第32話 釈然としない(7)
七
ニット帽、手袋にマフラー、ブーツ、綿のダウン。重ね着したシャツが二枚と裏起毛のフリース上下、厚手の靴下。その内側には、中敷用のカイロまで。
始業式の日、学校を休んだ私は、やりすぎなくらいの防寒をして駅前の病院へと向かった。コンタクトをつけるのが面倒で、眼鏡。玄関の姿見に映った格好は、ほとんど不審者然としていた。
本当は、もっと早くに診てもらうべきだったのだろう。
けれど、如何せんここは田舎町。病院の営業まで、遅々としている。六日の今日になってようやく、年始の診察が始まった。私の他にも、それを待っていた人は多くいたのだと思う。いつもは予約せずともすぐに診てもらえるのに、今日ばかりは受付してからしばらく順番待ちを食った。ちょうど近くに、私より酷そうに咳き込む子どもがいたから避けるために立つ。所在なくて、持参した単語帳とテレビに流れる通販番組を交互に見比べていたら名前が呼ばれた。
インフルエンザかもしれない、と薄々思っていた。寒気、手の震え、急な発熱、症状はかなり酷似している。それに、一度そう思いこんだせいなのか、関節痛まで感じていた。覚悟はあった。学校を休むことになるのは仕方ない。最悪、受験が始まるまでに治ってくれればいい、と。
けれど、散々検査して結局下されたのは、ただの風邪という診断だった。拍子抜けしていると、運がよかったね、と看護師のおばさんは言う。
「あんまり勉強のしすぎもよくないよ。体力が落ちて風邪引きやすくなるからね、適度に休みなさい」
最後にこう付け添えられて、私は病院を出た。もう随分休んだのに、と思った。
ただの風邪がこうまで拗れたのは、いつぶりだろう。発熱したのも、かなり久しいことだった。覚えている限りでは、中学生以来、その時はインフルエンザに罹っていた。
勉強疲れで体力が落ちたせい、病院で言われたように確かにそれもあるかもしれない。けれど、大きな理由が別にあるのは薄々分かっていた。こんなことなら、いっそインフルエンザと断じられた方が楽だったかもしれない。全部を、そのせいにできたのに。いや、もっと言うと「ただの風邪」よりそれらしい理由なら嘘でもなにでもよかった。理屈さえ通るなら、あの落ち葉のせいでも、電柱のせいでもいい。
靄に飲み込まれて、溶け残って二日。この期に及んで私は、なにかのせいにしたかった。
他に理由になりそうなものはないかと考えつつ歩く。しばらくすると、嗅ぎ慣れた焦げ砂糖の甘い匂いが鼻をついた。もう、角を一つ折れれば家というところまで来ていた。私は、頭を先のことへ切り替える。帰ったら少しは机に座ることにして、それから寝ようと決めた。体調が最優先とはいえ、勉強だって、おいそれと何日も休んでいられるほど悠長ではいられない。ただの風邪なら、なおさらだ。
角を曲がる。ふいと、家の前に制服を着た女の子が立っているのを見つけた。短い髪に、幾らかずれて折り返されたスカート。後ろ姿だけですぐに、ばーゆだと分かった。
配布物でも届けにきてくれたのだろうか。そう思うのと同時、無意識のうちに、歩みが緩む。まだ心には、躊躇う気持ちが残っていた。
去るのを待とうかと、過ぎった。
このまま後ずさりして、影から様子を伺っていれば会わずとも済む。この格好だ、もしこっちへ来られたとしても横を通られたくらいなら、きっと気づかれない。けれど、片方では、どうしてこうまで、とも思った。嫌いな人相手ならまだしも、友達相手だ。それも無二の親友である。
しかし、されど。相克する感情に、簡単には答えが出なかった。とぼとぼと、止まり切れない惰性程度、小さな歩幅で近づく。
その間もばーゆは、何度かインターホンを鳴らしていた。反応がないからか、首をひねる。それから、短く掛け紐の結ばれた鞄を持ち直して、去っていった。
声を掛けようと思いはしたけれど、音にはならない。気づかれなかった。いいのか、悪いのか。もう誰もいないのに、私はそのままの足取りで家まで戻る。外着を脱ぎ散らかして、ベッドに入った。さっきまで勉強しようだなんて計画していたのは、もうやめだ。とにかく目を瞑って、一旦なにも考えないでいたかった。
果たして、それは成功を収める。目を覚ました時には、もう外は暗くなっていた。
空腹を覚えて、リビングへ行く。
お母さんが作り置いてくれていた、たまご粥を食べた。体調は変わらず良くはなかったけれど、不思議なほど食欲だけは沸いてきていた。粥では到底足らず、冷凍パスタをレンジで温める。その間五分、することもなくて、レンジの中で回る受け皿を意味なく眺めた。意味なく、その振動する音を聞いた。寝起きだからか、熱のせいか、頭がはっきりとしない。
今は、それがちょうどよかった。けれど、それはにわかに終わりを迎えることになる。ポケットにも震えを感じたのだ。そういえば、携帯電話を入れっぱなしにしていたと思い出す。じゃらりと付けたキーホルダーを掴んで取り出したら、着信だった、ばーゆからの。
私は、なおも躊躇った。レンジと携帯が、同じように震えるのを見守る。
どうしようか、急に回転を始めた頭で考える。
先にレンジが止まったら、出ようと思った。勝手な命運を背負わせた二つを、交互に見比べる。私はまた逃げた。
自分では決められないから、なにかに委ねたかった。
「あ、やっと! 結衣ー、熱でも出たの休むなんて。心配すぎて電話したんだけど……あれ、これ聞こえてる?」
「……うん、大丈夫。聞こえてるよ」
「よかった。……っていや、なんにもよくない。急に休んでどうしたの。しかも、昼は家にいなかったでしょ」
「病院に行ってたの」
「じゃあやっぱり熱? こんな時期に」
「うん、でもただの風邪。インフルエンザじゃないみたい」
先に止まったのは、レンジだった。すっかり解凍されたであろうパスタを取り出しもせず、その場で立ったまま話す。
「じゃあ最悪の状態は免れたって感じ?」
「……うん、まぁね」
「私、てっきり。重い病気になったと思った。せめて来れないなら連絡してよ~。なにがあったか分からないじゃん。つばきなんか病んじゃったのかもしれない、ってずっと不安そうにしてたし」
「……あはは、つばきは心配性だから」
さすがは、つばきだと思った。当たらずとも遠くない。
「私もなにかと思った。結衣に会えるの楽しみにしてたのに。朝も、しばらく待ったんだからね」
「なにの話?」
「待ち合わせ! 来ないからぎりぎりまで待ってたの、おかげで久しぶりに坂ダッシュしたんだから」
「あ……、ごめん。それで、間に合ったの?」
「うん。チャイムの五分前に着いた。結構疲れたけど、身体なまってたから逆にちょうどよかったかも」
あの坂道がちょうどいいなんて、私には言えない。たぶん私がその立場なら、途中から歩いて、遅刻をしている。
「それで、どう? 治りそうなの。無理して明日行くことないと思うけど」ばーゆが一つ、咳払いをしてから言う。
「……一応、明日の朝、熱下がってたらいくつもり」
「出歩くとまたすぐ熱出るかもしれないじゃん。そんなことしてたら、試験まで引きずっちゃわない?」
私は、どうだろうと答えた。
「そうなったら、どうしよう」あるかもしれない、と思ったのが、つい漏れた。
「その時はー………うーん。代打ばーゆ、ってどう? 結衣のためなら、替え玉で出張るけど」
「……ばーゆ、それ敗退行為って言うんだよ。どうせなら、つばきに頼む」
「うるさいな~。分かってるけど、冗談で少しは楽になるかなと思ったの。とにかく、しっかり治しなよ。薬飲んでー、寝る! これがベストだからね」
それで、電話は切れた。
四分と少し、通話時間を確認してから、私は携帯を閉じる。ポケットにしまったところで思い出して、レンジの中からパスタを取り出した。
なに気のない、普通の会話だった。いつもする雑談と大差ない、短い通話。だからこそ、そんなことさえ避けようとしていた自分に嫌気がさした。机に座りパスタをたぐる。冷めかかって半固形のトマトソースが、べったりと舌に残った。
頭痛は、まだ収まらない。夕方起きてから熱は計っていないけれど、たぶんあるだろう気がした。早いところ、薬を飲んで寝よう。そう思って、病院へ持っていったかばんを探る。しかし出てきたのは、少し皺の寄った処方箋だけだった。
朝は、よっぽどぼうっとしていたようだ。これじゃあ病院に行った意味がない。
身体が重かった、処方箋を顔の上に乗っけて、しばらくソファで横たわる。けれど、なんとか鞭を打って、朝と同じ格好をして家を出た。
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