第17話 テニスボールと海と錆(3)
三
公民館からの帰り道、俺は連日、ゆっくりと商店街を歩いていた。ろくに見てもいない日本史の教科書を顔の前にかざしながら、
「保元が先で、平治があと……参加したのは──」
などと小さく呟いてみる。
けれど実際にはつまみ見ているだけ、ただの格好にすぎなかった。全く覚えられそうにない。詰め込もうとする頭の中は、件の師走祭のことでもうたくさんだった。
あの後も、勉強そっちのけで、長々と言い合いは続いた。渡辺さんが案を挙げ、俺が否定する。いつになっても表と裏のひっくり返らない野球みたく一方的に。
一進一退の攻防だった。しかし、これが一握りの運に恵まれた人間と、そうでないものの違いなのだろうか。渡辺さんが挙げる案は「カレーあんぱん」とか「生クリームコロッケパン」とか、どうしようもないものばかりだったのに、いざなにかと問われたらば特に対案も思い浮かばない(既にこの時点で、参加することを認めさせられていたのかもしれない)。
最後には、押されるままに親父の許しが出たらと共同出店を渋々認めてしまった。というより、途中でいつもの悪癖が出て面倒になって放り投げた。
どうせ親父は首を縦に振らない。
渡辺パンは、商店街唯一の同業他社いわば競合店にあたる。しかも、真偽はともかくスイーツブームで客足を奪われたとまで目していた相手だ。折角独占できている師走祭でまで、邪魔をされては敵わないというものだろう。もし増収になると言っても、同じことだ。その場では利益が出ても、後のことを考えればさらに客が流出するのは十分に考えられる。そうなれば、いよいよ閉店へ追い込まれてもおかしくない。
変わらず閑散とした道を歩き、家に帰る。今日は店の電気がきちんとついていた。親父に挨拶するため、少しだけ店の方を覗く。カウンターの奥で仁王立ちをして腕組み、難しい顔で、未だ売れ残っているパンを見つめていた。
「……おう、帰ったか」たばこで声が焼けている。
「うん。手伝おうか?」
「今日は大丈夫だ。それより、飯食べてこい」
「うん」
「なんだ、まだなにかあるか?」
「あー…………いいや、なにも」
言えるわけがなかった。
機嫌が良ければもしくは、と思ったけれど、推し量るに機嫌は中の下くらい。売れていないのだから、当たり前といえばそう。今言っても、家庭を無闇に険悪な雰囲気にしてしまってそれで終わりだ。俺はそのまま家の方に引っ込む。母にも挨拶をしようと思ったけれど、妹が泣いているのが奥から聞こえてきたので、やめた。
晩飯は野菜の炒め物だった。親父の少ないパン以外のレパートリーの一つだ。母は、産後のリハビリがてらヨガの体験に行くから忙しいと言っていたっけ。妹が泣いていたのは、それでかもしれない。いない間、怖い親父と二人で寂しかったのだろう。お前も大変だな、と兄妹の実感もない赤子のことを思った。
皿洗いまで済ませて、自分の部屋に上がる。昨日同様このままうたた寝でもしてしまいたい気分だったが、今日はなんとか堪えて机に向かい問題集を開いた。外で思うように勉強できなかった分、まだやり残したことがあった。
近いうちに模試があるのだ。それも、受験本番までいよいよ最後の機会。この成績を元に志望校面談が行われるから、この結果次第では受ける学校帯が決まるといっても過言ではない重要なものだ。もっとも、まだ大学へ行けるかどうかも定かではないが。
時間を計ろうと、ポケットから携帯電話を取り出す。そこで初めて、何通かメッセージが届いているのに気がついた。
『ねぇ、聞けたー? 』
『あと思いついたんだけど、メロンフランスパンとかどうかな?』
『表面はさっくりクッキー状で中はしっとり固め! ってそれじゃあただのメロンパン?』
『おーい』
『川中くん、さっきは無理言ってごめん。一応、確認だけでもしてくれたら嬉しいかな』
全て渡辺さんから、最後の一通だけ時間が少し空いていた。返事がないのを彼女なりに気を遣ったのだろう。
俺は安堵の息をつく。この分なら、
『頼んだけれど、だめだった』
こう返せば終わる。嘘だけれど。
そうすれば、どこにも波風は立たない。川中家の平穏は守られ、渡辺さんも納得してくれる。文面からして、ある程度は無理を承知しているはずだ。わざわざ親父に真偽を確かめるまではしないだろうし、まずもってその手段もない。
しかし。それでいいはずなのに、どうしてか返事を躊躇う自分がいた。文字をフリックする指が止まる。
元々ほとんど無理に押し付けられたわけで、俺が罪悪感を感じる必要などどこにもないはずだ。総合的に考えても、最良の選択肢であるのは間違いなかった。
なのに、どうもぱっとしない。考えたところで、その理由は分かりそうにもなかった。窮した末、俺はまた放り投げることにした。とりあえず忘れよう、とアプリごと閉じようとしたまさにその時、携帯がコンマ数秒短く震える。一瞬身構えたけれど、
『たいちゃん、帰ってるなら帰ってるって言ってよ~』
なんてことはない、母からの気の抜けたメッセージだった。
勝手だ、ひとりごちる。こっちは気を遣ったというのに。母親だけじゃない。全員が全員、勝手だ。もちろん返事はしない、これ以上なにか送られてくるようなら直接言いにいけばいい。ひとまず、模試対策だ。携帯のタイマーをセットして、筆箱の上に据えて解き始めた。しかし、すぐに頭の中に流れ込んで来たのは問題の内容ではなく、渡辺さんの言葉の数々だった。
タイマーの表示時間が減っていく。その度に絵の具が一滴ずつ垂れてくるように、徐々に頭の中が塗られていった。振り払おうとしてもべったりと染みて、みるみる色が変わっていく。
「……えーと、spoilは──」
それは、声に出してみても同じことだった。いつの間にか、渡辺さんの集中できなさ加減が感染ってしまったらしい。
♢
結局、返事をしないまま次の日を迎えた。寝ても覚めても、うまい返事は思いつかなかった。
ぎりぎりまで惰眠をむさぼってから、いつも通り始業時間ちょうどに登校する。すると、教室の雰囲気が少しおかしい。普段は静かなクラスメイト達の一部がざわついていた。不思議に思いながらも、そんなものとは無縁であろう孤立した席、柱の裏にあたる自分の席まで歩く。
机の上に覆い被さったカーテンをめくって、
「お、やっときた~。久しぶりー! 待ってたよ、川中!」
不意に豆鉄砲を食らった。その原因だろう人物が、いた。さも自席のように座り、図々しくも自分の課題までして。そこにいたのは、小林悠里だった。面食らってしまった俺は言葉に詰まる。
「この席いいなぁ、環境最高じゃない?」
「……まぁそうだけど。なんでいるの」
絞り出すことができたのは、やっと一言だった。
「いてもいいじゃん?」
「そうだけど……って、そうでもないだろ。ここ別のクラスだし」
「そんな細かいこと気にする奴だったっけー? はいはい、今のくから」
小林悠里は立ち上がり、俺の肩を掴んで座った、座ったと促す。
会話を交わすのは、実に数年ぶりだった。耳に障るほど高音になることもあった声質は幾分落ち着いて、大人っぽくなっている。けれど、顔の輪郭まで大きく変わるわけではない。なにより、押しの強さと年月の経過を感じさせない距離の近さは、そっくり昔のままだった。
「サボり放題って感じだよね。私の席にしちゃいたいくらい。交換しようよ」
「しないから、っていうか無理だ」
「わかってるよー、冗談じゃんか。通じない男だなぁ。私もこのクラスだったらよかったな。この柱、ここにしかないんだよなー」
このクラスで静かにしている小林悠里は、想像がつかない。完全に水と油だ。きっと混ぜても沈めても、浮いてくる。今だって、カーテンの向こう側ではどんな目で見られていることやら知れない。
なにか用なの、と俺は気にしていない風を装うため鞄から教科書を出しつつ、尋ねる。そうは言うものの、およそ目星はついていた。しかし当の本人がいないから、確信にまでは至れていなかった。
「そうそう、それね。はい、ここで問題です!」
「……そういうのいいから」
「うわ、冷たい。そんなんなら話さないよ」
「別にいいけど」
「相変わらず冷えてるなぁ。女の子にはもっと優しくした方がいいよ。これ忠告ね」
眉間のあたりを二本指で突かれた。そういえば、こういう奴だった。古い記憶が蘇ってくる。気安さがすぎるのだ。
「……とにかく一旦帰れよ。もうチャイム鳴るから」
「おっと、もうそんな時間? 来るの遅いんだよなー。遅刻魔め。ま、話の方は後でね! また来るから」
小林悠里が荷物を抱えて、陽気に出ていく。その背中を見ていたら、ふと海の匂いがした気がした。潮騒の音が聞こえた気がした。そんな幻の風景に、取り残された俺の肩を良太が後ろから叩く。
「なんだか騒がしかったね」
「……あいつ、いつからいた?」
「結構前から。僕もあまりに自然にいるものだから、びっくりしたんだよ。席替えしたのかな、って。知り合いなの?」
「……一応、な」
小林悠里は、元カノだ。
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