第23話 テニスボールと海と錆(9)
九
公民館が開いていなかった。
翌日の放課後、いつも通り勉強をしようと思って公民館に向かうと扉の前に「休館日」と書かれた板が立て掛けられていた。看板ではなく、古びた板だ。試しに触ってみると朽ちていて、端が少し欠けた。破片が落ち葉と一緒になって、からっ風に転がされていく。
こんな板さえ新調できない町の財政が心配になりつつ、しばらく立ち尽くしてみるが当然仕方がない。 諦めて家に帰るか、駅前でどこか場所を見つけるか、迷いながら公民館を背にすると、
「なにやってるの、そんなとこで」
渡辺さんがいた。首をうずめたマフラーの上に、つけていたイヤホンの片方を落としながら言う。その指先は、セーターの袖がめいっぱい伸ばされ覆われていた。
最近はわざわざ連絡せずとも、こうして放課後は公民館に来るのが当たり前になっていた。
「今日休みだって」
「え、聞いてない」
「俺もだ、今知った」
「なにかあったのかな、屋根崩れたーとか」
「まぁいつ倒壊してもおかしくない気はするけど、単に定休日なんじゃないか?」
「そっかー……どうしよう、折角たくさん持ってきたのに」
制かばんとは別に、提げたトートを見て恨めしそうに言う。とても一日で勉強できないほど、教科書が詰められているのが透けて見えた。手提げの紐がはち切れそうに、縫い目の繊維が広がっている。たしかにそれを持ってあの山を登って下って、それら全てが徒労に終わるのは中々堪えるかもしれない。
「どこか勉強しに行くか?」こう提案してみる。
「うーん、そうだね……」
「乗り気じゃないならいいけど」
「あ、いや、嫌とかじゃなくて。二人でファミレスとか行ってさ? もしも大石くんに見られたら」
「葵なら予備校だよ。それに、今さら勘違いもされないだろ。誰か誘ってもいいし、まぁどっちでも」
結局、渡辺さんが首を縦に振り、駅前を目指し連れ立って歩く。後からでいいなら、と吉良さんが来てくれることになった。嬉しさと一緒に、小林悠里が来ないことにどこかほっとした。
受験生になってからというもの、遊びに出ることもなくなったから、駅前に行くのはかなり久しいことに感じた。商店街の脇道を南へ下る。アーケードを通らないのと聞いたら、知り合いに勘違いされると面倒、とつっけんどんな返答があって、なるほど、と納得する。北側では、ないことだ。それはそれで付き合いが大変そう、と思った。
最後に、渡辺さんの実家横を過ぎる。甘い匂いに引き寄せられるように、数人の女性客が店に入って行くのを見た。常連の大半が親父のパチンコ友達、つまりはおじさんばかりから成っている我が家とは大違いだ。
「うちにあんな若い女の人こないよ。たばこ吸ってそうな中年ばっかり」と言ったら「うちは甘いものしかないから逆。半分ずつならちょうどいいのにね」と笑っていた。
まだご飯どきには早く、どこの店も空いていた。強いて言うなら、勉強したいのか喋りたいのか中途半端な学生ばかり。一番静かそうなファミレスに入って、ポテトフライとドリンクバーを頼んだ。勉強しようにも、いつフライが届くか分からない。机に携帯だけを置いて、入れてきたホットコーヒーを飲む。渡辺さんは紅茶を啜ろうとして、「あちっ」と小さく呟いていた。猫舌らしい。
「ばーゆはうちの用事、大石くんは予備校で江尻くんは塾かー」
渡辺さんが駅前の通りを机に肘つきしながら見て言う。まだ夕暮にも早い時間だった、人通りは少なかった。けれど通る人は、皆揃って急ぎ足だ。各々、どこか目的地に向かっていくのだろう。
「……忙しいな、俺たちと違って」
「まぁ勉強をしてるのは同じなんだけどさー。学校終わってすぐに習い事ってすごくない? バイタリティーってやつ。私なんて公民館行っても、まずだらってしちゃう」
「今も、だな」
「なにをー……、って言いたいけど、返す言葉がないや。みんな真面目だよね、って川中くんもさすがに私と一緒にされるのは不服?」
気のない返事と苦笑いをしつつ、その言葉で昨日葵に言われた台詞がつと蘇る。唐突になるとは思ったけれど、尋ねてみた。
「なぁ、俺って真面目に見えるか」
「え、なにどうしたの、急に」
「いや、えっと。昨日、葵に言われてさ」
「うーん、そうは見えないけど」
やっぱりだ、あの二人が特殊なのだ。そう思った矢先、渡辺さんが思い出したように加える。
「あー、でも時々思うかも? 真面目ってのとは少し違うかもしれないけど、もうちょっと楽にしてくれてもいいのに、ってたまに思うかも」
「どういうこと」
「考えすぎっていうか、気の使いすぎっていうか、なんかそんな感じ?」
曖昧さに曖昧さを塗り重ねるように言ったあと、彼女は紅茶を一口飲む。つられて俺もカップを手に取った。
まさか渡辺さんにまで言われるとは。温くなったコーヒーが少し苦い。それからどの辺りが、と詳しく聞こうとしたら、そのタイミングで店員がやってきてポテトフライを置いていく。渡辺さんは早速そのうちの一本をつまんで先にケチャップにつけて、
「ねぇちなみに私はどう見える?」
くわえながら問う。見たまま、言葉が出てきた。
「……馬鹿」
「うわ、言われたくなかった!」
くわえながら口を大きく動かしたせい、ケチャップがポテトの先から跳ね上がる。それが初めから決まっていたかのように制服の裾へ飛んで、ひっと短い悲鳴をあげていた。やっぱり馬鹿だ、手元にあったウェットティッシュを差し出しつつそう思った。
そこへちょうど、遅れていた吉良さんがやってくる。俺と渡辺さんを交互に見比べて、
「なんか、きょうだいみたいね」
「……俺が兄で、渡辺さんが妹?」
「ううん、結衣が弟で、川中くんが姉! 弟が動き回るのを世話焼きの姉が悟すの」
「……姉、って性別違うけど」
「なんだろう、雰囲気そんな感じがするの。川中くんって女みたいだし!」
当然のようにショックだった。
頭からがくりと崩れ落ちそうになるけれど辛うじて堪えて、「そうかなぁ」などとこともなげに返す。すると「そうだよ!」と愛嬌溢れる笑顔が飛んできた。追い討ちをかけられたような心地がした。それが世にも美しいのだから、もはや立派な凶器だ。
吉良さんが注文を済ませ、飲み物を取りに立った時、ようやくシミ取りのひと段落したらしい渡辺さんが面白がってくすくす笑う。
「女みたい、だって。女々しいって見られてるのかもよ」
「自分は男扱いされてるけど、それはいいの」
「まぁ、川中くんじゃなくてつばきがお姉ちゃんならいいかなぁ」
「吉良さんが姉なら、か」
つい、思い浮かべてしまう。自分と並んでパンを捏ねる姿、それだけでなにとはなく華のある家庭。
「にやけてる」
「……自覚はある」
「うーん。まぁ、それくらい単純でもいいんじゃないのってこと」
「え?」
「ほら、もうつばき戻ってくる。男らしく振る舞ってみたらー、少しは!」
言葉は聞こえたけれど、意味は掴めなかった。
はぐらかされたような気になりながらも、言われるままに吉良さんに目をやる。右手に握ったカップを大きな目でじっと見て、慎重に運んでこようしていた。反対の手には、スティックシュガーが何本も握られている。
「なに、すごい砂糖の量だな」
「甘いの恐ろしいくらい大好きなの、あの子。それであの体型なんだから、罪深いよね。本当につばきがお姉ちゃんだったら、私も甘いものばっかり食べてもあんな風になれるのかな」
「どうだろう」
「まぁそもそも甘いもの好きじゃないんだけどさ」
「なに、二人とも。私、なんかついてる?」
吉良さんが目を丸くしつつ、渡辺さんの横に座って言う。テーブルの上に、スティックシュガーがばらばらと広がった。そして、躊躇いなくそれらをカップへ注いでいく。彼女にとっては、普通のことらしい。すぐに甘い匂いが立ち上った。
「いつ見ても胃もたれしそう~」
渡辺さんが苦い表情になって、腹のあたりをさする。その姿を見ながら、甘い香りにまかれた言葉の意味を思った。
ポテトを食べ終えたら、ほとんど黙々とそれぞれペンを持った。騒音未満の適度な音量が耳にちょうどよくて、いつもより集中が持った。まだ続けられそうだったが、段々と店内が混み合ってきたので八時すぎには店を出た。
渡辺さんの家の前で二人と別れたら、夜道を一人家へと歩く。
いつもより距離があった。なにせ商店街の南の端から北の端、それも緩やかな上り坂になっている。行きは二人だからよかったが、一人だとかなり長く思える。仕様のない退屈を紛らわすため、スマホでゲームをし、一通り終わったらSNSを開いて興味もないのに画面を眺めた。しかし、それも道半ばで飽きがくる。段々と指先が冷えてきたので、ブレザーのポケットに一緒にしまった。
顔を上げると、ようやく距離にして半分といったところだった。目前には、いつもの見慣れた殺風景が広がっている。相変わらずつまらない。見るようなもの、興味を引くようなものはなにもなかった。代わりに、と顔を上げ、アーケードの隙間から、薄らと夜空に浮かぶ雲を追う。そしてそれはそのうち、ある言葉を追うのに変わっていった。
考え込みすぎ、昨日の葵の言葉と今日の渡辺さんの言葉が一つに混じる。もしかすると渡辺さんは、適当に言ったのかもしれないけれど、気にかかるには十分だった。
それほど「過ぎる」ことがあっただろうか。これまでそんな風に言われたことも、自分がそうだとも考えたことがなかった。むしろ、適当に考えずやり過ごして、人より怠惰に短い十数年をやってきたと思う。
それこそテニスは、その象徴といえる。元から、なんとなくだった。中学校に入った時、軽く身体を動かせればと思って大した考えもなく始めた。
そんな理由だからとくに思い入れはなかったが、流されるように人並みには練習をした。幸い、運動能力にはそこそこ恵まれていた。大会のメンバーにも選ばれ、葵とペアを組み試合に出たこともある。けれど、二年の時にひょいとやめた。理由が葵のいうように、朝練を欠席したことだったかさえ覚えていない。とにかくあっさりとやめた、としか覚えていないから本当に大した理由ではなかったのだろう。だから、葵の言葉は心外だった。そこまで深く悩んでいたつもりはまるでない。けれど、だとすれば今度は別の疑問につき当たる。
なぜ頭に貼りついて離れない例の光景に、網にかかったテニスボールが現れるのだろうか。いつも不思議で仕方がなかった。海の景色のように、記憶に焼き付いて離れないのなら分かる。けれど、なになら言われる時分まで忘れていた。
もしかすると、知らぬうちに考え込み悔やんでいた、ということなのだろうか。そもそももって、あの光景はなんなのだろう。
煮詰まる気配のないまま堂を巡り続ける考えを蹴飛ばすように、たまたま足元にあった小さな石を蹴った。石はてんてんと他に誰も通らないタイルの上を前に跳ねていく。
だんだん右に逸れていって、シャッターの下にかつんと当たって止まった。
相変わらず、通りに開いている店はほとんどない。虚しく揺れる古いのぼりと、乗り捨てられた自転車に、降りたシャッター。ここだけ時の流れから除け者にされてしまったように、今朝見た時から、それどころかもうずっと前から同じだ。
気にも留めず通り過ぎようとしたら、不意に金属音が高く鳴る。足を止めて音の方を振り返ると、家の鍵が地面に落ちていた。ポケットに裸で突っ込んでいたのが、こぼれ落ちたらしかった。
思わず深いため息が漏れる。だが、繁盛している雑踏なら気づかず過ぎてしまっていたかもしれない。それよりはマシかと思い直して、吐いた息を吸い戻す。
そしてふと、気づいた。錆の匂いだった。
あの、金錆の匂いがしていた。鍵を拾おうと、屈めた腰が途中で止まる。
頭には、再びいつものイメージが現れていた。網に絡まったテニスボール、揺れる大海と寄せては返す波の音。それから、この鉄くさい匂い。
拍子、ぴたりとなにかがはまった気がした。欠けていたパズルのラストピースが、思いがけず、すぐ足元の日常から出てきた。そのあまりのあっけなさに力が抜けて、ゆっくりと鍵を拾い上げる。握りしめながら、
「無茶苦茶だな」
と、つい独りごちた。
本当に無茶苦茶だ。テニスボール、海、錆。それぞれは当然なんの関係もない。忘れていたことと、特別と日常と。全て繋がりえないほどばらばらのはずなのに、なぜか一つになっている。並び替えのうまくいかなかった現代文のように、時代を飛び越えてしまった歴史の誤答のように、順序もなにもちぐはぐに。
気がつくと、考えすぎ、ついさっきまで引っかかっていた言葉がすとんと腑に落ちていた。そうでもなければ、こんな荒唐無稽な光景に囚われたりはしない。あぁなんだ、そんなものに。そう思うと、一息に脱力した。
ぷつりと、連なり絡まっていた糸がすべて切れたような感覚だった。さっきまでごった返していた頭の中が限りなく澄んで、心が軽くなっていた。それから、妙な自信が湧きあがってくる。けれど、それは不確かなものではなくて、どこかはっきりとしていた。
それに突き動かされるまま、俺はポケットから再び携帯を取り出し、葵に電話をかける。気が早っていた、予備校に行っていることをコールの途中に思い出す。何コールか待っても出なかったので切ろうとしたら、直前にちょうど繋がった。
「なに、珍しいな、電話なんて」葵が開口一番に言う。
電話口に聞く声には、驚きが多分に含まれていた。致し方ない、自分でもこんなことをするなんて、と思うくらいなのだから。
「ごめん、急だったな」
「いいよ、ちょうど予備校終わったところだし。で、なんの用事? 寂しくなったから連絡よこすような大雅じゃないだろ」
「……その通り」
昨日のことだけど、と前置きを挟んでから言う。
「小林悠里は元カノなんだ」
「あぁそのこと」
言葉にすると、なんて簡単なのだろうと思った。そう、これだって別に隠すことじゃない。
「やっぱり分かってた?」
「なんとなく。だって、あんまりにぎこちないから」
「そう見えたか? そんなに自分が分かりやすいとは思わなかったよ」
「自分が思ってるのと、人から見た自分とって結構ずれてるもんだから。そんなもんだよ」
葵は達観したかのように語る。
つくづく、葵には敵わないなと再認させられた。
電話が切れたあと、俺は家へと足を早める。今なら、なにでもなんとでもなる気がしていた。一直線に親父の元へ向かう。今さらこの家庭環境や、築いてしまった気まずい空気を悔やんでもしょうがない。そういう余計なことはこの際、波打ち際に打ち捨てておく。
そうすれば、話は単純だった。親父だってパンにあれだけ情熱を注いでいるのだ。負けると思っているのか、と煽れば共同出店くらい認めてくれるはずである。激昂するかもしれないが、ずっと気詰まりする空気で過ごすよりいくらかましだ。どうせなら、進学したいことも伝えよう。まだ自分の未来に確固たるものはないけれど、それを探すためにも大学には行きたい。
小林悠里に一応断りを入れておこうと思って、やめる。元をただせば全て川中家の問題だ。
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