第22話 テニスボールと海と錆(8)




次の日の会議は、なにごともなかったかのように進行された。


多くはない議題の中で、親父への許可どりについて話に出なかったわけじゃない。けれど、小林悠里はお得意のトークでのらりくらり上手に交わす。その間、俺はなにも口を挟まなかった。言いつけを守った、というより、特段なにか言い出すこともないかと思ったのだ。どちらにせよ従っているには違いないのだけど。


俺が発言をしないのは普段からのこと。それを誰にも咎められることなく、そのまま会議は進んで幕を閉じた。綺麗に男女別れて帰路につく。去り際、小林悠里がこっそり小さなウインクを一つくれた。


恋が冷めて三年も経てば、もうどきりともしない。ただ犯行が成功した証として、事実だけが無機物のようにその場に残った。またしてもうまくいった。望む望まぬに関わらず。置き場所に困る心地だった。気づいてほしいわけでも、その逆でもないくせ、どうでもいいやと一切合切は投げ出せない。


そんな曖昧さを抱えたまま、帰り道を男三人で歩く。なんてことない世間話をしていたのだけど、角を折れて女子三人の姿が完全に見えなくなったところで、


「師走祭のこと、親父さんに断られたんだろ」


葵がいともさらりと言った。どきりとした。別の類ではあるけれど、さっきよりずっと。


「え、なにが」と良太が外れた調子で聞く。

「共同出店のことだよ、断られたんだろって」

「ん、そうなの? でも小林さん、まだ聞いてないって」


それこそ探偵に全てを暴かれる直前の犯人のような心持ちだった。肺を握られた感覚で、吐息を何度か吐くのが一杯になる。


「んー、良太は分からなかったか? あの短髪の子。普段もよく喋るけど、さすがに今日は喋りすぎだ。あんなの、なにか隠してるって思わない方が難しいよ」

「……うーん、そうだったかなぁ」

「はは、良太はとぼけるのがうまいな。その顔、本当は分かってたろ」

「別にとぼけてないけど? ん、えっとどういう意味?」

「お、まだはぐらかすとは。良太は焦らすなぁ」

「……分かってないだけだろ、たぶん。いいや絶対」


動揺が加わりより複雑になった心境のまま、二人のやり取りをただ聞いていた俺だったが、ここでたまらず割って入る。これ以上は収拾がつかなくなりかねないと思った。


「そんなに普段と違ったか? 俺にはそうは見えなかったけど」努めて、冷静に澄ました声で言う。


小林悠里に従ったわけじゃない。さっきまで、そう自分に言い訳しておきながら、口をつくように出てきた口上は、従順なまでに彼女の願い通りの逃げ言葉だった。


「そうだなぁ、たしかに。俺にもそうは見えてなかったかもしれない」


葵がニッと口端をあげる。そのえくぼに、含みを隠しているらしかった。


「……どっちだよ」

「仮定の話だ」

「全く話が見えん。葵こそ、はぐらかしてないで言えよ」


俺の台詞に良太がしかりと頷く。それを見て、葵は随分楽しそうに、けらけらとひと笑いした。


「そうだな、正直に言おうか。知ってたんだよ、親父さんが断り入れたの。俺の親が、直接聞いたって言うから間違いない。だから、小林さんが話し始めた時から誤魔化しに来てるって分かってたんだ」

「……じゃあなんだ、分かってて最後まで黙ってたの」

「そういうことになるな。意外と面白いもんだぜ?」

「趣味悪いな、おい。それじゃあ小林がまるで道化だ」

「けど、そういう大雅もそのお仲間だろ」


葵の推理は、ほぼ一点の非もなく的中していた。どうなんだ、と言わんばかりに合わせてくるその目は確信じみていて、たぶんもう葵は分かっているのだろうと思った。

けれど、それでも自分から言いだす気にはなれなかった。一応、そういう約束だ。押し黙る、目をなんでもなさげに閉じる。どうも、俺は嘘をつくのが下手らしい。これでは、答えを言っているに等しかった。


「予想になるけど、小林さんに黙っとこうって提案されるまま受け入れて、結局なにも言わなかった、ってとこか?」

「……そこまで分かってるのな」

「大雅の性格を考えたら、簡単な話だな。間違っても、自分からそんな面倒なこと提案しないだろ? 難易度で言うと、数学の問一のアぐらい」

「ねぇ二人とも、なに言ってるの?」


饒舌になっていく葵とは反対に、良太はすっかり会話に置いていかれ困惑しているようだった。体格と比して細く柔らかい眉を斜め下に曲げている。

葵は思案顔でひと唸りして、


「いやぁ、端的に言うと、大雅は真面目だなって思ってさぁ」


まるで筋にないことを言った。


「……は? いや、そんな話してないだろ」


しかし、その反論に葵は応じない。


「あぁ、分かるかも。適当に見えて結構真面目だよねぇ」


元の文脈を分かっていなかった良太が意味通り受けると、話はそのまま逸れていった。今度は俺がのけものだ。


「むしろ真面目すぎる」

「うんうん、宿題は出さないけど」

「提出プリントも」

「美術の課題もね」

「……不真面目そのものじゃねぇか」


どういう風の吹き回しだろう。葵の心中が見えなかった。考えようとして、額に皺が寄る。

真面目でないことなど、自覚があった。学校は出席日数さえ辛うじてクリアしている程度で、課題はいつも催促されてからやる。成績表の意欲欄はいつもC=「改善の余地あり」だ。家業にも自分から関わることはなく、頼まれたらようやく重い腰を上げる。あとはもう部屋に籠りきり、眠くもないのにベッドに転がってなにをするわけでもないうちに気づいたら寝ている。

真面目など、程遠い。それなのに、「そういうことじゃない」と葵は笑う。


「じゃあなに」

「大雅は、考えすぎるんだよ。なんでも一から十まで真剣に悩んでさ」

「……はぁ、そう見えるか? そんなつもりないんだけど」

「つもりはなくてもそうだよ、ずっと昔から」

「昔?」

「あぁ中学の時、テニス部やめただろ? 朝練一回無断欠席しただけで気まずいから辞めます、ってそんなやつ、俺は他に知らないな」

「……いつの話だ」

「はは、たしかに古い話だな。まぁ、今もあんまり変わってないけど」


頭には、件の網にかかったテニスボールが浮かんでいた。それが消える前に葵が言葉を継ぐ。


「たまには、馬鹿になってもいいんじゃない? いらないものは捨ててさ。なんなら引き受けてやろうか、大石ごみ収集車だ」


電灯が、ジョークより数倍整った葵の面を照らす。神様が慈愛を讃えるように、小さく微笑んでいた。


「ごみ収集だね、僕も手伝うよ」


葵の言葉の意味するところを知ってか知らずか、良太までもが乗る。仏顔はいつもと変わらない。思えば、俺の周りは神や仏の類ばかりだ。きっと普通の人間とは感性が違うのだ、真面目だ、なんて他で言われたことがない。


「……ごみは溜め込まない派なんだよ、綺麗好きだから」

「机の中に突っ込んで隠す派、の間違いだろ」

「そんな家庭訪問前の小学生みたいなことしないって」


渡辺さんがやっていそうだ、とぼんやり思った。それはやがてはっきりとしたイメージになって、脈絡もなく少し笑いそうになった。


「とにかく、だ。あんまり難しく考えすぎんなよー。たまにはシンプルに考えろ」

「うんうん、肩の力を抜いてね」


良太はなぜか得意そうに言うと、俺の右肩に丸っこい手を置く。


「そうだな、肩の荷を降ろして」


葵はそれを真似をしてか、左肩に同じく手を置いた。こちらはすらりと伸びている。


「……むしろ重たくなったんだけど、とくに右肩」


俺がこう言うと、二人が揃って笑った。

そこからは、なし崩し的にたわいない雑談に戻っていった。先生の噂、クラスメイトの話、めっきり冬めいてきた天気のこと、模試の出来栄え。話が尽きぬまま時間が過ぎてから、「一つ聞いていいか」と葵が思い出したように言う。

俺は軽く首を振って応じ、


「小林さんとはどういう関係だ?」


再び虚をつかれた。つい足が止まってしまう。「友達じゃないの?」と呑気な良太の声が静かな通りに響いた。


「……急になにを言いだすんだよ」

なんの準備もしていなかった。半ば脊髄反射的にそう答える。


「大雅の態度見てたらただの友達じゃないだろう、って思ってさ。実は今回、親父さんに小林さんをけしかけたのは、それを探るためでもあったんだ」


葵は、またも見通しているらしかった。きっとその神の目にかかれば、これぐらいのことはお茶の子さいさいなのだろう。けれど、それが分かっていてなお、

「ただの友達だよ」

本当が唇から先に出てくることはなかった。今度ばかりは、それらしい言い訳や建前さえ見つからない。「今となっては嘘ではない」と子供じみた言葉だけが頭に浮かんでいた。


「へぇ、そうか。分かった。俺の勘違いだったな」


葵の表情は変わらなかった。

それだけ言うと、また前を向き歩きだす。俺はなんとなく気まずくて、斜め少し後ろについた。良太はなにを思ってか、俺のさらに斜め後ろを歩く。傍目に見れば怪しい三人組だろうな、と思った。

しばらく経ってから、二人と道を違える。汚れや割れの目立つタイルが敷かれた、商店街の路地を数歩一人で踏んでから、はっと気づいた。


「……あ、師走祭の話」


話が逸れてしまってすっかり忘れていた。葵なら、親父を説得する新しい策の一つや二つ思いついていただろうに。左足を引き、後ろを振り返る。けれど、もう二人の姿は見えなかった。灰色のため息ひとつで、元の方向へ踵を返す。


よく考えれば、秘密である以上、追ったところでなにを聞くこともできないのだった。またタイル張りの道を踏みしめて、家までを歩いた。


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