第33話 釈然としない(8)



吹雪いてこそいなかったけれど、風が凍てついていた。

商店街のアーケードに潜るように、北風が吹き込む。それを丸めた胸で受けながら、私は歩いた。いつもより、人足が疎らだった。通りの店も、こんな気候では人が来ないと踏んだのだろうか、もう閉め支度を始めている。


少しペースが速くなると、それだけで息切れと動悸がした。ゆっくり牛歩のごとく、重い足を上げては鈍く下ろす。他にそんな人はいなかったから、目立っていたかもしれない。けれど、格好が格好だからだろう、通りの誰も、私とは気づいていないようだった。

そんな調子のまま辛辛、薬局にたどり着く。道にせり出した陳列棚を片付けていたきっちゃんに、蒼白の表情で抱き止められた。


「なにやってるの! 額熱い、熱もある。こんな時間に出歩いたら酷くなる」


風邪、いつから、病院は、次々と言葉を続けるきっちゃんに、私は返事の代わりに処方箋を差し出す。


「これ、駅前のじゃない。わざわざここまで持ってきたの」

「朝、もらい忘れてて」

「あぁもう、事情はよくわからないけど、そこ座ってて。今用意するから」


私はクッションを置いてもらったパイプ椅子に座りこむ。奥の調剤室でなにやら作業をするきっちゃんを、うつけて眺めた。

長い付き合いだけれど、真剣に仕事をする姿を見るのは初めてだった。いつもの、決まりきらない彼女とは違う。

なんだか、格好よく見えた。だから、


「きっちゃん、今なら私、お嫁さんになってもいいよ」


気の迷いか、こんなことを口走った。


「あんた、こんな時になに言ってんの。だいたい、前は結衣が男だったら、って言ったのよ。私は女だし」

「私も女だよ」

「じゃあダメじゃない」


そっか、と私は俯く。きっちゃんは、垂れた私の頭を掻き抱いた。


「なに、ただの勉強のしすぎってだけじゃなさそうね。私でよければ、話聞くよ。友達には話せなくても、お姉さんにはってこともあるでしょ」

「……そうかも。ありがとう」

「でも、また今度ね。今日はとりあえず、家に帰って薬飲んで寝なさい。栄養ドリンクもつけとくから。あぁでも一緒に飲んだら駄目だからね、明日の昼がいいよ」


きっちゃんの胸の中は、温かかった。熱で浮かされたせいなのか、甘えたくてしばらく離れられなかった。


「見送りしようか」


けれど、あまり頼り過ぎてもよくない。私は大丈夫と首を振って、薬局を後にした。

商店街を行きと同じ、もしくは傾斜の分ほんの少し早いくらいの足運びで下る。強がりを言ったな、と思った。少し温めてもらった分、外気がなおさら寒く感じる。家までの、いつもならほんの短い距離がかなり遠く思えた。


マスクのせい、マフラーのせい、眼鏡が曇る。

放っていたら勝手に元どおりになるかしら。そう思って、白んでいく世界を私はそのまま見守った。ちょっと袖で拭くだけのことが、煩雑だった。レンズを通して見える世界は、数日前と似ていた。にわかにこの場から切り離されて、一人ぽつり置き去りにされた感覚になる。わずかに聞こえる誰かの生活音が、遠く外縁をかすめただけで消えていった。


道と共に緩やかに曲がっていく街灯列。一つ一つが、ふわりと球を抱いて光る。それ以外は、ほとんど見えなかった。目の前、足元さえけぶっている。それでもそのまま私は歩く。一本の電灯に近づけば、光は大きくなって私の視界全てを覆った。蛾の集る、オンボロ電灯の一本すらかなり眩しい。

あぁ私も光っていたらこうはならなかったのに、なんて。

当たり前だけど、私は光っていない。目を瞑ってしまいたくなる。この分だと、太陽なんて見たらすぐに焦がされて焼かれてしまうんだと思った。私がばーゆを避けた理由が少し分かったかもしれない。

理由はさておいて、彼女が眩しかったのだ、たぶん。


平衡感覚がおかしくなるのを感じる。よっぽど熱は重たいみたいだった。私は立ち止まりそうになりながら道端によれる。電柱に掴まり、なんとかこけるのを回避したところ


「なにしてんだ、こんなとこで」


そこへ、話しかけられた。

姿はぼんやりしてはっきりとしなかった。白い塊の中の、黒い身体。


けれど、声だけではっきり川中くんだと分かった。

この数ヶ月で嫌というほど聞いた声、少し低くてたまに裏返る。

それから、ここのところ聞いていなかった声。


「眼鏡曇りまくってんぞ。前見えてんのか」

「……うるさい」

「変だぞ。芸人がする伊達用の眼鏡みたいになってる」


遠慮もなく笑われる。

いよいよ恥ずかしくなって私は眼鏡を外した。コンタクトがないから結局ちゃんとは見えない。近くの、川中くんの顔だけはピンぼけせずにちゃんと見えた。


「……本当うるさい、早く行ってよ」

「……あのな。放っていけるかよ、そんな姿見せられて」


さっきまでとは一転、真剣な表情で川中くんは言う。ふらつく私に、肩を貸してくれた。どこか用事あったんじゃないのと聞くと、今は帰り、とぶっきらぼうに返事がある。


「今日、学校休んだんだろ。小林に聞いた」

「……うん、熱があって」

「だったら大人しく寝てないといけないんじゃないの」

「……薬、貰うの忘れてて」

「渡辺さんらしいな」

「………そうかも。川中くんも川中くんらしいよ」

「なにが」

「面倒くさいと思ってるくせに、世話焼いてくれてる」

「……思ってない。俺だって心配してたんだからな、急に公民館こなくなるし熱だって言うし」

「本当に? つばきと連絡取りたかっただけのくせに」

「なに、聞いてたの。あれは、ついでで…………」

「だったら私に直接言えばいいのにさ」

「……それはなんていうか、普段連絡取ってなかったから送りにくくてだなぁ」


してくれればいいのに。


「だいたい、そっちこそ俺の話してるの、葵に聞いてるからな」

「それはー……また別! 心配してるかどうかくらい、直接言うものじゃん」

「……俺に言われたって嬉しくないだろ、渡辺さんだって」

「そんなことないよ」


いい加減、さん付けもやめたらいい。軽く、呼び捨ててくれたらいい。ないつもりでも、やっぱり距離を感じる。


言いたいことがいっぱいあって、なかった。


どうでもいいような、いつもの口争い。それだけは奇妙にも、途切れずに出てきた。

本当に言わないといけないことはなんだろう、あるのだけど形にはなっていない。あの靄の中に、もわもわと浮遊している。


川中くんが笑う。私は、その顔を見て笑った。

その度に、靄がほどけて、締め切らなかった蛇口みたく一粒ずつ水滴になっていく気がした。

頭は変わらず痛かったし、震えるほどに寒い。けれど、不思議と辛いとは思わなかった。

家まで送ってもらって、玄関先で別れる。薬を取りに行ったのに、ろくに飲みもせず私は呆然と部屋へ戻った。ベッドのへりに座る。


ぐるぐると頭が巡っていた。血も巡る、鼓動が早い。

なんだ、なんだ。

思って頭を振ってみても、痛いだけ、変わらない、分からない。けれど、はっきりしたことも一つ。


とにかく、会えてよかったと思った。


また私は、頭を枕に投げて天井を見上げる。なんだか、はははと笑えた。



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