第29話 釈然としない(4)
四
次の日から、私は家に引きこもりになった。
なになら、ほとんど部屋からも出ない。起きたら顔だけ洗って、髪もとかさず寝間着のまま部屋に戻る。大抵は机に向かって参考書を開いて、疲れたらベッドに転がり携帯を眺めたり、クローゼットの奥から引っ張り出してきた漫画を読んだり。ご飯どき以外は、ずっと部屋でそうしていた。
特別に気が滅入ったとか、体調を崩したとか、そういう理由があったわけじゃない。妹が恋愛相談をしてきたら前のめりで乗ったし、動いていないくせになぜかいつもよりお腹が空いて、むしろ余分に間食をしてしまったくらいだ。
ただ、大寒波の到来だとかで外がかなり冷え込んでいて暖房の効いた部屋から離れられなかった。その上、わざわざ行くような場所もなかった。一度逃げ出してしまったことは、思う以上に後を引いていた。あれから一度も、公民館には行っていない。
なにも、やましいことがあるわけじゃない。何度考えてみてもそうだった。ばーゆも、川中くんも、私だって、なにか悪いことをしているわけじゃない。
どこにも当たり前にある、少しの壁に隔てられてしまっただけのことだ。それは時間や感情、そういうものの少しのズレで、日々のように作り出される。いつもなら軽く飛び越えられてしまうそれが、たまたま大きかったにすぎない。
一度思い切って踏み越えてしまえば、どうにでもなるだろうと思った。川中くんはともかく、ばーゆは聞けばきっと話してくれる。しかし、そうは分かっていても、足は向かなかった。
なにせ外は寒いのだ。髪だって整えていない。しかも、寝間着のまま。そんな理由を探してきては、結局自分の部屋にいる。
平気なふりをして、見つけてしまった壁を踏み越えるのが、本当は怖いのかもしれなかった。あぁ世界のばかやろう。全部全部壊して、割って、潰して、君の道を行け。
コンポにさしたイヤホンから、何度も聴いて小さく口ずさむ。私の道はどこにあって、なにを壊せばいいのか、分からないけれど、今もこの歌は私の気持ちを代弁してくれていた。学校で歌うことはなくなっても、好きなのは変わらない。最近、同じバンドが新曲を出した。昔の曲も多く収録されたアルバムで、少し値段は張ったけれど、発売当日に店まで走って手に入れて以来、ヘビーローテだ。もう何度も、印字の剥げてしまった再生ボタンに指をかけた。
一日というのはこんなに長かったか、と思った。寝ても過ごしても、時間が経たない。けれど、一日の終わりに予定帳を開けば、受験はもうすぐそこで、日々たしかに足音を高くして近づいてきていた。だから、途方もなく思える時間の大半を、一応は机に向かって過ごした。
一度だけ、学校には行った。その日も家にいるつもりだったのだけど、来客があるとかでお母さんに追い出されたのだ。どうせならロッカーに置き勉したままにしていた参考書を取りに行こうと思って、あの急な坂道を上った。あわよくば、と考えたけれど、大石くんには会えなかった。人のいない図書室についてからメッセージを送ってみたら、昨日ならいたんだけど、と返事がある。どうせなら昨日追い出してくれたらよかったのに、と少しお母さんを恨んだ。
年越しも、そのまま自室で迎えた。去年は夜中に、初詣だ、新年だ、とばーゆやつばきと出かけて行ったけれど、今年は連絡もしなかった。確たる理由はない、気分だ。なんとなく。強いていうなら、今日くらいいいや、と勉強をさぼって見ていた大晦日特番が、その唄う文句ほどは面白くなくて、その割に長いから疲れていた。早々に風呂を済ませ、ベッドに入る。
受験の年だ、年越しの瞬間くらい単語帳でも見ていようと思って、いつの間にか寝ていた。朝起きたら、枕の代わり単語帳に顔を押し付けていて、鏡を見に行くと頬下に「certain」とくっきり文字写りをしていた。寝起きの妹の、正真正銘の初大笑いをさらった。
化粧もしていないけれど、クレンジングですすぐ。なにやってるんだろう、とここ最近では何度目か言葉が漏れた。
むしろ、なんにも「たしか」ではない。不透明で、気分次第で、なんとなく。そればかりだ。甘い匂いが垂れこめ、床からさえ砂糖が匂い立つリビングで、ぼーっと駅伝を見ながらそう思う。
店は、元旦も休まず営業している。他の店が休んでいるからこそ、むしろ書き入れ時なのだ、と昨日お父さんが息巻いていた。たしかに、いつもより聞こえてくる足音や声量が多いから、本当にそうなのだろう。こんな日まで、よくやるものだ。
触発されたわけではないけれど、私もそろそろ勉強始めにしようと思って、テレビを消す。今年も、最後まで見なかった。毎年、三区のランナーが走っているあたりでやめてしまう。とくに贔屓のチームもないから、見る理由もないのだけど。
湯呑みに温かいお茶だけ注いで、部屋への階段を上る。その途中で、都合悪くも玄関先から呼び鈴が鳴った。
「藍子ー、チャイム鳴ったから出て」
階上の、妹の部屋に向かって呼びかける。しかし、反応はなかった。もう遊びに出かけていったらしい。こんなに寒いのに、元気のいいものだ。
宅配便かなにかだろうか。ともかく、湯呑みを持ったままで迎えるわけにはいかない。私自身の世間体もそうだけれど、パン屋の子としてのイメージにも関わる。部屋に置いてから、判子を持って玄関の扉を開けたら、
「……どうしたの、急に来るなんて」
「たまたま近く通りかかったから、寄っていこうと思ったの。都合どう?」
つばきがいた。
藍色のロングコートに白のマフラー、シンプルな装いだったのが、制服より垢抜けて見えて、本当に一瞬どこかのモデルかと思った。
「大丈夫だけど……」
「まぁその格好じゃあ出かける用事はないみたいだね」
言われてはっと、我が身を見る。古しの寝間着に、手元のはんこ、生活感がにじみ出ていた。そして、みすぼらしい。目の前につばきがいるだけに、余計だった。
だから、部屋に招き入れてから、すぐに着替える。髪も櫛で気持ち丁寧めにといで、ちょっとコロンを振った。逆に「そこまでしなくてもいいのに」とくすり笑われた。
「ごめんね、くつろいでたとこ急に押しかけちゃって」
ようやくいつもの座布団の上に腰を落ち着けてから、つばきが改まる。
家族以外の誰かと話すのは、一週間ぶりくらいだった。とっくに知った仲でも、少し話しにくいような感じがあって喉を鳴らしてから返事をする。
「いいよ、もう分かったと思うけど予定はなかったし。つばきは、駅前に用事でもあったの?」
「うん、って言っても大したところに行ってたわけでもないんだけどね。スーパーにお使い頼まれたの」
つばきが座布団の横に置いた袋からは、卵にベーコン、それからチーズがのぞく。献立の想像は易かった。
「なに、カルボでもするの?」
「そうみたい。おせちも食べてないのに、もう和食は飽きたんだーってお母さんが言うの。まだ年越しそばと雑煮ぐらいしか食べてないんだけど」
「あはは……反動がすごいね、逆まで振り切ってる」
「全く、付き合わされる私の身にもなってほしいよ。でもどうせなら、パンも買って帰ったら喜ぶかな」
「まぁたしかに、菓子パンも和食の反対だし?」
「そうだね、じゃあ買っていく。あとそうだ、今は川中くんところのパンも置いてあるでしょ。明太もちチーズ! あれも絶対買って帰らなきゃ」
つばきの言葉に、熱がこもる。普段は遠いのがネックで、とぼやきが続いた。
久しく店に出ていなかったから、すっかり忘れていた。今は、川中くんの家のパンも置いているのだっけ。
「後で店の方覗いていくね」
「……あ、うん」
思わぬところで、名前が出てきた。あの日、逃げ出した時の苦さがよぎって、ちょっと間返事が遅れる。
「きっと喜ぶよ。でも、買うなんて言ったら、いらないくらいパン貰えると思うけど」
それは困る、とつぼきは笑った。でも、それだけ食べても太りはしないのだろうな、と座布団の上の細くしなやかな足を見てぼんやり思っていたら
「にしても、元気そうで安心したよ」
つばきが安堵の表情を浮かべて、ほっと小さく息を吐く。本当に分からないで、なにがと聞き返したら、むすっと顔をしかめて
「なにが、じゃないよ。メッセージ送っても返ってこないし、既読にもならないから心配してたの」こう咎められた。
「そんなに返してなかったかな」
「うん。昨日の夜なんか電話かけたんだよ?」
「ほんと? 見てないや」
私は慌ててベッド下、コンセントに繋いだままだったスマホを取ってくる。つばきからの着信とメッセージが数件、ばーゆやクラスメイトからも何度かスライドしても見切れないくらいには、通知が溜まっていた。
「あー……ごめん、昨日はテレビ見てからすぐ寝ちゃった」
「ううん、いいんだけど。いつもならすぐに返事あるから、受験ブルーになったんじゃないかって心配した」
「そんなマリッジブルーみたいなのあるの」
「うん。特に今ぐらいの時期に多いみたい。もう少しで受験なのに、点数が上がらないとか、気になりだしたら生活とか他のことまで憂鬱になるらしいよ」
「……へぇ。たしかに、それはあるかも? 受験ブルーねぇ」
口に出してみる。
私のこの釈然としない感覚もその類が成したものなのだろうか、そう少し思いを遣っていると、不意につばきが私の頭に手をやってくる。、目を洗われる思いでいると、そのまま二、三度撫でられた。
「なに、どうしたの」
「結衣なら大丈夫だよ」
「なにが?」
「変に悩まなくても大丈夫、困ったら悩んだら少しは頼ってよ」
優しい声音だった。なおもつばきは私の頭を撫で続ける。
これは、よっぽど気を揉ませてしまっていたみたいだ。さらりと、今みたいな台詞を言えるのがつばきらしい。恥ずかしかったけれど、素直に受けて、ありがとうと短く伝えた。つばきは、満足そうにちょっと笑む。それから、ようやっと手を離して言った。
「本当はね、結衣が心配で来たんだ」
「どういうこと?」
「お使いの方がついで、ってこと。最初から結衣に会おうと思って来たの。今日は来れなかったけど、ばーゆも心配してたよ。全然会ってないらしいね」
「……うん、最近はずっと家にいるから」
他にも理由があるから、声は控えめにした。
「あと、川中くんも」
「へ?」
それがくるりとひっくり返る。思わぬほど、ひょうきんな声が出た。なぜなら、私にはなんの連絡もなかった。今通知を見ても、明けましておめでとうの一言さえ。
「私に連絡きたの。公民館に来ないから、どうしてるか知らないか、って」
「……それで?」
「知らないって言ったら、それから話逸れちゃった」
「そっか。川中くんとよくラインするの?」
「え、うん、たまに。ちょくちょく送り返したりしなかったりしつつ続いてる、って感じ?」
なるほど、おかしいと思った。
たぶん、つばきと話したくて、私を会話の種にしたのだろう。ちょっと腹が立つ。けれど、そのいじましい努力は私にもよく分かった。私も、大石くんと話すことがなかったら、川中くんの話をすることが結構ある。残念ながら、意にも介されていないようだけど。私と同じだ、そう思うとむしろ好意的にすら思えた。
私も、川中くんも、これだけ釣り合わない人を相手にしているのだから大変だ。
「とにかく、ちゃんと連絡してあげなよ。今夜にでも」
「わかったよ、ごめんね心配ばっかりかけて」
「いいの、むしろ急に来たのに上げてくれてありがとう。代わりに勉強みようか? でも、もう結衣の方ができるかな」
「ううん、お願いする。でも、一旦それうちの冷蔵庫入れよっか? 腐っても困るし」
私は、重さのせいか持ち手の少し縒れたスーパーの袋をさす。つばきがお願い、と言うので階段を下っていて気づいた。
「ねぇスーパーの方がついでだったら、帰りに行ったらよかったんじゃない?」
あ、とつばきの目が大きく開く瞬間を見る。年が変わっても、つばきはそのままだ。私の新年初大笑いは、つばきに攫われた。
♢
なんていい友達を持ったのだろう、と思った。気にかけてくれてその上、世話まで焼いてくれる。自分で精一杯な私には、もったいないくらいだ。そしてそれはつばきだけじゃなく、ばーゆもそうだった。
その日の夜、私はばーゆに電話をかけた。心のどこかに、後ろ暗さがないわけじゃなかった。それでも、ばーゆにはきちんと連絡を入れなければいけないと思った。
逃げたって、どうせ学校に行けば会う。その時にいつも通り接するためには、昔の話だって、いつかは聞かなければいけないのだ。ならば早い方がいい、それに、つばきがわざわざ卵片手に背中を押してくれた。
繋がってまず、ごめん、と謝る。それから、ありがとうと伝えた。久々に聞いたばーゆの声は、なぜか少し安心させられた。
「今日の結衣、つばきみたい」
「どうして」
「普段そんな真面目そうに話しないじゃん?」
「たまにはするよ。でも、さっきまで会ってたから、ちょっとうつっちゃったのかも?」
「そっか、つばき行ってたんだ。いいなぁ、私も行きたかった」
「また今度来たらいいよ」
ばーゆは親戚の家にでもいるのだろう。後ろでは、幼い子どもがわんやと叫んでいた。
ちょっと声が遠くなったと思ったら、ばーゆが静かに、と諭すのが聞こえる。いつもとは違う、年上らしい姿を垣間見た気がした。どれだけ仲が良くても、知らないことなんていくらもあるなとぼんやり思った。
「お姉ちゃんやってるね」
「ほんと。可愛いんだけど、手焼かれる~。藍子ちゃんくらいの年齢だったらよかったのに。今日もさぁ」
ばーゆが面白おかしく、親戚の子どもの話を始める。それはやがて、別の話に飛んだ。ここのところ会っていなかったから、積もる話がばーゆにはたくさんあったのだろう。
私はそれを聞きつつも、一方でいつ話を切り出そうかとタイミングを計った。気持ちを固めたつもりだったのだけど、いざとなるとやっぱり思い切りがいる。
「川中がこの間公民館の入り口で躓いててさぁ。だるそうにして、なにもなかった風にごまかしてたのがまたダサくて」
迷っていると、ちょうど話に名前が出てきた。勢い込んで聞こうとしたら、
「あのさ、この間噂で聞いたんだけど」
「あ。もしかして、川中と私が付き合ってたって話?」
「……えっと、うん」
「あれ、誰が言ったんだろう。でも、本当だよ、中学生の時にね」
なんのことはなく言われた。
毒気を抜かれた。あんまりなにごともなく言うから、冗談を聞いていた時と同じ調子でそうなんだと応じてしまう。
「私から告白したんだー。クラスメイトで、仲も良かったから」
うん、と。
「でもね、なんにもしないうちに別れちゃった。手繋いだのがやっとなぐらい。それ以降は全然話してなかったから、川中と結衣が知り合いだって聞いたときは本当驚いたよ」
へぇ、と。
「言ってなくてごめん。まぁなんかあんまり、そういうのって喜んで話すものじゃないじゃん?」
うん。
「しかもね、未練というか後悔もあったから話しにくくて。一応、初恋だったの。夏の日の放課後にね、たまたま一回帰り道が一緒になって────」
そうなの。
短い相槌さえ言葉になったのかならなかったのか、私はばーゆが昔語りするのを、ただスマホに耳を当てて聞いた。
電話口の奥の、表情が浮かんでこない。二人して大石くんにきゃあきゃあと騒いでいた時や、少し前に別れた社会人彼氏の話をしていた時とも雰囲気が違った。言葉はいつも通り軽くても、確かに別の息遣いを感じる。いくつの恋を知った大人のようで、でも漠然と恋に夢見る少女のようで。
ここにも、私の知らない彼女がいた。そしてそれをたぶん、川中くんは知っている。逆もそうだ。私はどちらも知らない。
「あいつ、気だるそうにしてるけど、結局いい奴だよね。たぶんそういうところが好きになったんだと思う。あー……もしかしたら、今も、なのかもしれない」
それに気を取られていたからか、話の流れや声から薄々感じていたか、普通ならもっと驚いても良さそうな告白だったけれど、さほどの衝撃はなかった。
「なんだ、そういうことなの。言ってくれたら協力したのに」
話の最後に、やっとまともな言葉を返す。
「いいの、別に。ってか、私もつばきみたいになっちゃったな。色々喋っちゃった」
「ほんと、よく人のこと言ったよ」
「ごめんごめん、つばきみたいにいつもは言わないから許してよ」
電話が切れてから、妙なほど疲れを覚えた私はベッドにうつ伏せで倒れこむ。枕が頭の形に沈み込んで、埃が少しだけ舞った。
ばーゆは、やっぱり話してくれた。私が聞かずとも、昔のことだけじゃなく今の気持ちまで。これで靄は晴れるはずだった。だのに、深い白霧はかかったまま消えていなかった。
むしろ、なにが原因かさえ振り出しだ。
あぁ釈然としない。
仰向けに身体を返して、天井に向かって大きなため息を吐く。暖房を切っていたからか、家の中なのに白くけぶった。
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