釈然としない

第26話 釈然としない(1)


どうにも、釈然としない。


どうにも、だ。なにか特段に悪いことや、大きな悩みがあるのじゃない。けど、なぜか。すりガラスを通したみたく、心の内が不透明にぼやけている。


本当に、悪いことなどない。むしろ、渡辺結衣のこれまでの人生の中では、いいほうなくらい。


勉強面は、公民館での勉強の甲斐あってかここへきて成績が伸びて、最後の模試では志望校にC判定が出た。舞い上がってすぐにお母さんに報告したら、「まだ半分の合格率じゃない」と窘められたけれど、これまではE判定のオンパレードだったのだ。たとえ五十%、受かるかどうか一か八だとしても、それはついに見えた光明だった。

何回か受ければ、問題との巡り合わせが良ければ、引っかかるチャンスもあるということになる。自分でも手応えがあった。

それは点数自体もそうだけれど、なによりまだ伸び代があるという感覚。少しの勉強で、十点も二十点も今より取れそうな気がした。受験直前に点数の上がる子は受かる。先生が授業で言っていたことが、私になおさら自信とやる気を与えた。

とにかく、どこを向いてなにを目指しているのかすら怪しかった私の受験曲線は、ようやく正しい軌道に乗り始めていた。


恋愛面だって、少し前と比べたらずっといい。

相変わらず恋人は英単語帳だけれど(前より少し分かり合えるようになった)、たまには大石くんともメッセージのやり取りをする。

内容はたわいない、惰性で続いている師走祭の話とか今日の出来事とか。でもだからこそ、当たり前に会話を交わせるくらいの仲になれたような気がして、それがかなり嬉しい。

少し前までは遠巻きから見て憧れているだけだったのだ。何度メッセージが返ってきても、内容がどうであれその度に気分が高まる。一度メッセージを送ってから、しばらく勉強をして、休憩も兼ねて返信があるか確認する。それはもはや、家にいるときのルーティンになっていた。


学校生活は、別段にいいことはないけれど、ばーゆとつばきと変わらぬ日々を過ごしている。もう昼休みに別棟へ行くことはなくなって、その代わり本当に図書館に行くようになった。うるさいクラスメイトから逃れ、静かに勉強に取り組むことができている。


こうやってみると、受験ありきの生活に思えるけれど、受験生なのだからそれも悪いことじゃない。


じゃあなにが、私は釈然としないのだろう。この曇りの原因はなにだろう。


牛乳を切らしていてお湯で溶いた分、かなり薄味なココアと一緒に、そんな不透明な感覚を飲み下す。結局、少し残して家を出た。あまり美味しいものではなかった。


朝の空気が、ひんやりとして私を迎える。見上げた空が嘘みたく透き通っていたから、もう冬も本番だ。マフラーに顔を鼻まで埋めて、両手には手袋をはめた。学校までは、なかなかどうして距離がある。


商店街を、いつもの待ち合わせ場所まで歩く。どこの店舗も寒そうにしながら、開店への準備を進めていた。軽く挨拶をしながら過ぎていく。薬局の前で、ちょうど箒を掃いていたきっちゃんに呼び止められた。


「頑張りなよー、受験生ちゃん」


この言葉はもう何回目だろう、多少の言い回しこそ違えど、最近は顔を合わせる度

だ。だから、きっちゃんこそ、と言い返す。


「私? なにを?」

「仕事! あと、それから恋愛もね。私は結婚してあげないから」

「ち、ちょっと、あれは冗談だったんだってば」


きっちゃんは、少しうろたえてから、わざとらしく掃除を再開する。分かってるよ、と適当に受けて笑いながら薬局から離れた。彼女を見ていると、なにも受験が努力の終わりじゃないなと思う。

結婚はおろか、まだ彼氏候補すら見つかっていないらしい。最近は拗らせるところまで拗らせてしまって、この前は「結衣が男だったら求婚してたのに」なんて言っていた。女でよかった、と思った。

碁会所の大きなガラス張りの前には、既にばーゆもつばきも来ていた。新年号のファッション雑誌のノベルティが豪華だ、なんて話をしながら、路地裏を三年坂の入り口まで来たところで、つばきがふと立ち止まって言う。


「やっぱりいつ見ても、この坂道は急だね」

「ほんと。毎日通学するだけで足腰鍛えられちゃう、結構しんどいし」


私は、坂の上にある学校を見上げながら苦笑して返した。それにつばきが何度か頷く。さらりとしなやかそうな髪が揺れた。


「なんで学校って山の上に建てるんだろーね」


ばーゆは平気そうに、誰に向けるでもなく言う。元運動部だ、この坂を何度も走らされたに違いない。つばきはそれにちょっと考えてから、


「思い出作りのためじゃない?」


と素っ頓狂なことを言った。どういうこと、と二人揃って聞き返す。ハモったね、なんてちょっと笑ってから、つばきが答えた。


「通学する、って当たり前だし、退屈な時もあるけど、いつかはそんな時間も思い出になるってこと。ほらここも、あと数回しか上らないって思うと、なんかしみじみしちゃわない?」


それが存外にはっとするような話だったので、私とばーゆは顔を見合わせる。

言われてみれば、そうだ。一月のセンター試験が終われば、学校はもう休みに入る。そうなったら、あと登校するのは卒業式とその予行だけ、二学期の終業式までを考えても残りは両手で数えて足りるほど。


「……もう、つばき、そういうお涙ってのは卒業式まで取っといてよ。こっちまでしんみりしちゃう」


ばーゆが言う。


「ごめんごめん、思っちゃったから。ありがとうね、二人と一緒にそんな時間を過ごせてよかったよ」


それでも続いたつばきの気恥ずかしい台詞に、ばーゆは堪え切れなくなったようで、もういいから行くよ、と先に山道を上っていった。つばきは普段は抜けているくせして、こういうことを平気で言う。


「つばきってば、感傷に浸るの早い」

「でもそうじゃない? 私は二人のおかげで楽しかったから」

「そりゃ私もそうだけどさぁ」

「ねぇ結衣」

「なに?」

「今日から弁当一緒に食べない? それも残り少ないし」


そうか、それも。当たり前のように三人で過ごしているけれど、こんな時間も残りわずかだ。進路はてんでんでばらばらだから。


「うん、分かった」


私の返事を聞いて、つばきは花が春にほころぶようにちょっと笑った。整いすぎて作り物みたい、と思っていたら、


「…………あ、待った、今日弁当じゃない日だった」

「もう、そんなことだと思った。なら三人で食堂で食べよう」


やっぱりつばきは、つばきだった。作り物の造花じゃなくて、ちゃんと生きた、本物の可憐な椿だ。


「ありがと。ばーゆ追いかけようか、たぶん途中で待ってくれてるよ」

「そうだね」


私は薄いローファーで、整備のされていないコンクリートを蹴って上った。

約束の通り、昼休みは三人で食堂に行って昼ごはんを食べた。久しぶりに勉強のことを考えないで過ごす昼休みは、息抜きになるいい時間だった。一応ブレザーのポケットには、英単語帳を入れていたけれど、結局一度も開かなかった。最近は彼氏というより、携帯必須のICOCAみたくなっている。



放課後は、いつものごとく公民館に足を向けた。私は秋口からずっとだけれど、最近はばーゆも一緒に来る。なんでも、進学先の調理学校から事前課題が出たらしい。それも、英語や国語といった調理自体には関係ない普通の科目、一人だとどうにもサボってしまうから、強制的に勉強する空間にいたいそうだ。着くと、もう川中くんがいて黙々と過去問題集に取り組んでいた。なにも声をかけず、前に座る。私とばーゆも、大人しく自分の教材を開いた。

もう受験も迫るところまで迫っている、少し前までならすぐに喋り出していただろうが、今では真面目になった。普段は舌がよく回るばーゆも、ちゃんとそういう空気は読める。私と川中くんのような真剣さはないけれど、不必要に話しかけてくることはしない。集中が切れたら、一人でスマホを見るなりしている。


話すのは、お互いのタイミングが合った時だけだ。問題を解き終えたり、暗記をし終えて次のページをめくる途中、そういう時にふっと間が合う。


「今日はなにやってるの?」

「生物。今さらだけど、もう覚えてないことが多すぎて、大変だ」

「生物かぁ、私もうミトコンドリアぐらいしか覚えてない」

「…………えらくピンポイントだな、たしかに記憶に残るけど。渡辺さんは?」


それで、会話が始まる。少しの休憩時間だ。そうして私たちが喋ったのをみると、ばーゆも口を開く。ようやく話せるのがよほど嬉しかったのか、少し口角が上がっていた。


「結衣は、古典だよ」

「そう、何段活用何系ってやつ」


あぁあれ、と川中くんが渋そうな顔で首を縦に振った。同じく苦手なようだ。


「それねぇ、毎回定期テスト前は全部覚えるんだけどなぁ。終わったらもうすぐ忘れてる、全部」


スマホを閉じながら、ばーゆが言う。


「そこまでいくと、むしろ時間もったいなくない?」


それに川中くんが返した。ここから、二人でのやりとりが始まる。


「分かってるけど、分かっててもできないことってあるじゃん」

「……というか、小林はちゃんとやってるの、それ」

「え、課題のこと? やってるよ。ただ全然分からなくて、スマホで解説調べて気づいたら通販サイトに」

「……やってないって言うんだよ、そういうの。どこ、分かる範囲なら教えるけど」


私は身を引いて、しばし二人の会話する様子を見守る。こうして見ていると、あの噂(・)は本当なのだろうなと思った。


「ほんと? 助かる~。川中進化したね、ろくに夏休みの宿題も出してなかったくせに」

「やっぱり教えない」

「ごめんってば。冗談だって、いいじゃん昔のことなんだから」


二人は、昔付き合っていたらしい。

クラスメイトがひそひそと噂話しているのを小耳に挟んでしまった。いけない、と思いつつも聞いた話によれば、中学生の頃に数ヶ月、ばーゆから告白したという。

直接聞いたことはなかった。たぶん、故意に隠しているのではなくて、わざわざ昔の恋愛話をしないだけのことだと思う。私だってその立場なら、たぶん言っていない。


「黙ってどうしたの」川中くんが喋らない私に気づいて聞く。

「え、ううん、ちょっとぼーっとしてた」

「渡辺さん、ちょっとは集中できるようになったと思ってたのに」

「川中くんも喋ってるんだから変わらないじゃん」


少しいらっとして、売り言葉を買った。

またいつもの言い合いだ、それをばーゆが制して、ちょっとしたら落ち着いた。受験が近づいても、根本はあまり変わっていないのかもしれない。


公民館には、閉館時間までいた。館長が鍵を閉めるタイミングで一緒に外へ出て、それから三人話をしつつ夜道を商店街の方まで歩く。これも、このところの定番。

アーケードの入り口につく。ここからはそれぞれ別方向だ。けれど、大体は少し止まって立ち話をする。


「ここはクリスマスって感じが全くしないね。ちょっと都会に出たら、もっとキラキラ、カラフルなのに」


ばーゆが、残念とも安堵ともつかぬ顔で言う。その視線の先は既にほとんどシャッターの降りた商店街。


「イルミネーションとかそういうこと?」

「そうそう。結衣、絶対気に入ると思うんだけどなぁ」


私はそうかな、なんて言いつつばーゆにならう。


アーケードにはツリーも電飾もなにもない。まさしく普段どおり、平常運転。なんなら、もう〆縄を飾って大晦日、正月の売り出しをしている店もある。


「たぶんここでクリスマスやっても仕方ないんだよ。ただ電気代の無駄使いだろ」


川中くんがあっさりと言ったのに、私は何度か頷く。それは商店街の当事者が一番分かっている。一応、私の家では毎年クリスマス時期限定の菓子パンを扱っているけれど、街を挙げて、というのはない。


「そういうもの? まぁ今の私にとってはありがたいんだけどさ。あんまりキラキラされると目に障る~」


ばーゆは、ほんの数日前にあの社会人の彼氏と別れた。

価値観の違いや、単に冷めたことが原因らしい。あんなにクリスマス楽しみにしてたのに、と言ってやったらまた拗ねていた。二人はクリスマス予定あるの、とばーゆが重ねて聞く。川中くんはかぶりを振って、私も同じようにした。


「なんだ、一人ばっかり」


気が楽になったように、ばーゆは軽く笑った。

本当を言うと、クリスマスが近いということさえ忘れていた。それだけ今の日々が充実している、ということだろうか。

家に帰ったら、もう十時を回っていた。夜にあまり食べると、すぐに太ももに反映される。茶碗に小盛りだけ米をよそって、作り置かれていたおかずを少し食べる程度に抑えた。

お父さんに、「余りもののパンあるけど」と声をかけられたが当然断った。こんな時間に甘いパンはありえない。なんとなく風呂で半身浴をしたら、その日はもうベッドに向かった。枕元に持ってきた英単語帳をぱらぱらとめくって今日の復習をしてから、電気を消す。最後にスマホを確認したら、大石くんからメッセージがあった。いそいそと返信をして、枕に頭を預けた。


やっぱり、どう考えても悪いことなどない。もう考えないようにしよう、そう思って、ひとつ深い息を吐いてから目を閉じた。


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