第25話 テニスボールと海と錆(11)
十一
こうして幕を開けた師走祭は、祭のためにかけた多くの時間を凝縮したかのように濃く短く過ぎていった。
やはり二項対立を煽ったのがよかったのだろうか。想像していたよりずっと速いペースでパンは売れていき、その分売上が立っていく。それは去年単独店舗でやっていた時より、ずっと多い。勝負はというと、ほぼ互角の展開だった。惣菜パンのあとの、菓子パン。一緒に買っていく需要も相当数あって、一方に傾くかと思ったら、もう一方がすぐに追いつく。
パン屋にはなりたくない二人だけれど、真の目的は違う二人だけれど、お互いやるからには負けたくなくもあった。少し売っては、都度張り合う。思えば出会ってからずっとこの調子だ。普段はそういう争いに無頓着な俺でも、渡辺さんが相手となるとなぜかつい対抗してしまう。クラスメイトから知人友人まで総動員だ。甲子園に出なくても、祭に店を出すだけで知り合いは増えるらしい。
高菜バターデニッシュは、中でも飛び抜けて好評だった。やはり祭り気分だ。興味本位で買う人が多くいて、その一部には虜になったのか何度も買いに来るリピーターもいた。予定より巻いて、追加で焼き増したほどである。人が噂を飛ばし人を呼ぶ。おかげで、午前中はほとんど列が絶えなかった。
「ごめん、遅くなった」
葵がやってきたのは、それがようやく落ち着き始めた昼過ぎだった。
『リビエール・パーミ』と母の手縫いで(しかもカタカナで)綴られたエプロンを着て、腰を屈めながらパンケースの乗った台車を押す。その端正な顔立ちとしみったれた風貌とのギャップで、多くの衆目を集めながら爽やかに笑顔を振りまいていた。どうやったらその状況で笑えるのか、凄いを通り越して呆れる。
「……その格好、どうしたんだよ」
「あぁ、おばさんに頼まれて。どうだ、中々似合ってるだろ」
「そ、そうか? まぁ葵がそう思うなら別にいいけど」
「じゃあ問題ないな。そんなことより、進捗はどうだ?」
そう葵が聞いたのに、
「かなりいい感じだよ。でも、まだあんまり差はついてないかな」
良太が後方の休憩席から答える。それから、差し入れにと親父から貰った九条ねぎチキンパンに豪快にかじりついていた。
「今はちょっと私たちのが多いよ!」
渡辺さんが列の乱れたパンを整理しながら、得意げそうに加える。喜色満面というにぴったりの表情をしていた。
「誤差だろ、誤差」
「でも勝ってるのは勝ってるの! 川中くん負け惜しみは醜いよー?」
「そこまで惜しんでないっての」
「はいはい、競り合うならパンでね。大石くんもどれか買っていってよ」
毎度生産性のない争いを、小林悠里が文字通り間に割ってきて仲裁する。
「ちなみに、私はもちチーズにしたよ。これやっぱり好きだなぁ」
吉良さんがその後ろから言った。その手には、幾分か小さくなったもちチーズ明太が握られている。昼ごはんに、とつい少し前に買ってくれたのだ。小さく千切って、桃色に潤んだ唇の奥へしまうように食べる様に見入る。
つい口角が上がり、目元が綻んでしまった。褒められたのも、好きという言葉が与えられたのもパン。分かってはいても、だ。二つ隣になった渡辺さんに、容赦なく頭を叩かれた。葵はそんな寸劇には目もやらず、「それもいいけど」と小さく唸る。
それから、ほとんど迷わずチョココロネを選んだ。花の上に花、喜びが過ぎたのかみるみるうちに渡辺さんの顔色が紅潮していく。わざわざラインナップに入れたのは大成功だったようだ。
それを素直に嬉しく思う気持ちもありつつも、それ以上に物申したかった。
「おい葵、どっちの味方だよ」
「そう熱くなるなって、惣菜パンは普段から食べてるからな。たまには甘味もいいだろ?」
「……今後は購入させようかな」
その一言を敏くも聞いたらしい良太が、後方からそんなぁと口に物が入ったままの情けない声を上げる。六人、笑い声が揃った。その笑みを頬に残したまま、
「で、あれからどうだ。少しは馬鹿になれてるか?」
葵が俺にだけ言葉を向ける。表情から翻って、声の方は真剣味を帯びていた。むしろ、葵の方が茶目っ気が足りていない。
「ん。まだ少し、ってところ」
「そうか、立派な進歩だな。少しずつでいいんじゃないか、ローマは一日にして成らずって」
「いいや、意外と早くなれるかもしれない」
どうして、と葵が目を丸くする。俺は未だ喜び冷めやらぬ様子の茹でだこ、もとい渡辺さんを指差した。
「いい見本がいるから」
「──え、なに? 私? なんの話」
「知らない方がいいと思うけど」
「そんなこと言われたら、余計に気になっちゃうよ!」
葵がなるほどと呟いて、珍しくも口を開けて鷹揚に笑った。渡辺さんは拗ねたような、それでいて嬉しそうな半端な表情で葵に聞き続ける。大したことじゃないさ、と口先であしらわれていた。それを小林悠里と吉良さんが二人で微笑ましげに見守る。
なにも悪口を言ったわけではない。むしろ敬意を払っているくらいだ。渡辺さんみたく馬鹿に、というのは、実はかなり難しい。それが彼女にとっての自然だとしても、だ。つい後ろ手に考えが先行してしまう。
俺は、そればかりだった。与えられたものを憎み、恨み辛みだけを垂れる。だと言うのに、似たような境遇に身を置いているはずの彼女は違った。不満を抱え文句を言うのは同じでも、そこから必ず前を向く。後ろに縛られず、目前で思ったその通りの道を往く。
たしかにそれが災いをもたらすこともある。けれど、それを恐れてただ躊躇っているだけよりはいくらもいい。似た境遇の、似た者同士。あの日、別棟の廊下で彼女のことをそう思ったのは思い違いだったようだ。
「っと、そろそろ行かないと」
葵はそう言うと、寄っかかっていた屋台の柱から身を起こす。
「なんだ、もう? 運営か?」
「いいや、そっちはもう片付けだけ。親父さんに店手伝ってくれって頼まれててさ。お母さんも赤子連れだと大変だろ」
「……お前はいつから俺の兄弟になったんだ、エプロンといい」
「はは、本当だな。いっそ大雅の妹と結婚するか」
笑っていいのか分からない言葉を置いて、長い背中を曲げ台車を押し去っていく。そんな姿すら爽やかに見えるのが憎らしい。
「もしかして大石くんってロリコン?」
「こら、ばーゆ! きっと洒落だよ。そんなレベルじゃないし」
「流行りの年の差婚かも」
「違うよ。ち、違うよね?」
小林悠里と渡辺さんは、不毛な論争を交わす。それを横目に緩んできていたエプロンの紐を結び直していて、あるものに気づいた。
「……葵のやつ」
くるりと渦を巻いたチョココロネだった。その小袋を持ち上げると、真っ先に渡辺さんが反応して、俺から袋を奪い取る。
「本当は嫌いだったのかな……」
「違うだろ」
「ま、まさか、本当に川中くんの妹と結婚するつもりになって気が変わったとか」
「いや、違うだろ。話が飛躍しすぎだよ、それは。たぶん忘れただけだ、持って行ってやれよ。まだ追いつく」
「え、私が?」
「他に誰が」
背中を押してやると、勢いままに渡辺さんが人波を縫って駆けていく。台車を押す友人をコロネ片手に追いかける映像などまたとない。気まぐれ、スマホを取り出して写真に収めた。奇天烈な構図だけれど、あとで送ってやったら喜ぶかもしれない。
「あらあら、隠し撮り~?」
それを小林悠里が横から覗き込んでいた。
「悪いもの撮ってるわけじゃないっての」
「まぁねぇ、私も撮ったし」
「撮ったのかよ」
「うん、ほら」
小林悠里が携帯の画面を俺の顔の前にかざす。その瞬間に、内側にシャッターが切られた。いたずらに成功した子どものよう、腹を抱えて小林悠里が笑う。決めた顔の小林悠里と、ぼけっとした俺の顔が写っていた。
「悪いもの撮ってるわけじゃないから♪」
「小林………お前な」
「なに?」
「そんなの、持ってても意味あるのかよ。むしろ、彼氏さんに見られたら変に疑われて困るんじゃないの」
「いいの。最近うまくいってなくて、もう別れそうだし」
なにごともなく平然とした顔で彼女はそう言ってのけた。あっけにとられて少し間、反応できなくなる。俺と別れる直前も誰かにこんな風に話していたのだろうか、なんとなくそんなイメージが浮かんだ。
「……悪い、変なこと聞いた」
「いいよ。社会人と高校生じゃあどうしても、ね。時間も、趣味も、なにも合わなくて。そうだ、元鞘として拾ってよ。きっと収まりいいよ、姑との相性も確認済み!」
「いいけど」
「……ありえないけど、って、え? は?」
「嘘だ」
小林悠里のでこを、ほんの軽く指ではねやる。いつもやられ放題だったのだ、これくらいは許されていい。小林悠里は憮然とした顔で、はねた短い前髪を元に戻し指先でといでいた。
「なんか川中、変わったねぇ。冗談でも、昔はそんなことしなかった」
「そうだっけ」
「うん。そもそもびっくりしたんだよ、まさか一人で説き伏せちゃうなんて」
「別に伏せたわけじゃないっての」
「私が強調したいのは一人で、ってところ」
「……元を正せばうちの家の話だから」
ふーん、と小林悠里は顔を横へそらした。そこへ、
「二人とも話し込んでないで」
吉良さんから苦情が入る。
団体の客が来たようだった。話はそのままうやむやの内に終わる。しばらくすると、渡辺さんが戻ってきて、会話は葵のことで持ちきりになった。
冬は日が暮れるのが早い。すぐに空は暗くなって、それにつれて、店にはまた活気が戻っていく。最後には葵も戻ってきて忙しく働いていたら、すぐに祭りの終刻になった。上々の結果だった。高菜バターデニッシュは、終了より一時間前に完売。その他のパンの売り上げも、去年を大きく上回る。なにと言っても、吉良さんにパンを選んでもらえもした。
そして、勝負の行方はというと、よもやのまるっきり同数決着だった。
「……私、どこかで数え落としてたかも」
渡辺さんがそれらしい表情で首をひねる。ところが、
「ううん、毎回ちゃんとつけてた。私が証明する」
吉良さんがすぐにそれを否定した。
「……だってよ。俺らは数え落としてない……よな?」
「うん、たぶんー」
良太が数をつけていたノートを見ながら、首を縦に振る。呆けているように見えて、存外しっかりしているのだ。どうしたものか、と固まりかけた空気を小林悠里がぱちと両手を打って解く。
「じゃあ、同点ということで! 報酬は両方に、ってことでまーるく収めない? 一ヶ月間、相手の店にそれぞれの商品を置くの」
「それがいいんじゃないのか? どっちも損はしないだろ、マーケティング的にも。今後は仲良くってことで」
ここまで黙っていた葵が口を開いた。こうなると、渡辺さんが籠絡されるのは砂の城よりずっと早い。
「……まぁ、川中くんがそれでいいなら」
「俺はいいよ、それで。他に決めようないし」
「はい、決まり~!」
小林悠里の伸びた声が、辺りに響いた。さっきまで人がいた分だろうか、いつもより商店街が静かに思えた。店舗や周辺の片付けをして、台車ごと引き上げる。いつもの通り、いつもの帰り道、つまらない風景、一人。けれど、気分はよかった。
アーケードの格子の間から、空を見上げてみる。
数えられるぐらいの星と、欠けた月が浮かんでいた。それをただ見ているだけじゃつまらない。ぼやけた星まで数えて帰ろう、と気まぐれに思って懸命に空に目を凝らした。そうしたら、例の古いのぼりに衝突した。まぁそんなこともある、と苦笑する。
「……だっさい。しかもなに笑ってるの、怖いんだけど」
それを、予期もせず渡辺さんに見られていた。抱えたパンケースを盾にするようにこちらへ向けて、目を引きつらせている。
「な、なんでいるんだよ」
驚きと途端に沸き上がってきた恥ずかしさで、舌が上手く回らなかった。
「その言い方はないでしょー。これ、うちのと混じってたみたいだから持ってきてあげたのに」
「……え、そうなの。気づかなかった」
「いつもぼけっとしてるもんねぇ」渡辺さんがふっと鼻で笑う。
「余計なお世話だよ」
「で、今日はなんの考え事してたの。つばきのこと? にやにやしてたね、今日も。よかったじゃん、パン買って貰えて」
「渡辺さんこそ、よかったんじゃない。今日はいい雰囲気だったと思うけど、葵と」
「……それはその、そう見えた?」
「うん。チョココロネ持って駆けていくのは大傑作だと思った」
「馬鹿にしてるでしょ!?」
いつもの通り、つまらない風景、慣れはじめた騒がしさ、二人。近すぎないぐらいの距離感がちょうどいいなんて言っていたけれど、近いのも悪くない。
「手伝ってあげようか、店の前まで持って行くよ」
「いいよ。台車あるし。別に落としても、もう中身もない」
「川中くん、人の好意ってのはねぇ──」
「渡辺さんが話相手欲しいだけだろ」
♢
テニスボールがネットに引っかかっている。ひしゃげて歪んでいる。夜の海がどこか遠く先から、潮騒の音と煤けた錆の匂いを運んでくる。そんな情景は相も変わらず貼りついている。
最近、触れられることに気がついた。組み上げたのが俺なら、崩すのもまた俺だ。
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