベッドでは、赤子つまりは妹が安らかそうに眠っていた。


両親はいない。昼過ぎに、不釣り合いなほどフォーマルな格好で二人して出かけていった。なんでも、結婚記念日なのだという。母は朝からずっとそわそわしていて家事が手につかず、父は父でそれに気づいていた。そうして俺に任されたのは、店番と守り役だった。

妹の寝顔をぼうっと眺める。赤子は安らかそうでいい。きっと悩みもなにもないのだろう。そう思っていた矢先、なんの拍子か突然目覚めた妹が声を震わせ泣きだした。静観から一転、焦って抱え上げしばらく宥めてみるけれど、効果はない。

こうなった場合の対応の一つ、聞いておけばよかった。無策な俺は、咄嗟の思いつきに一縷の望みをかけて、家の台所へ向かう。シンク下の収納を漁り、粉ミルクと哺乳瓶を見つけてきた。腹が減ったのかもしれない、と考えた。焦っているからか、なかなか粉が湯に溶けない。苦戦して、菜箸で混ぜつつ妹の待つ店へ戻る。なぜか、ベッドの上にその姿はなかった。戸惑いで、ミルクを混ぜる手が止まる。


「随分幼い店主だって思った」


凜とした声がして、その方を見ると、妹を腕に抱いた吉良さんがいた。単に予想していなかったのもあって、どきりと胸が跳ねる。


「ミルクはいらないみたいだよ。もう寝てるから」

「……さっき俺があやした時は、全く泣き止まなかったんだけど」

「たまにやる怖い顔してたんじゃ? というか、哺乳瓶に菜箸刺してるの結構面白いね」


花がつぼみをつけるように笑いながら、吉良さんは妹を差し出してくる。俺は状況をいまいち飲み込めないまま抱え受けて、ベッドに再度寝かしつけた。泣き出さないのを確認してから、吉良さんの方を振り返る。


「驚いた。吉良さん、なにか用事でもあった?」


その言葉にまたひとしきり、彼女はつぼみをつけた。


「パン買いに来た以外ないよ。ベーカリーでしょ、ここ。ベビーシッターじゃないんだから」

「……そうだった。えっと、やっぱり明太もちチーズ?」

「今日はそうだなぁ、あっさりしたものがいいかも。そのつもりで来たんだけど、歩いてたらなんだか気分変わった」


藍のロングコートを端だけ揺らして、吉良さんは陳列棚を見て回る。両手に持ったトレーとトングが、可憐な格好とそぐわない。ちぐはぐだと見つつ、俺はレジを開いて会計の準備をした。しばらく待っていると、吉良さんがレジ台の前にやってくる。トレーの上は、空のままだった。


「……えっと、お気に召すものがない?」

「ううん、決められない。普段は迷わず、味の強いパン選んじゃうから」

「なら、塩パンとかサンド系──」

「あ、そうだ。選んでくれない? 選んだものには文句言わないようにするから」


吉良さんは、トングをトレーの上に置いて、こちらへ気持ち傾ける。トングがトレーのへりに掛かって、止まった。しばらくどうしたものかと思っていたら、


「お願い! なんでもいいから」


微笑み一つに負けた。美人はこれだからずるい。

奥のイートイン席に座っていてもらって、考えを巡らせる。悩ましくはあったけれど、あまり待たせるよりは、とすぐにベーグルに決めた。

とはいえ、そのままではあまりに味気ない。

裏の調理場に行き、半分に切って軽く炙る。レタス、トマト、ベーコンと挟んで、皿に盛りつけた。バターを添えれば、即興のベーグルサンドだ。たまに賄いで自分に作っていたのが活きた。

これなら、吉良さんの雰囲気にも合う。お茶と一緒に席まで運んだ。吉良さんは写真を一枚収めてから、小さくちぎって一口。


「うん、さっぱりしてる。いいね」


その一言で、俺はほっと胸を撫で下ろした。盆を下げる。調理場で、少し間立ち止まった。

考えてみれば、会うのも久しいうえ、滅多にない二人きりだ。緊張が変わらず、身体を走っていた。なにより話題が思いつかない。師走祭も終わった今、共通事項はほとんどない。髪を掻いて、キッチンを奥まで行ったり来たりする。悪い癖だ、途中で気づいて、結局ろくに考えのないまま戻った。下げたはずの盆を持ったままだった。


「で、どうなの? 受験は」


そこへ待たれていたかのように、話しかけられる。


「……えっと、やっと試験がひと段落したぐらい。次はもう公立」

「佳境だね。じゃあどこか結果出た?」

「ううん、まだ。でも今日くらい、結果発表だったかもしれない」


忘れていたのを、唐突に思い出した。


「ほんと? 変な時に来ちゃってごめんね」

「いや、いいよ。店が開いてるんだし。速達届くの待つだけ、それに今の今まで忘れてた」

「そろそろ?」

「でも大体午前中っていうから、今日じゃないのかも」


吉良さんが小さく、なるほどと唸る。間に有線から流れるポップがワンフレーズ入ってから反対に聞いた。


「吉良さんは、なにしてたの」

「私? 受験生じゃないから、そんな一大イベントはないよ。それなりに勉強して、趣味に精出してたかな」

「……へぇ趣味っていうと?」

「あれ、まだ言ったことなかったかな。見る?」


手招きされて、隣の席へ。吉良さんがスマホを、竹のようにしなやかな指で撫でた。あんまりにほっそりしている。握った時にうまくしまえるのだろうかなんて、ぼんやり思っていると、


「どういう反応なの、それ」


写真が一枚表示されていた。慌ててピントを画面に合わせる。そこには、小さなパーツで作られた城が写っていた。


「レゴブロック……?」

「そ、レゴ! 私の趣味でね、これはこの間、大阪城の写真見ながら作ったんだ」

「……へぇ、俺が知ってるレゴって、せいぜい絵本に出てくる城作れたらいい方だったと思うけど」

「最近は指の腹より小さなのもあるんだよ、大人向けに」


吉良さんが楽しそうに語る。もう何枚か、作ったものの写真を見せてくれた。その一枚一枚に素直に感心させられる。


「続けてたら、大概のものは作れそうだな」

「うーん、それは少し迷ってるんだよね」

「え、どうして」

「同じ趣味の人、他にそういないからさ。大学行ったら浮きそう」

「……そんなこと考えるのな」

「うん。私、元々友達少ないから結構考える。というか作った覚えないのに、友達どころかほとんど敵ばっかりだし!」


スマホを閉じながら、投げ出した長い足を先だけ組んで、吉良さんは言う。話の展開に追いついていなかった。整理をしているうちに、言葉は継がれた。


「陰口言われるのも、慣れてるもの。今は結衣もばーゆもいるからいいけど、大学行ったら一人。また一から友達探さなきゃいけないのに、これじゃあ誰とも話合わなくなっちゃう。でも、あんまり合わせにいくと今度は逆に気に入られないしなぁ、難しいラインだ」

「……女子は大変だな」

「そうかも。男子よりはその辺、結構えぐい。けど大学決まってるだけ、これも贅沢な悩みだね。先のことなんてまだ考えられないでしょ?」


俺はこくりと頷く。


「まぁあんまり気にしすぎてもしょうがないかー。人は人、私は私だ!」


最初の話からは考えられないような着地点。けれど、吉良さんはそれでひとまず満足したらしい。右手を上げ、大きく伸びをする。その姿が相当程度には無防備だったので、俺はその手の先、天井の木目に視線を逃した。


「そういえば、これいくら?」


そんな気遣いとは無縁に、澄んだ声が聞く。


「……うーん、いいよ。これくらい」

「そんなわけにはいかない。対価は払わせて」


賄いだから値段なんてない、じゃあ私が決める、と穏やかな押し問答になる。最後には、皿洗いをする代わりに代金は貰わないことで話がまとまった。


「お金の代わりに労働、たまにそういう店あるよね」


コートを椅子の背にかけ、吉良さんは立ち上がる。セーターの袖をまくり、ミディアムの髪をピンで留める。そんな細かい所作にさえ、器量を見た。そのまま調理場へ入ろうとしたところを、すんでで止めた。

ヒールのままだった。タイルに引っ掛けるのが怖いし、汚れてしまいかねない。普段は母がつっかけているゴムシューズに履き替えてもらった。うさぎのバッジ付き。

調理場に並んで作業をする。冷蔵庫を開けるため屈みながら、いつか夢見た光景そのものだと思った。

結婚したいとか、ラブホテルに行きたいとか、妄想ばかりで書いたノートの裏表紙が頭をよぎる。一人吹いてしまい吉良さんにどうしたのと問われて、茶を濁した。まさか言えるわけがない。

ちょうど洗ってもらった皿を棚にしまっていると、扉のベルが鳴る。客が来たらしい。俺が反応する前に、吉良さんが「私行くよ」と調理場を出て行った。明るい声が、いらっしゃいませと響いた。

本当に二人で店をやっているよう、なんて思ったのは束の間。


「え、なんで吉良さんが?」


遅れて聞こえたのは、良太の声だった。


「ん、少しお店手伝ってたの」

「それは見たら分かるよ。どうして」

「うん? …………洗うお皿があったから?」


俺は噛み合わない会話を聞きかねて、出ていく。付き合ってるの、皿洗いしてただけだよ、なんて、自分たちの認識がずれていることさえ気づいていない双方の誤解を解くのに、しばらくを要した。


「で、なにか用事かー? 今日は試食するようなものないぞ」


吉良さんにしたのと同じように、良太に尋ねる。すると、良太は丸っこい手で興奮気味に、俺の肩口を揺すった。


「そうだった、あまりの衝撃で忘れるところだった。二人とも聞いてよ。僕、大学、受かったんだ」

「え、本当? すごいよ、江尻くん!」

「うん、ありがとう。これ見てよ」


良太が得意げに、後ろ手に隠していた合格通知を胸の前で開く。

初めこそ「へぇこれが合格証書なんだ」程度、温度差があったけれど、見ていたら、その興奮が俺にもこみ上げてきた。第一志望はまだだけど、と前置きしつつも興奮冷めやらぬ早口で、良太は喜びを語る。

その途中、俺の元にも速達が届いた。二人の注目を浴び、より速く跳ねる胸の鼓動を抑えつつ、恐る恐る封筒を開く。


中には、俺にとっても初の合格通知が入っていた。


そこからは祝いだと、妹に配慮しながらも静かに騒いだ。余りもののパンを持ってきて、来客用の菓子も開ける。夕暮れが近づいて、客がちらほらと訪れるまで歓談は続いた。


「今日はありがとう、また来るね」


帰りがけ、吉良さんが言う。

俺は二人を一度見送ってから、慌てて呼び止めた。吉良さんは、似つかないゴムシューズを履いたままだった。脱いだコートも、そのまま椅子に垂れかかっている。

少しは知った気でいたけれど、やはり掴めない人だ。照れ笑いを浮かべつつ、ぺたぺたとゴムを鳴らして戻って来る吉良さんを見て、憧れは掴めないくらいがいいのかもしれない、とぼんやり思った。

二人が去った後の店内は、しんと静まりかえる。俺は菓子類の屑を片してから、今一度、合格証書を開いた。達成感に浸ってしばらく、思い出して腰ポケットに手をやる。


これのおかげ、ということもあるのだろうか。

財布の、ふくろうの木彫りを眺めた。それからスマホを引っ張り出してくる。まだ自分の感情がはっきりと掴めたわけではない。

けれど、小林悠里への答えは決まっていた。



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