第16話 テニスボールと海と錆(2)



 二



テニスボールがネットに引っかかっている。網目に食い込んで、楕円にひしゃげている。

背景は海で、錆の匂いがして。

そんな情景が一枚、頭に貼りつくようになったのはいつからだったろう。そんな光景を見たことがあるわけでもないのに。



     ***



次の日の放課後、俺は再び公民館にいた。来てしまっていた、と言うべきか。

また机の上いっぱいの教科書やノートの先に、当然のように大きなぬいぐるみのついた(しかも三体も)制かばんを見据える。

自分で思っている以上に、捌け口を欲していたらしい。俺は着くや否や、勉強する構えだけは見せつつ昨日の愚痴を語った。突然の店番とか最悪だよね、と渡辺さんが請け合う。

一度口にすると些細な不満まで、次々とこぼれ出た。口々に言い合ってその度に共感する。なにも解決にはならない。だが、人に話すというのはいい気休めになるものだ。随分と気が楽になった。


「昼休みもね、ずーっと言ってるんだよ、もうずーっと。五十分! 気が早いよね!」


そして、それを求めていたのは、渡辺さんもだった。俺の話が終わって続けざまに、今度は彼女の愚痴が始まる。ただしベクトルの先は、全くの別方向。


「惚けちゃってくれてさぁ。私なんかなーんにも起こる気配ないから羨ましい。まぁ、進路決まってる組だから気も楽なんだろうけどさぁ」


友人の恋愛が羨ましい、とふてくされている。


「また、例の?」俺は半ば確信を持って聞く。

「そう、さっすがよく分かってる。ばーゆの話!」


ばーゆというのは、三組の小林悠里のことだ。相当仲がいいらしく、渡辺さんがいつも話題にする。俺も中学生の頃からの知り合いだ。クラスが同じで、仲の良かった時期もある。


「そう! あの子ったら、もうクリスマスだ、クリスマスの約束だーって浮かれてるの。思ったことが素直に出る子だから、悪気ないのはわかるんだけどさー」

「……へぇ、よっぽどうまくいってるんだな」

「そうみたい。いやね、それはいいことなんだけど。こうもやっと、もやもや~っとしないこともなくてさ」


続く渡辺さんの煮えない言葉をよそに思う。もうそんな言葉が出る時期だっただろうか。携帯を開きカレンダーを確認してみる。もう十一月も暮れだ、あとひと月を切っていた。


「…………また聞いてないなー?」

「や、違うって。そんなに早い話でもないんじゃないか? あと一ヶ月ない」


釈明、というのもおかしな話だが、俺はカレンダーの画面を渡辺さんに見せる。見られて恥ずかしいようなものはなにもない。予定自体、空白ばかり。埋まっているのは、店の休業予定だけだ。


「……あれ、そうだね。やばいね、時間の流れ早くなってない? 今年も一人じゃん、私」

「それより受験のことはいいのかよ」

「…………そうだった。そっちが先だ……、日にちは後だけど」


渡辺さんはかばんから予定帳を探り出し(案の定角が折れていた)、一月をめくっては十二月に戻すを繰り返す。その仕草が可笑しくて少し笑えた。それと同時に意識もしてしまう。残された時間の量的な少なさを。ただの一ページめくれば、もうセンター試験だ。それを皮切りに、次のページをめくると本格的に受験シーズン。さらにめくれば卒業式で、月末には入学式という運びになる。


「色々と時間ないな」


素直な言葉だった。だというのに、俺ときたらまだ受験するかしないかさえ不明確なまま、ずるずるときているのだ。


「本当だ……、まだE判定ばっかりなのに」渡辺さんが口元で小さく言う。

「どこ受けるんだっけ」

「関学。あとは関大とか、甲南とか。でも、まだよくてD判定。川中くんは?」

「俺は国公立なら、って思ってるけど……。芳しくはないな」


この間は私立の大学さえ、なんとかC判定に乗る程度だった。主に歴史のせいで。考えれば考えるだけ、こうして雑談している時間も惜しい気がしてきた。二人して思い出したように勉強に励む。けれど、


「ねぇ、川中くんはクリスマスの予定あるの?」


渡辺さんの集中力の限界は四十分、試験時間のおよそ二分の一。それももしかしたら頭ではずっと考えていて、さらに短いかもしれない。


「……ないけど」俺は俺で、無視するのも邪険な気がして返事をしてしまう。

「あ、やっぱり? 受験生ってそんなもんだよね」

「それでも予定ある奴もいるけどな」

「あぁいるいる。すごいよね、どうやって両立してるんだろ。彼氏の存在が受験の支えですー、とかそういうことなのかな。人生の勝ち組って感じだね」


また空の二十五日を恨めしそうに睨んで、それから渡辺さんは俺の方を見る。想定もしない言葉が出てきた。


「ねぇ、クリスマスもここで勉強する?」

「……いや、どうせなにもないだろうからいいけどさ」

「あはっ、冗談だよ。まぁ本当に勉強してるかもしれないけどねー、約束するほどのことでもないか」

「そのとおり」

「ごめん、ごめん。ご無沙汰すぎて、形だけでも予定入れたり、約束とかしてみたくて。約束って、響きからしてよくない?」


もちろん俺にとってもご無沙汰の話だ。予定や約束が絡むような恋愛は随分としていない。付き合ったことは何回かあっても、放課後一緒に帰るだけで別れたり、一度も二人きりで話すことなく終わったなんて場合もある。最短記録は一週間、友達に煽られ無理にキスしようとして振られた。


「……んー、約束なら既にしてるんじゃない?」


そんなんだから、思いついたことは冗談が一片だけ。


「え、なんかあったっけ?」

「別棟のこと、言わない約束」

「あは、あれはノーカン! 私の言ってる約束とか予定っていうのは、もっとこう甘酸っぱいやつで……こうさぁ」

「分かってるよ、ははっ」


渡辺さんは、身振り手振りで懸命に説明しようとする。違うことは百も承知だ。しかし、あの約束だけは守られなければ二人ともやっていけないのもまた確かな話である。色恋沙汰のように、素敵なものではないけれど。


「川中くんが紹介してくれたらいいんだけどなぁ。大石くん」


渡辺さんがペンを耳にかけ、肘を両頬について言う。集中の糸は、すっかり途切れてしまったようだ。


「……いいけど。だったら、代わりに──」

「それは無理! んー、なんとかならないかなぁ」


吉良さんとの予定で、クリスマスが埋まるならどれだけ幸せか。受験のことすべてを一旦忘れて、店の下見に行ったりプレゼント探しに奔走してしまう自信がある。けれど、名前を言う以前に否定されているようでは、望み薄もいいところだ。何千倍希釈。だったら、余計なことは考えず勉強に専念する方がいい。


「だろー? 諦めろ、諦めろ。それに葵は忙しいんだよ、受験生だし、商店街の師走行事もあるし」

「……え、大石くん?」

「ん、葵が忙しいのはいつもだよ。もしかしたらすでにクリスマスだって──」

「そ、そうじゃなくて、そこ」

「俺がなに?」


聞き覚えのある声が後方から聞こえた。

斜め前では、渡辺さんが俺の背後を指差して口が半開きのまま固まっている。振り返ると、葵本人がいた。清流のように、少しウェーブのかかった髪が笑って微かに揺れる。


「さっきぶりだな、勉強会か?」


驚いたけれど、悟られぬようにして俺は言葉を返す。既に半分得意げに口角が上向いていた、素直に反応すればさらにその傾きが急になるだろうことは目に見えていた。


「……そんなとこ。葵はなんでここに?」

「その師走祭の打ち合わせで父親に駆り出されたんだよ、雑用係として」

「そうか、偶然だな」

「ほんと。意外と真面目にやってるんだな、お前らしいよ。ところで、なんで俺の話?」

「……あぁそれは流れっていうか、大した理由じゃないんだが」


渡辺さんが葵のことを気にしているから、と俺が言うのは筋が違う。しかし、うまい言い訳もすぐには思いつかず、渡辺さんの方に目を泳がす。

そして、また驚かされる。さっきまでへたっと曲がっていた渡辺さんの背中がピンと張っていた。なんなら反り返っている。目はぱっちりと見開かれ、半分開いていた口はきゅっと真一文字に結ばれていた。


「大石くん、はじめまして! 三組の渡辺です。川中くんとは、同じ実家がパン屋で友達で──」


そして、この自己紹介。わたぱんでは最近はクロドが人気だとか、大石くんは好きな甘いパンってあるのとか。立て並べるように舌が回る。

突然の事態に思考回路が玉突きしてしまったらしかった。伝えたい内容が多すぎて、整理がついていない。まるで、この机の上と同じように。


「……えーと、コロネとか? ……よろしく!」


葵が引き攣り気味に返事をすると、それすら厭わない渡辺さんはぱーっと笑顔になって、また情報過多の話を再開する。

その様子を見た葵は俺の肩口まで来て、「彼女か? こういうタイプが好きなんだな。意外」、とだけ小声で言った。俺は単純に首を振って否定する。残酷なものだ。さすがにちゃんと聞いてやれよ、と思った。これだけ懸命にアピールしようとしているのだから、聞いてもやらないのは不憫というものだ。


けれど、その気になれないのも理解はできた。聞いても仕方ないぐらい、なにを話そうとしているか分からない。何型なの、とか最近見た映画は、とか。それ今必要なの、と疑問符のつくものばかり。説明しようとして、頭の代わりに手だけがぐるぐる回っている。新しい癖を見つけてしまった。


優しい(すぎる)葵は、よくやる愛想笑いでしばらく見守ってから、


「じゃあ俺行くわ。渡辺さんもまた。あぁそうだ。今年も師走行事頼むな」


俺の肩を二、三度叩いて、奥の方へ消えていった。老人会とばかり思っていたが、商店街会合だったようだ。

渡辺さんは、というと別れの挨拶もせず、去っていく葵の方を不動で見つめていた。

そして、姿が見えなくなった時には再びぐてっと机に倒れこんだ。まともに話せなかったことが、よほど響いたのだろう。拍子、決まりのように教科書が落ちたけれど、まともに取る気はないようで、伏せたまま足を伸ばして床を探る。

こうなったら、たぶん拾ってやってもまた落とす。俺がやれることといえば、傷が癒えるまでそっとしておくことだった。そう思ってペンを握りなおして、少し。


「幸せだ……」


渡辺さんがぼそり呟く。それは俺に向けて、というより独り言として。


「大石くんと話せた~」


落ち込んでもいないらしかった。むしろ上機嫌そうに頬が綻んでいる。その話が支離滅裂だった、AIのがましだったと口が滑りそうになったけれど、伝えない方が良さそうだ。


「コロネかぁ、帰ったら食べようかな」

「……ご飯前にかー? 太るぞ」

「余計なこと言わないでよ、水差し厳禁。話題作りになるかもじゃんー? 背に腹はかえられぬ、ってやつ。話せたことの方が腹なの。腹筋して絞るし」


嫌いなものさえプラスに変換してしまうとは、憧れは恐ろしい。一方で、お言葉の通りだとも思った。話せただけゼロから一への大きな進歩だ。俺はそれすらできていない。そう考えたら、途端に羨ましく思え始める。


「…….いいな」

「でしょー?」

「俺も話したい……」

「私は紹介しないよ。これは私が掴んだ幸運なんだから。せいぜい自分で掴むことね」

「やっぱり……?」


泣き落としは通じなかった。よっぽど機嫌がいいのか、語尾が少し跳ねるのが小憎らしい。


「そんなことより、ねぇ。さっき言ってた師走行事って商店街祭のこと?」


渡辺さんは相変わらず上半身は机に伏せたまま、顔だけあげて聞く。


「……ん、そうだけど」

「なにかやるの?」

「毎年、出張店舗出してるんだよ。葵の親父さんが計らってくれて、商店街のど真ん中で」


世はクリスマスセール、商店街では師走祭。

そう、昔からくさしてきた。商店街落成以来の伝統行事だそうで、この日ばかりは的屋も増え、マチキタにも普段に比べれば多くの人が訪れる。それでも、外れの大型モールの方が多いだろうけれど。

川中家はその中でも、最も人通りの多いメインストリートの真ん中に店舗を構えてきた。息子の親友というよしみ一つで。小麦の香ばしい匂いに釣られて買い求める客は多く、毎年出店は大好評。一年でこの日の売上が最も大きい。川中家としては万々歳、しかし大変さもある。この日も本店の方を閉めてしまうわけではなく、二店同時営業となるのだ。露店を担当するのは、俺一人の役割になっている。ここ数年はパンを褒美にして釣り、良太にも手伝ってもらいながらやってきた。


「それさ、私もやりたい!」

「……は?」

「同じパン屋でしょ。菓子パンと惣菜パンのコラボレーションとかどう!? たぶんもっと売上伸びるよ!」


渡辺さんは急に身体ごと上げて、俺の肩を興奮気味に揺する。


「俺らだけで勝手に決めれるような話でもないだろ……っていうか」

「なに?」

「……葵と関わりたいだけだろ」魂胆が分かりやすく見え透いていた。

「まぁねー、今日で光明も見えたし!」


もはや隠すつもりもないようだ。スイッチの入った渡辺さんは、突飛な案を勝手に挙げ始める。だが、そう簡単に頷くわけにはいかなかった。このまま一人だけうまく行かれるのは、癪にさわる。それに、大人の事情だってあるはずだ。そう簡単に一つ返事で許しが出るとは思えない。


「あのなぁ、あんまり勝手言うなよ」

「言ってないよー、案出してるだけだし」

「それを勝手って言ってるんだろ」

「はぁ。そんなケチばっかり言ってるから、運が回ってこないんじゃない?」


そう言われると確からしい気もして、納得しかけたりなんかして。いいやないと自分の中で点きかけた火をもみ消した。


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