第21話 テニスボールと海と錆(7)
七
なぜか、俺の家へと向かって小林悠里と二人きりで歩いていた。
「いやー、まさか川中家に行くことになるとはねー。付き合ってる時もなかったのに。昔の私に教えてやりたいよ」
「……俺もだよ」
「昔のうちら、婚約したの!? 結婚報告!? とか勘違いしそうじゃない?」
土曜日の学校での模試終わりだ。本当なら家に帰って、自己採点や見直しをするべきところなのだろうに。実際、そうしたかった。今日の歴史はいつも以上に手応えがあった。他の科目次第だが、まずまずの成績が取れているかもしれない。そうなると、総点数が気になった。
もちろん、目的なく二人で歩いているわけじゃない。親父に、共同出店についての了承をもらうためだ。どれだけ高校生が集まって議論を深めても、大人の了承はいずれクリアしなければならない関門だった。
渡辺家ではひとつ返事で快諾が貰えたそうだが、川中家ではそうはいかない。あの頑固親父を頷かせなくてはいけなかった。そこで、俺一人では心もとないからと助っ人が来てくれることになって、それに小林悠里が選ばれた。
「親父さんには気が強いぐらいの方がいい」
という葵のよく分からない鶴の一声によって。過去の関係を知られて変に気を遣われるのも厄介なら、全く知られていないというのも困りものだ。
やはり、海の情景はまとわりついていた。磯の匂いがして、耳の奥から潮騒の音が聞こえてくる気がする。それがもうずっと続いた、さも当たり前の生活音かのように。海辺で暮らす人は鼻が慣れて、いつしか海の匂いを感じなくなると言う。それに似て、感覚が麻痺してしまったらしい。
小林悠里はどう思っているのだろう。少なくとも決してよい状況ではないはずなのに、彼女はけらけらと笑う。
「あ、ねぇねぇ、なにか差し入れ買っていこうよ」
「……いいけど」
「じゃあ歩きながら考えよう。まぁそんなに道は逸れないから安心してよ。それで、お父さんなにか好きなものないの? あ、言っとくけど義理のって意味じゃないからねぇ」
軽妙な語り口も、わざと白線の上をつたい歩く軽いフットワークも昔となんら変わりない。全く気にも止めていないらしかった。
「……あのなぁ」
だが、俺には別の話だ。気になって仕方がない。だから、質問に答えるのがひと呼吸遅れてしまった。
「はいはい、むくれないの。それで、好きなものは?」
「そうだな…………キッシュ、カレーパン、バターフランス」
「なるほどー……っていや、そこはパン以外でしょ、普通! ボケて、なんて言ってない。他のものは?」
「本気だったんだけど……」
「え、まじ?」俺はただ頷く。
「……あー、じゃあ勝手に決めちゃおう。商店街の外で探そっか。よく考えたら、商店街の人に、そこの物買ってもつまらないしねー。一応、ちょっと思い出してみてよ」
小林悠里と二人で住宅地を伝い歩く。
閑静な場所だった。その分妙な空気をよりひしひしと感じてしまって、考えは一向にまとまらなかった。やっと考え始めても、小林悠里が話しかけてきて有耶無耶になる。そもそも、親父が好きなものなどパン以外には予想もつかないのだった。
「あーもう仕方ない! 安パイにケーキでどう? というか、見てたら急に食べたくなっちゃった、私が」
そうこうしているうちに、たまたま一軒の洋菓子店前に辿り着く。一応そう聞きながらも、スイーツを前にもう目は爛々と踊っていた。衝動的に行動するのも、昔と同じだ。俺は「いいよ」と返事をする。そうなると、そっくり中学生の頃とそのままだった。
小林悠里が選んで、幾つかカットケーキを買う。生クリームたっぷりショートケーキって魔の言葉だねぇ、と一人納得顔をしていた。
しかし、土産を手に入れてなお、まっすぐ家にとはいかなかった。途中で見つけた和菓子屋や小物屋に寄り道をさせられ、回り道を付き合わされる。そのケーキ保冷剤入ってないだろ、と訴えてみたら、ようやく家へと向かい始めた。それでも、公園に寄ったりなんかして、やっとのことで自宅兼店舗の裏、集合団地の駐車場まで辿り着く。
「いよいよかぁー。会うの楽しみ!」
陽気な小林悠里とは対照的に、俺は既に疲弊しきっていた。模試で頭を使い、ここで体力と気力を使った。
「……楽しみにするタイプの人じゃないよ」
「そうなの?」
「そう。昭和を生コンで固めたみたいなもん、礼儀正しくしないと怒られるかもしれない」
「へぇ、川中とは全然違う。気をつけないと」
「俺はー……母親の血のおかげ、なのかな。そっちは適当すぎるけど」
「いいバランス取れてるって!」
「それ褒めてるつもりか?」
ざっくばらんな家族紹介をしつつ俺は店の内側を覗き込む。他に人がいない時の方が都合がいい。店内には、客が数人いた。全員俺とも顔馴染みの常連だ。うっかり声でもかけられないよう、身を潜めて機会をうかがう。客が全員が去ったのを見届けて、俺が小林悠里を振り向くと、よもや不意打ちの一言。
「デートみたいだったね」
「……なに言ってんだよ」
「思ったこと」
「……今彼氏いるんだろ。そういう発言は控えろよ」
「うわ、結衣ってば喋ったなぁ」
なんなら、経緯である一から、現状である十まで聞いている。
「からかってやろうと思ったのに。もう一回付き合う? って」
「お断りだ。……その、受験生だし」
思うほど、今も断る理由はないのかもしれない、と思った。
「あは、結衣と同じこと言ってる。そんなこと言って~。つばきのこと好きなんでしょ、見てたら分かる」
「……いいから行くぞ」
悟られるようなことをしただろうか、と思った。もしかしたら渡辺さんが喋ったのかもしれない。図星だろ~、とか面食いめ、とか言われながら、店へ入る。直前の会話のせい、ある意味で気が抜けていた。このケーキの生クリームのようにふわふわと。緊迫感があまりないまま、小林悠里を伴って親父と相対する。
結果は知れていた。
話を切り出そうとしてすぐ、
「今忙しい」
と追い出されてしまった。客のいない店内を見回して酷く皺の寄った難しい顔で。小林悠里はそれでも話をしようとするが、取りつく島もない。これには晴天続きだった小林悠里の表情も一瞬にして陰り、曇りきっていた。
元カノでもあるが、それ以前に今日は助っ人であり客人だ。ケーキのこともある。そのまま帰すわけにもいかず、ちょうど妹を寝付かせたばかりだった母に面を通す。
二人は雰囲気こそ違え、似ている部分があった。すぐに意気投合して、談笑が始まる。そうして時間を経るうちに(ケーキを食べたおかげかもしれない)、徐々に彼女の表情に元の日の光が戻っていった。
「もしかして、彼女? 可愛い!」
「いやー、私元カノなんです」
「なんでこんな子手放したの! というか、なんで連れてきたの」
せめて親の前では伏せてほしい、こんなリークを平気でして。
一旦落着したかと思えば、俺を置いてけぼりでまた二人で盛り上がる。すっかり母はこの調子者に心を掴まれたらしい。帰り際にはお土産、と大量にパンを持たされていた。母に遣わされる形、店先まで小林悠里を見送る。
「いやー、ダメだったねー」
空に向かって言うその表情は、言葉とは裏腹に清々しかった。
「ごめん、なんとか言っておくから」
「門前払いだったじゃん。川中が言ったところで、たぶん取り合ってもくれない。ここまでがうまく行き過ぎてたんだ」
「……ネガティヴなのかポジティブなのかどっちなんだよ」
「気分はいいよ。今日は楽しかったし」
地面を軽く蹴って、跳ねるようにしてこちらを振り返る。さっきケーキを食べたばかりなのに、提げた土産袋からベーコンエピを取り出し齧った。うまい、とさらに一口。そして塊を飲み込んでから、全く調子を変えて言った。
「昔はさ、こんなことなかったよ。ないまま、さよなら。付き合ってたか、付き合ってなかったかも怪しいくらい。ちゃんと覚えてるのなんて、あの日のことだけだもの」
「……まぁ」
声が詰まった。過去なんてどこ吹く風に見えた小林悠里も、実は気にしていたらしかった。
「だから親のことも、今日初めて聞いた。パンだって初めて食べた。美味しかったよ、わたパンにも負けてないと思う」
小さな町、見慣れた通り。けれどその背には、雄大な海が広がっているような錯覚があった。大きすぎる暮れかけた日を背後にするその姿が、いつかと重なる。伸びる影がほんの数センチ、縦に長くなっただけだった。思えば、夕日が苦手になったのもあの日のせいなのかもしれない。
俺はまだ、あの日の特別に囚われている。
「ねぇ今日のことさ、断られたって、一旦誰にも言わないでおこうよ」
小林悠里が言う。普段のおちゃらけた顔ではなく、引き続いて真剣そうに。
「なんで」
「私が言い出しっぺでしょ、今回の話。このまま中止って、そんなの申し訳が立たない。だから、もう少し説得してみようよ。私と川中で」
「……それ、俺に申し訳立ってないんじゃ?」
「話が別、親子なんだから! ……あー、なんだか急に会議行くの憂鬱になっちゃったなー。楽しみだったのに」
「次、明日の放課後だぞ」
「分かってる。二人で逃げちゃう? ──って冗談。とにかく他言無用ね、じゃあ私は帰る。パンありがとう、お母さんに伝えといてよ」
勝手に話を締め上げて、小林悠里は去っていく。まだ話の途中だ。おい、と呼び止めるけれど、ついぞその足が止まることはなかった。やっぱり母親と小林悠里は似ている、むらっけで勝手なところが。
「他言無用、か」
姿が見えなくなってからぼそりこぼす。それから、夕日が彼方にあるだろう海へ沈んでいくのを見た。この山のずっと向こうでは、今日も特別な夜がやってくるのだろうか。それならばちょうどいい。俺の元にも、元カノが帰ってきた。今度こそ、名実ともに正真正銘の共犯者として。
家の方を振り返り、ため息をつく。戻るのが億劫になっていた。下手な波風を立ててしまった、親父とぎくしゃくしてしまうのは目に見えている。けれど、当然戻らないわけにはいかなかった。決して顔を合わせないよう警戒して、自室へと引っ込んだ。
すっかり模試の採点をする気分でもなくなってベッドに身を投げる。なにやってんだ、俺は。なにに問いかけているのか、当然答えはなかった。
♢
テニスボールが、まだネットに引っかかっている。網目に食い込みひしゃげている。いつからそうしているのだろう。
背後の海にさざ波が立つ。錆の匂いに、辟易とした。
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