第31話 釈然としない(6)

     六



散会になってから家への道を歩く。


気分がよかった。しゃかりとポテトフライの袋を振る。江尻くんにつられて、下りの参道で買ってしまったのだ。揚げたてだったらしく、今も袋の中からは香ばしい匂いが漂う。行儀が悪い、油がつく、とは思ったけれど、冷めてしまってはもったいない。少し迷って結局、袋の中に手を伸ばす。


そして、ひやりとした感覚に襲われた。もちろんポテトは熱い。


手袋がないことに気がついたのだ。焦ってポケットや手提げを探ってみるが、どこにも見当たらない。思い返しても、たしかに家を出る時はつけてきたはずだった。血の気が一気に引いて行くのを感じる。ご機嫌から一転、焦りに追い立てられるまま、私は元来た道を駆け出した。

どうしてこう、すんなりといかないのだろうか。自分の不注意であることは見ぬふりで、運の悪さやらを恨む。

途中、さっき別れたばかりの大石くんとばったり会った。


「なに、どうしたの」

「手袋落としちゃったみたいで」息を切らしながら答える。

「そりゃあ困ったな。探しに行くなら、手伝うよ」いいよ、と遠慮したけれど、

「まぁ用事も何もないから」


大石くんは快くついてきてくれた。

ただ運が悪いわけではないのかもしれない、と単純にも思った。三人で通ってきた道を、二人で辿る。普段なら大石くんを見ていたかもしれないけれど、今日ばかりは地面に目を這わせた。

自分で買ったものなら諦めもついたのだけど、都合悪くも落としたのは去年の誕生日につばきがくれたものだった。そう話すと、失くすわけにはいかないな、と大石くんが言う。その通りだと思った。

道中には見つからないまま、本日三度目、鳥居をくぐる。頭を下げるのも忘れて案内所に向かった。けれど、無情にもまだ届いていないと告げられた。そこからは、大石くんの提案で二手に分かれる。私はめぼしいところを見繕い、地蔵前、手水舎、本殿、と順々に渡った。けれど、いくら人の行き交う中に目を凝らしてみても、見当たらない。

大石くんと落ち合う。ふるふると、小さく首を振られた。


「また今度聞きにくるから、気にしないで。帰りに埋め合わせさせてよ」


謝罪の言葉と共に、私は言う。とんだ迷惑沙汰に付き合わせてしまった。挙句に見つからない。少し気まずくて、継ぎ句が喉に詰まった。

失くしてしまったショックの大きさも加わり、俯き加減で歩く。つばきに謝らなければ、次はいつ来よう、悶々としていたら


「……もしかして、あれか?」


ふと、隣の大石くんが立ち止まった。

私は顔を上げて、その指差す方を見る。落下防止用柵の上に、手袋が一組引っかかっていた。そしてそれは、今日落としたもので間違いなかった。


「誰かが目立つように、高いところに引っ掛けてくれてたみたい」


大石くんが高い上背で、ひょいとそれを取り上げる。


「……ありがとう、よく気づいたね」

「上を向いて歩け、ってことだな。ひとまず一件落着?」


私の手の上に置いてくれた。その時、ほんの少し私の手の内に、指の腹が触れる。そのまま本当不意に、ふわりと握られた。


「手、冷えすぎじゃないか? 驚いた。早めに手袋した方がいいよ」


その間、何秒だったろうか、もしかしたらそんなになかったかもしれない。返事もろくにせず、私はその手先を見つめる。離れるその瞬間まで、まじまじと、たぶん瞬きさえせず。

胸が、壊れると思った。

華麗に助けてくれて、理由はなんであれ手を取ってくれたのだ。

嬉しさ、照れ、そういう感情が満ちて溢れて、顔に真っ赤な血がのぼって。


けれど、不思議なほどに全くだった。後から鼓動が追ってくるのを待っても、一向にやってこない。 乾いた風だけが、冷たいままの身体をすいた。


「立ち止まってたら寒いから、もう行こうか」


大石くんが微笑みかける。冬の、浅い光の粒を浴びて、きらきらと輝いていた。

格好よくて、優しくて。私の不注意だって、なんのことなくカバーしてくれる。それはまさに、遠目から憧れてきた彼の姿だった。たぶんクラスメイトに今の出来事を話したら、羨ましがられて、一部からは嫉妬を買う。やっぱりどれだけ知っても、大石くんに非の打ち所などなかった。全部が揃っている。

ただ唯一、足りていなかったのは、私の方だった。ほんの少し前までは溢れて仕方なかった感情が、今は欠けていた。例のごとく、理由も分からない。大きなものが、崩れてしまった気がした。大石くんが好き、これだけは確固としていると思っていたのに。


ぐらり、不安定に揺らぐ。この頃の、私の気分みたいだ。一緒に歩いた帰り道、私はまともに話せていただろうか。


「今見返したら、失せ物出ずる、っておみくじに書いてあった。当たるもんだな、引き直してよかった」


大石くんみたいに、うまく笑えていただろうか。


「渡辺さんは本当、おっちょこちょいだな。でも、そういうのもらしくていいよ」


それさえ覚束ないうちに、気づいたら家に帰り着いていた。ろくにただいまとも告げず、部屋に雪崩れる。コンポをつけて、ベッドに身を投げた。

あぁ世界のばかやろう。スピーカーから、キンと尖った歌声が流れる。一階にいるお母さんに聞こえたら、叱られてしまうにちがいない。けれど、そんなことはどうにでもなれと思った。


あぁ世界のばかやろう。ばかやろう。


メロディに合わせて、口を開く。声になっているのか、そうでないのか。そんなことさえ不確かだった。

手足がわなないていた、抑えが効かない。少し体勢を変えようとしたら、ベッドから床に転がり落ちた。


その時、足の先がクローゼットからはみ出した木刀を引っ掛ける。辛うじてバランスを保っていた棚の中身が私に被さるように、大きな音を立てて崩れ落ちてきた。築五十年、ぼろい家がぐらりと揺れる。とんだことをしてしまった、こんなことをしていたら倒壊するかもしれない。しかし、片付けようとは思えど、身体は思うように動かなかった。

急な寒気がして、頭痛がした。頭に手をやろうとしたら、雑多なものたちはさらに崩れて、私を覆う。服、かばん、教科書、卒業アルバム、化粧品、ボール、アイスの蓋、星の砂。私は、なされるままに埋もれる。顔の近くには、モノクロブーの大きなぬいぐるみがあった。手元には柔道着、脚の上には漫画雑誌。心臓を押しつぶすように、胸にはギターのネックが倒れ込む。たしか小学生の時、親に買ってもらったものだ。うんと小さい頃、数年だけやっていたな。昔は切り抜きだって保存していた。ゆずに憧れたけれど、結局、簡単なコード進行を覚えるのもやっとだったっけ。


つうと痛む頭に、昔のことがばらばらと蘇る。

思えば、全部中途半端だ。途中で放り投げて、なににもなっていない。私を囲む、この雑多なものたちは、そういう過去そのものだった。色んなものに飛びついては飽きて、未完であることを見ないでいるため、クローゼットに詰めてきた過去。それがいつしか立派になっていて、今日こうして私を襲った。対照的に、なにも詰まっていない今の私を。

私は、どこまでも空っぽだった。ちょうど、このギターのホールみたく、ぽっかり穴が空いている。だから、今ここで埋もれている。少しの悩みに、その空白を埋められて、音も鳴らせずにいる。なにも分からなくなって、確かなものも失った。

つばきみたく可憐で美しくいられたら、ばーゆみたく快活で強くいられたら、もしくは立ち上がれたのかもしれない。

けれど私はそれに憧れるだけの、なんでもない存在だった。その場で息だけを続ける。吸って吐いてを、ただ繰り返す。いつの間にか、曲が鳴り止んでいた。もうアルバムが一周するくらいには、時間が経ってしまったらしい。

無音がどうにも怖くて、暗闇に手を伸ばす。しかし、コンポには届かずじまいだった。冷えた床に、腕が落ちた。


あぁ釈然としない。かすみがかる。


いよいよ私は、その白の内に溶けてしまう。そしてたぶん、この冬の空気の一部になるのだ。一晩この散らかった部屋を漂って、それから次の朝には窓の結露にでもなる。出られない窓の外を見ていたら、まさか私だとは思わないお母さんに拭かれて、おしまい。それでも終わらないのだとしたら、次はなにになるのだろう。どうせなら最後は、海で迎えるのがいいかもしれない。何処へでも行ってしまえそうだ。そんな想像が、ともすれば本当になるような心地がした。きっと今、この一秒ごとに私が消えている。自然と瞼が重くなって私は、目を閉じた。


次にはっと気づいたのは、どれくらい経ったあとだったか知れない。


ギターの弦が弾かれる、重い単音が聞こえた。ぼけて自分で弾いたのかと思ったら、ギターは変わらず胸の上にカバーを掛けられたまま乗っている。唖然としているうちも、単音は繰り返された。速かったり、余韻を残すほど鈍かったり。その変調具合に、本当に違う世界に来てしまったのかと思って数秒、コンポからその音が流れているのに気づく。

不意に、あのボーカルが歌いだした。聞いたことがない曲だった。シークレットトラックがあったらしい。

彼女は歌う。


「君の言葉を聞かせてよ」


私は、自分に向けられているような気がした。

この数ヶ月、世界を何度も馬鹿だと罵ったけれど、それとて私の言葉ではない。

自分の言葉ってなんだ。そもそも私とは、なんなのだろう。恋とは、こんなに見つけにくいものだっただろうか。解決しそうにもない疑問が、泡のように次々と沸いて出た。

私は未だ震える手で、床に落ちていた携帯を手繰る。大石くんとのやり取りを、最初から見直した。

どれがどうして嬉しかったとか、少しショックだったとか、その時の気持ちを思い起こす。師走祭の時に川中くんが撮ってくれた大石くんとのツーショット写真も見た。へんてこな構図、でもコロネを選んでくれて幸せだった。届けた時の笑顔はたぶんこの先忘れない。けれど、それでも。どうしてか今の心にはリンクしていかない。


いっそ消えてしまいたいと思った。携帯を床に投げ出す、目を閉じる。けれど、薄眼を開けたらそのままの私がいた。消えることさえ、許されないらしい。


次の日の朝は、当然のようにやってきた。

目覚めると私はきちんとベッドの中にいて、枕に頭を預けている。一瞬、昨日の出来事は夢だったのかと思った。けれど、身体を起こしたら、まだ頭が痛む。散々ひっくり返した床も、そのままだった。


少し覚束ない気のする足取りで部屋を出て、階段を下る。家の方には誰もいなかったから、店を覗くと、両親が揃って心配そうに、眉を寄せて近づいてきた。


「熱は下がったの」


お父さんが私の顔を覗き込む。私は、熱? と、考えもせずに聞き返した。


「高熱出して倒れたの覚えてない? 色んなもの滅茶苦茶にしちゃって。ベッドに運んだの誰だと思ってるの」


お母さんが代わりに答える。熱があったから、と聞いて、昨日の手足の震えや頭痛に少し納得がいった。


「うーん、風邪もらってくるほど出歩いてないのに」

「昨日出かけた時になにか貰ってきたんじゃないの」

「そんなその日にすぐかかるもの?」

「元からの勉強疲れもあったのかもしれないね。根を詰めすぎて、試験受けられなかったら元も子もない。とりあえず、ゆっくり休みなさい」


お母さんが私の肩を軽く叩く。

私は言われたとおりに、部屋へ戻った。ひとまず雑然とした床を、底が見える程度には片付ける。終わってからは、なにもせず静養に努めた。いつもは、とりあえず開いている単語帳も手に取らない。考えごとをしないため、ベッドの中で寝返りだけを何度か打った。


しかし、次の日も体調は戻らなかった。そのまま始業式の日を迎える。私は、欠席をした。いよいよ逃げるところまで逃げてきたな、と思った。ここまでくれば、恥ではあっても役には立ちそうもない。



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