テニスボールと海と錆

第15話 テニスボールと海と錆(1)



テニスボールが、ネットに引っかかっている。網目に食い込み楕円にひしゃげている。押しても引いても取れそうにないほど、ひどく歪んで。

背景には海が広がっている。潮騒の音がする。磯に混じって金錆の匂いがした。



    ***



     一



日曜日の夕方、俺、川中大雅は商店街の外れにあるぼろ家屋にいた。


築四十年、木造二階建て、長屋つき。見てくれは完全に古民家なのだが、内は意外にも洋式改装の施された折衷様式。床は畳ではなくゴム製で、襖ではなく鉄製の扉がある。老夫婦かその亡霊でも住んでいそうな外見とはうらはらに、入ってすぐの受付にいるのはスーツで身を固めた役場の人。

ソファチェアに深々と座り込んで、書類の整理をしているのやら居眠りをしているのやら。舟を漕ぐようにチェアを揺らしている。その扉一つ挟んだ先では、老人会でも開かれているのだろうか。時たま、それらしい笑い声が漏れ聞こえてきていた。


一応、ここがこの町の公民館だ。築年数、耐震強度、利用者減の問題から近々の取り壊しが検討されているらしい。老人ホームになるのでは、という噂も聞いたことがある。そんなオンボロ公民館に、ひとテーブルだけ設けられた小さな自習スペースを利用して全体にノートや教科書を広げる。六人掛けを一人で、というほど俺は横暴ではい。むしろ遠慮して、一人分のスペースしか使っていないくらいだ。残りの大半を占領しているのは、


「────で、その子どもの義家って人が清原氏の内輪もめを抑えたのが後三年の役って感じ!」


渡辺さん。先にキーホルダーのついたシャーペンで、自筆のノートを叩く。

俺は話を聞くのも半分に、俺はペン蓋に揺れるそのキーホルダーを見つめていた。キャラものなのは確かだが、モチーフが分からない。うさぎのようで、猫のようで、はたまた犬のよう。


「ねぇ聞いてるの?」

「……あぁ、うん」

「本当に? じゃあ前九年の役は、誰が何したの」

「……えっと、清宮氏が」

「それは後三年だってば。っていうか、清原だし。野球じゃないよ。ノート見て」

促されてようやく、ノートの方に目を移す。既にペンで辺りが二重三重と囲まれていた。その部分をまま読み上げる。

「前九年は、頼義と安倍氏…………」

「そう。ぼーっとしてたらもう教えないよ」

「ごめん、これが気になってさ」

「……ん、この子?」


渡辺さんが、シャーペンの蓋を外す。改めて見ても、正体が掴めない。


「うん、なんの動物?」

「あー、確かに意外と難しいかも。わりとマイナーだし。なんでしょう、当ててみて」

「カワウソとか」難しいと言われて、たまたま思い浮かんだ。

「あぁでもそんな感じ。これねぇ、ラッコのコーコちゃん。ほら、ここ見て」


言われてよく目を凝らし、初めて貝がらがあるのに気づく。すっかり色が褪せて本体と同化してしまっていた。


「……これ、いつから使ってるんだ?」

「いつだったかな、小学生くらいに水族館のお土産で買ったんだったと思う」

「ずいぶん物持ちいいな」

「それがさ、最近別の探し物してたら、机の引き出しから出てきたの、ぽろっと。それで懐かしくて」

「……掘り出し物だな」

「そういうことってない? 掃除とか探し物してると、昔の流行りものとか意外とその辺から転がり出てくるんだよね」

「んー、ないかなぁ。俺、片付け好きだから」


何の気なしにそう言ってしまってすぐ、「あ」と思わず発す。

まずった。こう言ってしまうと、まるで渡辺さんが整理整頓できないみたく聞こえる。机一面に教科書を広げ、ノートを平積みにしているあたり本当に苦手なのだろうけれど。渡辺さんはしばし固まったあと、


「というか勉強するんでしょ。雑談してる場合じゃない」


そそくさとノートの山を鞄にしまいはじめる。誤魔化しにきているのは明らかだった。こちらとしても望むところである。

しかし、横着はむしろ手間を増やす。下手に崩したせいで、雪崩となって一部が床に落ちていった。俺はあえてなにも語らず席を立って、デスクの下に屈む。椅子に座ったまま背をへの字に曲げて、教科書を拾おうとする渡辺さんと、目が合った。


「な、なに」

「……なんにも言ってない」


たしかになにも言っていない。目が勝手に「また横着して」と呆れを物語っていたのかもはしれないが。俺は拾い上げた教科書を角が合うよう整えて、渡辺さんの方に差し出す。


「…………これみよがしの綺麗好きアピールやめてくれない?」

「いや、そんなつもりはないっての。また落としたら、面倒だろ」

「あのね、私だってやろうと思えば整理くらい──」


やろうと思えば、は渡辺さんの口癖だ。短い付き合いだけれど、もう何度も聞いた。しかし、大抵うまくはいかない。言ったそばから、お次とばかり手を滑らしていた。折角まとめた教科書が再びばらばらと床に散らばる。


少しの間をおいて、ため息が二つ重なった。出会った当初と比べて、妙なところだけ息が合うようになった気がする。またしても俺は教科書を拾いあげる。間からはコンタクトレンズの割引チラシが飛び出てきた。


どこに挟んでいるんだ、とさらに呆れたけれどそれは見なかったことにしてやり、教科書にこっそり挟み戻す。二度の反省を生かし、教科書が鞄に入れられるところまでをしかと見届けた。 勉強以外のところで、一苦労である。

だが、あくまで勉強をしにきていることも忘れてはいない。気を取り直して、山川の教科書と対峙する。長らく留まっていた飛鳥時代を抜け出して、今や平安時代も中期にまで差し掛かっていた。


「ノート借りていい?」

「いいよ、はい」


俺の打診に、快くノートが渡される。実に雑に、方向は知ってか知らずか逆さ。俺は文句ひとつ言わずに受け取った、言っても下手な揉め事に発展するだけなのは見え透いている。


「……あ、私も英語の文法書貸してほしいかも」


せめてもの抵抗だ。当てつけでもするように、両手を添えて手渡した。

あの渡り廊下での和解以来、俺と渡辺さんは少しずつ連絡を取り合う仲になっていた。まだ友達とまで言い切れないにしても、知り合い以上ではあって、今みたく公民館で一緒に勉強することもある。たまたま、各々の不得意科目がうまい具合に噛み合っていた。俺は日本史で、渡辺さんは英語。話の流れから、お互いに教え合うことになって今日で三回目を数える。

とは言っても、どうしようもない世間話に華を咲かせてばかりで、まともに勉強をしている時間は全体の三分の一にも満たない。自習の時より総時間は、明らかに減っている。それでも、一人で家にいるよりは全然ましだと渡辺さんは弁舌を振るう。

そもそもどこまでやる気があるのか疑わしい。この間の日曜日なんかは、長期戦だから、と菓子や飲み物の類を大量に持ち込み、館長直々にお説教を受けていた。さしもの渡辺さんもその日は、真面目に勉強をしていた。


「勉強会で本当に勉強したの初めてかも。頭痛い」


とは、その日を渡辺さんが振り返った言葉だ。

最初から未だに小競り合いは尽きないが、会うたびに、親密になってきてはいる。軽口を叩き会う回数も増えた。しかし、当然ぎこちなさが全て消えたというわけではない。

座るのは、お互いの真横や真正面ではなく、一つずれて斜め前だ。俺の正面に座っているのは、渡辺さんの縫い目のよれたかばん。例にも漏れず、ゲーセンで取ったと思しきクマのぬいぐるみがついている。背中の毛が抜けてクリーム色に変色していた。


「ねぇ川中くん、ここの文法ってなんでこうなるんだっけ」

「……あぁ、ここは──」


それに呼び方だってまだ「くん」づけと「さん」づけ、他人行儀だと言える。けれど、内心そういう関係も悪くないかと思っていた。なにも関係の発展を求めているわけじゃないのだ。吉良さんと取りなしてもらえたら、とは思わないでもなかったが、今はそこまで望むまい。余計な連絡は取らない、干渉もしない、学校では赤の他人。けれど、たまに会って机を囲み、パン屋の愚痴をこぼし、勉強する。それだけの関係が十分、事足りて思えた。


それ以降は、集中して取り組むことができた。ご飯時の七時過ぎまでやって、その場で別れる。どこかで続きを、とか送ろうかなんて話には全くならずあっさりと。いわば、そういうある種冷めた関係が、俺には心地いいのかもしれない。

帰り道には、それに似た秋風が巻いていた。疲れで熱を持った頭が冷めていくのが気持ちいい。浸りながらゆっくりと、商店街を一人北へと進んだ。通学路であり、生活路。目に入るもの全てが見慣れている。今さら面白いものなどない、ぼうっと見渡しながら、歩いた。


降りたシャッター、人通りが少なくがらんとした道、ぶち模様の野良猫。「マチキタ商店街」と書かれたのぼりが虚しく風にたなびくのも、今朝と全く同じ光景だ。

実につまらない、改めて思った。主観的に見てはもちろんなら、客観的に見てもそう。閑散としている。「商店街」とは名目だけで、その実ここはシャッター街だ。開いている店舗はほとんどなく、一部の開いている店さえ繁盛しているようには伺えない。人の代わりに、シャッターが無言で行列をなしている。

俺が物心つく頃には、既にこの様だった。マチキタにほとんど商店はなく、祭事の時だけ露店が並ぶ。小学校からの帰りがけは、よくシャッターに石ころを蹴りつけて遊んだものだ。普通なら大目玉ものなのに、誰にも注意されないのが面白くどこか悲しくもあった。


ここも昔は、もっと繁盛していたらしい。いつか、酒に酔った親父が昔話をするように語っていた。

常に人足が絶えなかった。人がどこからか、わらわらと集まり、狭い路が人でごった返していた。酔っ払いが道端にへたり込み、スナックから漏れるは拳の効いた演歌。そんな客が帰り際にお土産としてパンを買って帰るから、店は毎日売り切れ寸前大盛況。それが平常だった、と。しかし、今やその面影さえない。狭い路に転がっているのは石ころやいつ捨てられたかさえ定かではないペットボトルで、演歌どころか、静かすぎて自分の足音が聞こえる。これがまた冬間近の乾燥した空気にはよく響いた。あの別棟廊下と大差ないほど。


この現状が俺にとっての平常だ。だから、昔は、と言われて想像してもうまくいかなかった。いわば歴史と同じだ。桓武天皇が即位した、応仁の乱が起こった。そういう年表で見るだけで流してしまう嘘か真かはっきりしない、自分とは縁遠いもののひとつに、「この商店街が栄えていた」という項目がある。


廃れた理由は、バブル崩壊の煽りが直撃したことらしい。これも酔った親父が語っていたことだ。南側の商店は駅に近いこともあり、なんとか持ち堪えたが、距離の利のない北側はドミノ倒しのように閉店が続いたのだとか。以来、景気の燻りと同調するように去った店は帰ってこず。店が減れば、客が減る。客が減れば、さらに店が減る。悪循環に陥った末、今に至った。「うちが持ち堪えているのは、ひたむきにパンに向き合っているから」、と自慢もしていたっけ。


しかし、川中家にとっても閉店は決して人ごとではない。売上低迷で苦しい家計は、首の皮一枚を切り貼りして継いでいるのがやっとだ。本当は転職でもしてほしいのだが、もう知命。今さら無理がある。


もしパン屋の子でなかったら、とは昔から幾度も考えてきた。一般的な家庭で、並の給料を貰えるサラリーマンの子として生まれたなら。携帯電話の契約ひとつで大喧嘩して殴られることもなかっただろうし、大学進学だってここまで大事にはならなかったはずだ、と。


しかし、どれだけ考えてみても現実に立ち返れば、結局パン屋の子であることは変わらなかった。変則家庭の薄給ベーカリー、なに一つ普通なことなどないのだった。唯一できるのは、ただ毎日のようにパンを焼き、一日一日の売上を気にすることだけ。今日はどの程度売り上げただろうか、そう案じつつようやく家の前にたどり着いて、思わず、えと声が漏れた。


店舗の電気が消えていた。

不必要に洒落た看板だけが、明々と照らされている。

まだ七時半、営業終了まで一時間以上あるのに。全てを売り切ってしまって、早めに店を閉じたのだろうか。いいや、そんなのはこの方目にしたことがない。

まさか潰れた? 過ぎった言葉を、今朝出たときには営業していたはずだと否定する。家の玄関から入って、そのまま店の方へ急いだ。焦って電気をつけると、レジ台に一枚の置き手紙があるのを見つける。

そこに書かれていたのは、


夜逃げします───ではなくて、「晩御飯に行ってくるから、店番よろしくね」とラメの入ったデコペンで書かれた文字。慌てて携帯電話をチェックすると、母親から何件も同様のメッセージが届いていた。


どうせ母が外食に行きたいと頼み込んだのだろう、それに親父が絆されたに違いない。勝手だ、どこまでも。次に渡辺さんに会ったら愚痴ろうか。

店を見回してみれば、パンはそれなりに売れ残っていた。意外な人気が出て、定番商品化したあのカレーうどんパンも金網の上で眠っている。はぁ、と遣る瀬の無いため息が口を満たす。だが、瀬はなくともやるしかなかった。店の前に全品三十パーセントオフ(消費税込!)の看板を掲げる。だが、見てくれる人が少ないのではしょうがない。


メガホン片手に、タイムセール中だと叫ぶ。そこらの住人にも届くようにと声を張りあげた。パンは足が早い、流暢に客を待っていても始まらない。

その甲斐あってか売り切るまではいかなかったが、多くをさばいて営業時間を終える。両親が帰ってきたのは、図ったように店じまい作業の終わったすぐ後の時間だった。しきりに詫びる母を取りなし、用意されていたコンビニ弁当を食べて、自分の部屋へと引っこむ。


ベッドに身を投げたら、一日分の疲れがどっと出た。まだ風呂にも入っていない。明日の学校の用意もまだだ。他にも、色々放りはなしのことがある。寝入りそうになりながらも、一歩手前で堪える。しかし、どうにも身体が重く、起き上がれない。

もういいやと一度思ったら、そのまま浅い眠りに落ちていった。



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