第19話 テニスボールと海と錆(5)


     五



 初めて海を見たのは、十五歳の秋だった。


それはもう痛いほどに覚えている。


きっかけは、当時付き合っていた彼女・小林悠里のひょんな思いつきだった。なんでもない金曜日の夜に、明日海に行こうよ、と脈絡もなく誘いのコールが鳴ったのだ。特に用事もなかった俺は、二つ返事で請けた。どうせ家にいても、店の手伝いや雑用のお鉢が回ってくる。それでなければ、勉強をしろと囃される。突飛な提案だったけれど、そこにはそんな日常から連れ出してくれるような、あいまいな期待感があった。山間にあるこの町から海までは遠い。余裕を持って昼前に出発して、バスと電車を乗り継いでいった。


初めこそ、冒険をしているような気分だった。知らない景色ばかりが車窓に流れて、見るもの全てが新しい。瞬きをするたびに自分の世界が広がっていく心地がした。車内にいるのに、心はずっと自由に窓の外を跳ねて自分でも掴めなかった。

たまたま他の乗客がいなかったのをいいことに、かじりつくように外を見る。普段は落ち着いていると自認していた俺でさえ、気分は高揚していた。おてんばの象徴、小林悠里が黙っていられるわけがない。新しいものを見つけては、逐一大声で報告する。


しかし、それとてずっと持つわけではなかった。新しく買った音源がいずれ聞き飽きるように、しばらくしたら見慣れてくる。だんだん疲れの色が濃くなって、声のトーンが落ちてきた。それに沿うようにして、会話も自然と減っていった。


狙ったように、トンネルにさしかかり景色が真っ黒になったら、いよいよ沈黙が訪れた。なにせ山を切り通している。トンネルはどこまでも長く、そして暗かった。そうなると、昂ぶりでうやむやになっていた不安が懐から顔を覗かせる。思いつきを後悔し始め、逃げ出した日常に想いを遣ったその時。唐突に、その瞬間は訪れた。


黒から青へ。視界が一変した。


光で白んだ世界の輪郭がはっきりとしていく。俺が何か言うより先、海だー! 、と小林悠里が一叫した。


そこには、視界の端など到底及ばぬ先まで、一面に青が広がっていた。海だった。

その時の興奮と言ったらない。未だに身体の芯が震えて、身体中の毛がよだつような感触を覚えている。


本当にあったのだ、と思った。もちろん、テレビや映画で見たことがなかったわけじゃない。けれど、近くを流れる小川が、錆びた線路と腐った枕木の先が、これほど雄大な海にまで繋がっているという実感を持てていなかった。


二人して舞い上がったまま次の駅で降り、海を目指して歩く。小林悠里に至っては小躍りまで決めていたと思う。プラットホームから見えているくらいだったから、そこからはすぐだった。秋の、他に誰もいない海辺の浜にたどり着く。海だー! 、と小林悠里がまたしても叫ぶ。山なら幾度もこだましていただろうが、潮騒の音は反対にそれをすっかり飲み込んだ。それがまた新鮮で、心の裾を揺すられた。


すでに夕暮れがそこまで迫っていた。出発した時には高かった太陽が、すっかり水平線の先に転がっていた。みるみるうちに沈んで消えていく。その汀に、オレンジの粒がゆらめいていた。


なにか、特別なパレードでも催されているかのようだった。砂浜に座して二人でそれを眺め、そのまま日没を見送る。入れ替わるようにして、次は夜が幕を下ろし始めた。凪がきて、それに合わせて潮が引いていく。

じきに帰れなくなる。それを分かっていて、なおも佇み続けた。夜の、海の姿が見たかった。言葉にはしなくとも、意見は一致していたのだと思う。二人とも立とうとはしなかった。幸運にも空には雲ひとつなく、星も、月もなにも完璧に美しかった。


「海が空気清浄機なのかな」


小林悠里が真面目な顔で言う。俺はそのセンスの良いのか、悪いのかに笑いながら、なぜか本当にそうかもしれないと思った。

帰ろうとは、ついにどちらも言い出さなかった。そうしているうちに、本当に終発の電車が去っていった。


「電車行っちゃった、って台詞。ドラマ以外で本当に使うなんてねぇ」

「俺も初めて聞いた」

「っていうか、ママもパパも激おこだよ。ツノ生やしてやんの。ちゃんと友達の家にいるー、って言い訳したんだよ?」

「全てお見通しだったりして」

「うわ、それ一番怖い。じゃあ川中はどう言ったの」

「……友達の家にいる」

「同じじゃん! 実はばれてたりしてねぇ」


日常から、立派に逃げ果せていた。

潮風が身体を縁取るようにそっと撫でる。眠れるわけがなかった。昼とはまた違った類の、こそばゆい興奮が心の底でふつふつとしていた。

夜の海岸を意味なく歩いて、意味のない会話をした。花火でもしたいね、と小林悠里が言ったけれど、近くにはコンビニはおろか商店の一つもなかった。だから、ただ夜が更けて日が昇るのを待った。秋の海風は冷たい。寒さをしのぐため、と手を握って背中を寄せた。


はたから見るとよき恋人同士だっただろうし、実際に付き合っていた。不確かながらも、好きだとも思っていた。普通ならこの状況は、幸せで堪らないはずだ。キスのひとつでもしたくなっていいはずだ。


けれど、違った。そんな浮ついた感情以上に、まるで犯罪でも犯してしまったような、後ろめたさと背徳感からくる昂ぶりを感じていた。親に嘘をついて、夜の海へ逃げ出す。中学生にしてみれば、それは罪と大差なかった。その意識が浮ついた心と混じりあって、言葉では言い知れない気分だった。


朝になったら、二人で来た道を辿って家に帰った。道中は、ほとんど会話を交わした記憶がない。途中に揃いで買ったオレンジジュースが、驚くほど薄味に思えたのはなんとなしに覚えている。叱られる、と身構えて家に帰ったけれど、両親にはなにも言われなかった。ばれてないみたい、と小林悠里にメッセージを打つ。私も、とすぐに返信があった。


いわば小林悠里は、ばれてはいけない罪の共犯者だった。


結局、それから数ヶ月後に小林悠里とは別れた。元々大した経緯や感情があったわけじゃない。告白されて、断るのもなんだしと付き合った。それが一緒に過ごす中で、ようやく好きかもしれないと思い始めていた頃に、「大事件」が起こった。


特別を共有した、という事実が感情を先行していた。芽生え始めていた恋は、似て非なる共犯者感情にすっかり乗っ取られてしまった。海を見た日以来、その感情ゆえに喋るのも気まずくなった。けれど、それゆえに別れるのも勇気がいって踏ん切りがつかなかった。

だから、ずるずると関係を続けた。小林悠里から「終わりにしよう」とメールが来てようやく別れた。彼女も悩んだのだと思う。釈放されたような気分になるかと思ったが、心地悪さはじとりとまとわりついて離れなかった。

夜の海を見に行って、恋人が共犯者になった。日常から逃げ出して、特別に捕らわれた。


     ♢


テニスボールがネットに引っかかっている。網目に食い込みひしゃげている。

背景に広がっているのは、きっとこの海だ。潮騒の音がして、錆の匂いがした。


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