第28話 釈然としない(3)
三
たぶん、なにも言ってくれなかったことが不満だったのだ。
あてのなくなった道を歩きながら、逃げ出した理由を考えたら、それしかなかった。たぶん、二人に除け者にされたように、どこかで感じていたのだろう。わざわざ昔の話をしないだけで、あえて隠されているのじゃない。分かっていても、結局はそれが不満だったのだ。
どうせならあんな噂を聞かなければよかった。いつかニュースで見た不倫騒動と一緒だ。知らなければ、どうということはなかったのに。関係のない誰かが、面白がって教えてくれる。その誰かは、それで傷つく人がいようなど考えもしない無関係な誰かだ。
小さなため息がマフラーに烟る。もわっと白いそれは、上ってきて乾燥した髪を湿らせた。
このまま帰ろうかと思った。すぐに帰ると、お母さんが不思議に思うかもしれない。けれど、寒さに伸ばしたセーターの裾下で指はかじかみ、ローファーの中では足先の感覚も薄れていた。こうなると、スマホを手に取るのも億劫になる。
晴れているのに、これだ。今年はいつもに増して寒いらしい。エルニーニョ現象とか、そういう奴で。とにかく無駄な道草は食いたくない。そう思っていたら、ちょうど通りがかりの自販機が目に入った。飲み物を買いに行ったことにしたらいいか、と思って立ち止まる。手袋を外してコインを入れた。この気候だ、もうあたたかい飲み物ばかりが並んでいる。
カフェオレか、コーンポタージュかココアか。飲みたいものが特別にあったわけじゃないから、幅も狭められず迷う。ココアにしようとボタンを押したら、まさかの時間切れ。コインが返ってくる乾いた音がカラカラと鳴った。
ため息ひとつで、コインを入れ直す。また少し迷って、えいと三つ同時に押したらコンポタージュが出てきた。温かさを冷えた両手に伝えるため、缶を袖で挟みこむ。そのまま頬にも当てた。
なんとなく、一人でいたかった。
商店街を通ると、色んな人に声をかけられてしまう。きっちゃんとも今は話したくなかった。だから、少し遠回りをすることにした。裏路地を入っていって、住宅街を縫うような狭い道を歩いていく。滅多に通らないような場所だ、方向を確かめながら進んでいると、たまたま見慣れた通学路に突き当たった。古ぼけた自販機の下で、いつか見た猫たちが身を寄せ合い戯れる。私の姿に気づくと、塊のまま逃げていった。
なんにもしないのに。言ってもしょうがない。そのまま猫が去っていった、学校のある方角を見る。
図書館に行けば勉強できるかな、とふと思った。家に戻ろうと思っていたけれど、なにせ勉強が捗らない。ちょっと妹が騒ぐ音さえ聞こえてくるし、妨げになる誘惑も多い。それに、ちょうど制服で来ていた。
もう冬休みだ、年が明けたらすぐに登校日が終わって、あとは数日いったら卒業式。少し前に、そう考えたことを思い出す。そうしたら、足が向いた。一回くらい坂を上る回数が増えてもいい。気まぐれで、険しい獣道を登ることにする。愛想の悪い猫に誘われて道を決めるなんて、猫の恩返しみたいだと思った。
坂を上りきると、校門は開いていた。グラウンドからは下級生が部活に打ち込む声が聞こえて、部活は休みの間もあるんだった、と当たり前のことを思った。校舎に入ると、今度は吹奏楽の音がする。練習中なのだろう、途中で何度も止まって、同じフレーズを繰り返していた。なにが良くて悪いのかは、さっぱり分からない。聞きながら、下駄箱で靴を履き替える。人が少ないからだろう、いつもより静かに思える職員室前廊下を図書室へ渡った。
戸を引くと、からから音が鳴る。ここも開いていた。図書室特有の、埃と古い紙の酸っぱい匂いが鼻をつく。
見る限り、他に人は見当たらなかった。それでも、開けた場所はどうもしっくりとこなくて、立ち並ぶ本棚の間に、一人用の席を見つける。そこに腰を落ち着けて、首をもたげた。天井の防音用の穴をぼうっと見ていたら、なにやってるんだろうと独り言が、胸に渦巻いていた言い知れない気分に押し出されて漏れた。
息を吸って、止めて、大きく吐く。気を入れ替えるつもりだった、けれどうまくいかない。結局、もやもやとしたまま勉強道具を取り出そうとして、リュックの中に見つける。
このクッキーはどうしようか、甘いものは苦手だ。それでなくても、自分で食べる気がしない。さっき遭った猫にでもあげればよかった。そうしたら、少しは構ってくれたかもしれない。しばらく見つめてから、仕様のないことに気づいて、リュックを椅子の背に掛け戻す。後ろを向いた時に、棚の奥へと進んでいく人影を見つけた。気づかなかっただけで、他にも人がいたらしい。
休日、それもクリスマスに図書室だなんて、物好きもいるものだ、私もだけど。そう思いつつ体勢を戻して、英単語帳を開いたところで、ブレザーの肩先を叩かれた。
「やっぱり、そのキーホルダーどっかで見たなぁと思ったんだよ」
その物好きは、大石くんだった。つい、え、と声が漏れた。昨日から偶然が続く。
「なんでいるの、勉強しにきたの?」
「本を読むのと、勉強と、どっちもかな。たまに来るんだよ。渡辺さんは? 公民館に行ってるもんだと思ってたけど」
「あぁうん。今日はえっと、つばきが──」
どう言い訳しようか、考えるまでもなく咄嗟に、つばきの名前が口をついた。
「つばきと一緒にここで勉強しよう、って言ってたんだ。来れなくなっちゃったけど」
「そうか。それで、わざわざ一人で坂道のぼってきたの」
「うん、ってそれは大石くんもじゃん?」
二人の名前は、口にしたくないような気分だった。大石くんはそんな嘘を分かってかどうか、それ以上は聞いてこなかった。
「でも、昨日新年の挨拶したのに、もう会っちゃったな。昨日の言葉は取り消すよ。それは、また今度にしようか。あぁそうだ」
「メリークリスマス、でしょ?」
「そう、メリークリスマス。今日はまだ誰にも言ってなかったから、言えてよかったよ」
「そうなの? というか、大石くん彼女とかいないの」
「いないな、じゃなかったらこんな日に一人で学校にこない」
もしかすると、またとないチャンスが、訪れているのかもしれなかった。
いつもなら、今頃胸が張り裂けそうなほど鳴っているだろうに、今日は緊張と沈んだ心とが入り混じっていた。その二つが浮きのように、心の水面で絶妙な平衡を保っていて、不安定なはずなのに妙なほど落ち着けている。
「あのさ。クッキー焼いたんだけど、食べない?」
だから、案外すんなりと言葉は出てきた。私はかばんから、クッキーの入った小袋を取り出す。まさか大石くんにあげるなんて思っていなかったから、リボンの一つも飾っていない。
大石くんが貰ってくれれば、なにより報われると思った。そもそも、大石くんの言葉で気分が乗って作ったのだ。
「なに、かなり凝ってるな。手作り?」
「うん。受験生でも、ちょっとくらいクリスマス祝いたいなと思って、昨日焼いたんだ。……えっと、つばきにあげようと思ってたんだけど。捨てるのも、自分で食べるのもなんだから」
「たしかに、折角作ったんだもんな」
「うん。だから、本当気にせず貰ってよ」
「ありがとう。でも、とりあえず場所変えない?」
「え、どうして」
「んー、ここ一応図書室だから」
そうだった。あまりに普通に喋りすぎた。はっと気づいて私は口をつぐみ、口元を手で覆う。それを見た大石くんは「誰もいないけどな」と少し頬を緩めて笑った。その横顔の端正さに見惚れながら、後ろについて図書室を出た。
どこに行くの、とは聞けど、「すぐ分かるよ」と教えてくれないまま歩く。予想もせず、別棟に立ち入った。私はなぜか少し尻込みたくなる感じを覚えつつも、数ヶ月ぶりに踏み入る。
あの頃と変わらず、しんとしていた。そして、ずっと寒かった。先を歩く大石くんのちょっとの足音が響いて、私のと重なる。それは少しずれていて、こそばゆい感じを覚えていたら、大石くんがつと空き教室の前で立ち止まった。
「ここ鍵かかってないんだ、いつも」
そう言って戸を引くと、本当に開く。中は広い教室の真ん中に机と椅子が二組、向かい合わせに置かれてあるだけだった。
「この机……もしかして、大石くんが使うため?」
「いいや、違うよ。そこまで私用に使えない。普段は将棋部かなにかの部室だと思う。確かめてはないけど」
「二人しかいないのかな」
「そうみたい。ともかく、休みの日に来たらたまに使わせてもらってる。秋なら中庭でもいいけど、冬は寒いから」
慣れたように大石くんは奥の準備室らしい場所から、古そうな電気ヒーターを引っ張ってくる。私は勝手が分からず、立ったままそれを見ていた。
電源が入ったことを確かめると、
「自販機でも行こうか。貰うだけじゃ悪いから、飲み物ぐらい奢るよ」
大石くんは私を振り返ってそう言った。
「いいよ。さっきも言ったけど、そんな大層なものじゃないの。それに」
「それに?」
私は手を温めるだけで、口を切っていなかったコンポタージュの缶をポケットから取り出す。すっかりぬるくはなってはいたが、まだほんのり温かかった。
「はは、やけに準備がいいな」
「ほんとたまたまだよ。寒かったから、カイロがわりについ買っちゃった。手先、足先、もう冷えすぎて」
「あぁそういうことなら」
大石くんはそう言うと、かばんを探り小さなカイロを私に差し出す。
「よかったら使って。昨日駅前で配ってたチラシのおまけだけど、缶よりは長持ちするだろうから」
いいのに、と言っても大石くんは聞かないだろうなと思った。それに素直に嬉しかった。カイロ一つとはいえ、大石くんから貰えるのだ。それは、ネックレスや指輪と同じ、立派なクリスマスギフトといえる。
私は受け取って早速封を開けた。少しほぐしてから、ブレザーの内ポケットに入れる。胸がじわり温かくなっていくのを感じた。
クッキーは、好評だった。世辞かもしれないけれど、美味しいよと褒めてくれた。大石くんが私の手作りを貰ってくれて、目の前で食べてくれる。そんなに嬉しいことはなかった。これまでで考えても、飛び抜けて。
けれど、そんな余るほどの喜びと並んで、暗い気分も変わらず心の底には落ちていた。分離してしまったミルクティーみたく、二層になって。
「どうかした?」
大石くんが聞く。
私はなんでも、と首を振って、誤魔化そうと手元のコーンポタージュの缶を開ける。口をつけると、外から触るより中はずっと冷めていた。舌にざらっとした触りと冷たさが残る。
それは、あの薄いココアほどにやはり美味しいとは思えなかった。
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