あおいろラスト
第34話 あおいろラスト(1)
一
「さすがに寒いねぇ」
「なんなら夜は雪予報だと。かなり久しぶりだよな」
「うん、降るのはいいけど、なにもこんな日に降らなくてもいいのに」
「ま、言っても積もりもしないだろ。大したことない部類じゃないか? 北海道なんか積雪高いところで三百センチ超えらしい」
「え、人二人埋まるじゃん。あ、まぁでも向こうの人は慣れてるのかな」
良太と葵が、ともすれば気の抜けてしまいそうな世間話をする。それを背中で聞きつつ、彼らの数歩先。
俺、川中大雅は一人、スマホのマップに目を落としていた。初めての道を歩いている、少し方向を間違えれば、道に迷ってしまうかもしれなかった。気をぬいてはいられない。今日ばかりは、遅刻は厳禁だ。
「大雅ー、次どっち?」
能天気な良太の声に若干頬に引きつりを覚えつつも、俺は無言で左に曲がる。それがどう映ったのか、
「おいおい、そうかっかするなよ。大丈夫だっての」
「そうそう、五分前に着席しておけばいいんだから」
二人は口々に俺を宥めるように言った。とはいえ、やはり落ち着いてはいられない。神仏たる二人と普通の人間である俺とでは、たぶん根本の精神構造が違うのだ。
昨日だって、二人はしっかりと眠れたに違いない。けれど俺はというと、緊張やら心が騒いで落ち着かないやらで、ろくに眠れもせず日が見えるまで起きていた。ようやく眠れたと思ったら起床の時間だ。しかし、状況が特殊だからか今も眠気は全く感じていない。
「あのな、今日に賭かってる、って言っても過言じゃないんだから」
「そうだけど。大雅は気負いすぎだな、どう見ても」
「うんうん、いつもは遅刻ギリギリにやってくるくせに。結構余裕見てるし間に合うどころか、早いと思うよ」
今日が、センター試験一日目。ついに受験戦争の火蓋が切って落とされる、今がまさにその朝だ。
進路のまるで決まっていなかった秋を思えば今日という日を迎えられたことが、まずは感慨深い。奨学金、店番の継続、その他。課された条件は多かったけれど、あれから親父は、正式に進学を認めてくれた。店を継がせたい、という親父の意志が変わったわけではない。
今も顔を合わせれば、そういう話になり、場が気まずく濁る。けれど、親父は親父なりに考えてはくれているらしい。最近は、店番を頼まれることもめっきり減った。他の家なら、なんでもないことかもしれないけれど、俺からすれば家庭の危機を乗り越えてまで掴んだ機会だ。それに、多くの時間を受験勉強に費やしてもきた。報われたいと思うのは、当然だった。
「しかしまぁ、緊張はするよなー」葵が軽い調子、口にする。
「……全然そうは見えないけど」
「いやいや、するに決まってるだろ。今日で人生変わるかもしれないわけだし。それに」
言い止まって、
「今日でもう一年勉強しなきゃいけなくなるかも」
思わず苦い顔になる冗談一つ。
「浪人はしたくないなぁ、僕は無理だと思う。滑り止めでも、受かったらそこ入るよ」
「たしかに、毎日朝から夜まで予備校通い。今でもしんどいのに、もう一年はなぁ」
意外と二人も、同じような不安を抱えていたらしい。先のことを憂う話が続く。
そうしていると徐々に、同じ方へと向かう人の数が増え始めた。イヤホンを耳にさす人、最後のあがき参考書に目を落とす人、さまざま。全員が今日のこの試験のために勉強をしてきたかと思うと、自分のこととはまた別に、身が震える思いがした。
結局、試験会場である大学前に着いたのは、開始まで三十分以上も前だった。
「な、余裕だって言ったろー」葵が俺を茶化す。
とはいえ、もう多くの人が集まり始めていた。
受験生だけじゃない。門の脇には、送り迎えや激励に来たのだろう親や教師らが固まっている。一際目立って予備校や塾の旗が揺れていた。その中に、葵の通う予備校もあったらしい。呼び止められて、葵は断り一つで離れていく。良太も同じだった。塾の担当講師なのだろう大学生に捕まって、挨拶がてら腹をつままれていた。やはりどこでも、その大福体型はいじられているらしい。
どこにも属していない、強いていうなら公民館所属の俺は、ただ待っているのはどうにも居づらくて、辺りを見回す。知らない人ばかりの中に、担任の遠山先生を見つけた。一応、遠巻きから会釈をする。
「あとはしっかりやるだけね」と声を掛けられた。
二人を待ってから門の中、会場へと入る。近くを、同じ制服を着た他クラスの生徒が通り過ぎていった。それを見て、ふと思う。
「大雅ー、チョコ貰ったからあげるよ。僕、自分で買ったのあるから」
「……ん、ありがとう」
彼女は、どうしているだろう。まさか遅刻していたり、受験票が皺だらけで使えなくなっていたりして。やりかねない。なにか連絡を入れようとしかけて、やめた。まずは自分のことだ。
チョコの包みを開いて、口へ放り込んだ。
二日目の試験が終わるまでは、まるで心に張り詰めた糸に、もうずっと宙吊りにされているようだった。それは試験の合間や家にいる間もそう。行きや帰りを歩いていても、地面には数センチ届いていない気がする。
前へ気を保つのが、なにより難しかった。ともすれば、既に終えた科目の出来を探りそうになる。一科目終えるごとに、手応えの有無くらいは分かるから余計だった。
それでもどうにか、ネガティヴなことは考えないようにして、目の前の科目に集中する。なんとか最後、数学を終えて外に出た時の解放感ときたらない。宙吊りから解き放れたはずなのに、どうもつま先が浮く。どうだった、なんて普段滅多に話さないクラスメイトにまで聞いて回った。彼らも同じだったのだろう、話がいつになく盛り上がる。葵や良太も交えて、そのまま大所帯で最寄りの駅前まで帰ってきた。
一人になってもまだ、いつもほどには落ち着けない。そうなると、気になってくるのは結果だった。家には帰らず、その足で公民館へと向かう。
着くなり、問題用紙とネットに掲載されている解答速報とを並べた。終わった試験とはいえ、結果は変わらないとはいえ、見たいような躊躇いたくなるような心持ちだった。およそ意味なく自販機に立って、コーヒーを買う。ブラックの無糖。
席に戻ると、
「試験、お疲れ様。もしかしなくても、今から採点? いいところに来たかも、私」
「……小林、人ごとだと思って」
「む、そこまでは思ってない。友達? いつメン? それくらいには思ってるよ」
小林悠里がいた。目の前の席に座り、机の上に鞄を横倒しにしている。開けた形跡もなければ、そのつもりもないらしかった。
俺が座ると、身を少し乗り出して同じように問題を覗き込む。迫り出したその頭を、政経倫理の問題冊子で押し返した。
「……影になって見えないんだけど」
「悪い点数を隠すためじゃん? 高度な優しさ!……と見せかけて、ただ気になるの」
俺は、その頭が気になる。
けれど、そんな掛け合いをやってもしょうがないから、言わずにおいた。少ししてから、自分としては良くも悪くもない感触だった英語から採点を始める。なにが面白いのか、小林悠里はそれに見入っていた。うるさく喋ってればいいものを黙るから、ボールペンが紙を擦れる音まで聞こえる。ある意味、実際の試験より静かで緊迫感のある環境だったかもしれない。
「かなり正答率高くない?」
「配点が違うから、どうだろう」
正誤を確認し終えて数えてみると、英語は八割飛んで少し。まずまず、と自分を納得させながら採点を続けた。全科目での合計点数は、七割強だった。特段いいわけではないけれど、第一志望の県立大を考えるなら、まず満足できる結果。苦手だった歴史も、六十点代に踏みとどまっていた。知らずのうちに、口角が上がる。もしかしたら、隙間から歯が溢れていたかもしれない。
「……なに」
小林悠里が、にやにやと面白いものでも見るように俺を見る。
「いやぁ、めったにないもの見たなぁと思ってさ。結構、笑顔だよ。嬉しそう」
「まぁ、嬉しいよ。これならとりあえず受けることぐらいは──」
少し恥ずかしい気もして、理由を並べていたら
「ほら、いぇい!」こちらへ掌が向けられていた。今度は、屈託なく笑っている。
「……ありがとう」
ぱちん、と音が鳴るように合わせた。
「次は受かった時までお預けだねぇ」
「犬のお手みたいに言うなよ」
俺はやはり意味のなかった、コーヒーを飲み干す。安っぽい苦味を下して、片付けを始めた。
「なに、もう帰るの」
「勉強していこうかと思ったけど」
「けど?」
「意外と疲れてるみたいだから、帰って寝る。ようやく安心して寝られそうだし」
「……たしかにそうかもね」
そう言うと、どうしてか小林悠里もまだ開けもしないかばんを背負って立ちあがった。
「なに、もう帰るの」
「あ、まんま同じこと言ったー。見送るよ、お疲れの受験生さんを」
「いいよ、一緒に帰るって行ってもほんのそこだし」
「んー、いやさ、私もなんか満足した感あるんだよね。人の試験で、おかしな話だけど、貴重な人生の一瞬を見たというか」
課題進捗は大丈夫なの、聞こうと思ったけれど、聞かないうちに二人で公民館を出る。少し室内にいる間に、外は風が強くなっていた。小林悠里は、ダッフルコートを抱き込む様に身体を丸める。
「こんな日に試験だなんて。指かじかまなかった?」
「少し。ひと科目めが生物でよかったよ。数学だったら危なかったかも」
「あー、計算はたしかにきついね。ほんと寒いや。こんなに冷えてたら、ここの桜も、二ヶ月後に咲いてるって聞くと嘘みたいじゃない?」
葉もなく寂しい木の枝を見上げて、俺はうんと応じる。
通っていたのは、ちょうど桜並木の下だった。春になれば、ここは一帯が桃色に染まる。小さな町では、遠くから花見に来る人もいるくらいの小名所だ。けれど、そんな通りも今はただ枯木のアーチ。人っ子一人いない。
「だんだん気づかないうちに実は春が近づいてくるのかねぇ」
小林悠里は、俺と同じようにその枝先を見上げていた。短い前髪が、半分に分かれて耳元まで垂れている。
「まぁ季節って大体気づいたら変わってるよな」
「あは、たしかに。暖かくなってきたら、こたつも知らない間にしまわれてるしね。あ、そろそろみかんじゃなくて、いちごの季節になるよ。スタバだって新メニュー出るね、多分。あれ、毎回出たらすぐに飲みに行きたくなっちゃうの。大概売り切れで買えないんだけど」
それから一息に、こう喋った。一呼吸置いて、まだ続きがある。
「それから一ヶ月もしたら、もう桜は散ってて。その頃には、川中は大学生、私は専門学生だよ。なんか想像つかなくない? きっと髪の毛茶色に染めたり、無駄に洒落たブランドの服着たりして、街で遊び呆けてんだだよ」
「小林のイメージはどうなってんの、それ」
俺はここでようやく、口を挟んだ。よく喋る彼女とはいえ、今日はその上でなお多弁に思えた。
「川中がそうなってるかもしれないじゃん。分からないよー?」
「小林の方がなってそうだけど」
「私はー……たしかに亜麻色に染めたいかも。昔、そんな歌あったじゃん? ちょっと憧れ。でも、分からない。もしかしたら、三ヶ月先の私は金髪がいいとか思ってるかも。エクステつけて、ロングにしてたりしてね」
もう別人じゃん、そう言うと、同じようなものだよと彼女は嘯いた。
「三ヶ月もあったら、もう全然変わってるかもしれないよ。三年あったら余計なわけだ。……あ、そうだ。チョコボールいる?」
「……急になんだよ」
あんまりに脈絡がなかった。
けれど、そんなことは関係ないらしい。「ほら手出した出した」と俺の右手は引っ張りあげられる。
「童心くすぐられて買ったんだよね。昔は結構食べたんだけどなぁ。金のエンゼル、当たったことない」
「俺、銀ならある。二つ貯めたくらいでやめたけど」
「私、三つ。合わせてたら宝箱もらえたじゃん」
小林悠里はかばんにチョコボールの箱をしまう。俺はそれを見ながら、手のひらの数粒を口に入れた。昨日の良太と言い、バレンタインデーでもないのによくチョコをもらう。
そう思っていたら、
「はい、これもあげる」
また右手が掬い上げられた。次に乗せられたのは、それこそチョコボール大の、小さな木彫りだった。よく見ると、ふくろうの形をしている。
「……危うく食べそうになった」
「あはは、ダメダメ。喉詰まるよ? これはお守り! 受験のね。センター前に渡そうと思ってたんだけど、忘れてて今思い出した。まぁつっても私の高校受験のお古だけど」
「そんな長いこと持ってたのに、いいの? っていうか、それご利益あるのかよ。大体こういうお守りって一回叶ったら、次は別のもの買わないといけないんじゃなかったっけ」
「いいの、だって私もう受験も何にもないしね。ご利益はー……あるよ、あるはず。私がもう一回込めといたから!」
「小林、そんな神様みたいなことまでできたの」
くすっと笑う。しかし、笑いどころではなかったらしい。少し細い目が俺をまじまじと見据える。
「うん。まぁ、神様みたく誰にでもってわけじゃないけどねぇ。でも川中になら、たぶんできる」
「なんで」
────好きだから。
端的に、小林悠里は、たしかにそう言った。
なんと言われたのか、理解するのに少し時間を要した。小林悠里はその内に背を向けて、遠くを駆けている。秋にも似たような光景を見た気がした。告白の置き逃げ、とでも言おうか。追いかける気は起こらなかった。
握らされたお守りを手のひらで転がす。今の言葉には、いつからの感情が乗り合わせているのだろう、と思った。ここ数ヶ月か、それとも三年前か。とにかく、どうすることもできなくて俺は、その木彫りを財布にしまった。
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